「花形、キスして」
「はい?」
花形は、手に持っていた食べかけの肉まんを思わず落としそうになってしまった。
ここは、バスケ部々室。
すでに用はなくなっているはずの藤真と花形は、習慣とは恐ろしいもので、そろって退部をした後も、時々、こうしてバスケ部の部室を借りてはお昼ご飯なんぞを食べている。
今もそうした時間なのであるが、テーブルを挟んで花形の向かいに座っている藤真は、何を思ったか、急に「キスして」なんてことを言い出したのである。
時々、花形の考えも及ばないような突拍子もないことを言い出しては慌てさせてくれる藤真のことだから、そこは慣れているはずの花形だったが、流石に今のセリフには咄嗟には反応できなかった。二人きりとは言え、何時誰が入ってくるか分からない部室で、そんな頼みをされるとは思ってもいなかったからだ。
オレも、まだまだ修行が足りないな。だけど、なんだって、こう突然に言うかな。もっと、別の場所なら良いのに。それなら、キスだけじゃなくて、ってそう言うことじゃなくてだな…。
最初の一歩が出せなかったせいで、次ぎの行動も起こせないでいた。
折角こうしてせがんでいるのに、一向に何もしてこない花形に焦れた藤真は、唇を尖らせてしまう。
「早くしろよ、まったく。何してんだよ。したくない訳? 止めてもいいぞ」
ブツブツ怒っている藤真だが、さらに唇を突き出し、おまけに今度は目まで閉じてきている。
「早くったって…、まだ食べてる最中なのにさ…」
口をモゴモゴさせながら、未だ藤真の言う通りにしない花形であったが、食事中に急かされた事もあって、藤真をもう少し焦らしてみるのも良いかもしれない、なんて思い始めていた。
普段の思考回路であれば、そんな事は考えもしないのだが、なんと言っても、目の前で藤真が大人しく待っているものだから、ついそんな気になってしまっても、仕方がないところだろう。
―――目を閉じて、大人しくキスを待つ藤真。
藤真の顔を、しげしげと眺めながら、花形は思う。
夏にあんなに日に焼けたはずの肌は、すっかり元通りになっていて、男にしておくには勿体無いと思われるような白い肌をしていて、顔立ちも相変わらず整っている。
睫は、影を落とすほどに長く、頬も唇もふっくらとしていて、おまけに、色合いも程よく良い。
綺麗だと思う。男に使う言葉ではないだろうけれど。
ただし、綺麗ばかりではない事を、この三年間で嫌というほど思い知らされている花形でもあった。
道を誤ったかもしれないと思わない訳でもなく。正直、時々、辛いなぁと思うこともあったりする。けれど、惚れた弱みとは偉大なもので、なんだかんだ言いながらも甘やかせてばかりいる。
そんな自分が、贅沢だと分かっていても、ちょっぴり悔しかったりもするのである。
なんせ、藤真ときたら我侭だもん。振り回されてばかりだし……
とかなんとか、色々と考えていると、焦らされてる藤真から叱責の言葉が飛んでくる。
「花形、キスするのかしないのか、どっちなんだよっ! まったくさぁ……」
「はいはい、します、しますよ」
そんなに急かさなくても良いのにと、何となく、このまま言われるままに素直にキスしてやるのも悔しいと思った時、ぽつん、とある思い付きが頭を過った。
たまには…、たまには良いよな、これくらいさ…
そう自分に言い訳をして花形は、目を閉じている藤真の唇に、食べかけの肉まんをちょこんとあてたのである。
少しの間の後、ほんのり頬を染めて目をぱちくりさせている藤真は、急かしていた先程までとは違い、その口元を嬉しそうに綻ばせている。
花形は、そんな藤真を見て、少しばかりの罪悪感に苛まれながらも、小さな悪戯をしてしまった自分が可笑しくて、笑いを堪えるのに必死だ。
藤真をよくよく見れば、百面相をしていなくもない花形に疑惑の眼差しを向けている。
「花形、おまえ、ちゃんとキスしたのか? ひょっとして―――」
「まさか、ちゃんとキスしたよ」
「そう?」
「なんなら、もう一度しようか?」
「いいよ、もう。それより、花形にお礼しなくちゃな」
普通ならもっと追求してきてもいいところなのに、あっさりと引き下がった藤真は、制服のポケットから何かを取り出したように見えて――。
「花形、口開けて」
「え?」
ポカンと口を開けたまま、何の事かわからないでいると、藤真の腕がさっと伸びてきて、口の中に何かを放り込まれてしまった。
「な、何だよ、いきなり……。え、なに、これ、チョコ?」
「オレからの精一杯の愛情の印だ。しっかり受け取ってくれよな」
少し溶けてしまったそれを指に挟んでそろ〜りと口から取り出してみれば、それは、袋入りで売っている”アルファベット・チョコ”だった。スーパー等でひと袋200円くらいで売っているもので、その中の一つを藤真は花形の口に放りこんだのだ。
ふと、今日がバレンタイン・デーだったことを花形は思い出した。と言うことは…。
なんて安い愛情なんだ……。悪戯なんかした罰か……
もう一度口の中へチョコを放り込みながら、花形はなんとも言えない複雑な思いで、目の前で満足そうな顔をしている藤真を見るのだった。