如月堕ちて



 薄地のカーテンの透き間を通り抜けた朝の陽射しは、柔らかな温もりをたたえながら、うつ伏せに寝ている藤真の背中を暖めてくれている。夜中のうちに何度も寝返りを繰り返したせいか毛布が腰の辺りで包まっているが、肩まで引き上げる必要もないほどにそれはとても暖かく、軽く枕に顔を擦り付けるようにして起きかけていた藤真を、また眠りの中に誘い込んでいく。
 こんな時藤真は、決まって同じ夢を見る。


 ―――――
 ―――目の前に誰かいる。
 顔ははっきりと見えないのに、微笑んでいるのが判る。それにつられるように口元が綻ぶ自分が気恥ずかしくて、ついと俯いてしまう。
 何かが俯いた顎にふわりと触れる。それが指先だと薄ぼんやりと判る頃、顔を心持ち持ち上げられる。と、同時にそうっと覗き込まれる。
 じっと見つめられていて―――
 ようやくぼやけていた輪郭が鮮明になってくると、最初に黒渕眼鏡が見えてきた。ひどく印象的な感じがして。しばらくの間じっと見ていると、やっとそれが見覚えのある物である事が判ってくる。
 ああ、そうだった。背の高い彼だから、目を合わせる時はいつもそうやって背中を少し丸めて覗き込んできていた。忘れるはずなんてないのに、どうして思い出すのにこんなに時間がかかってしまうのだろ。
 なにもかもが時間を忘れたような世界の中にあって、記憶さえもあやふやな不思議な空間に浮いているような感じがする。
 思い出したことで安心して身体から強張ったものが抜けていくように少し微笑むと、目の前の彼はそんな自分に優しく微笑みを返しながら、何時ものように髪をくしゃくしゃと触ってくる。
 ああ…なんて気持ちが良い―――
 懐かしい仕草に誘われるように眼鏡越しの彼の瞳を捉えると、飽きるまで見つめていたくなってくる。嘘のない、真摯な誠実さを湛えた瞳だから。
 ふいに、彼の頬に触れたくて手を伸ばしてみた。あの時には言えなかった事を言いたくて。
 それなのに、こんなに近くにいて、直ぐ目の前なのに、どんなに手を伸ばしてみても、その身体に触れる事ができない。目の前から逃げ出したりしていないのに、どうしても触れることができない。必死に手を伸ばしているのにもどかしくて、どうにかなってしまいそうだ。

 どうして、触れさせてくれないの?
 許してくれないんだ、あの言葉…
 ―――――


 藤真は静かに目を開けた。
 シーツにも朝の陽射しが当たって暖かくなっている。自分はその温もりを彼だと思って、寝ている間に無意識に腕を伸ばし手に感じていたのだろう。そこに花形はいないと判っていても。夢の中でも彼に触れたくて必死に腕を伸ばしていた。
 そんな自分が、藤真には酷く切なかった。

 結局は叶わぬ想いに過ぎなかったのだろうか。
 彼の発した言葉の意味はなんだったのだろうか。
 二人の気持ちが交わることは、本当になかったのだろうか。
 何もかもがあやふやで、不確かな感覚しか残っていない。

 物心付いた頃から自分にはバスケットが側にあり、それだけに執着していたと言っても過言ではない。それなのに、バスケット以外にもこんなにも執着するものができたことに、自分自身が驚いている。
 花形に対する気持ちが、普通の部活の仲間から信頼できる親友になり、それを越えた恋だと気が付いた時から、自分だけを見ていて欲しい。向ける笑顔は自分だけでいい。自分だけのものになって欲しい。自分の事だけでその心をいっぱいにして欲しい。
 ―――手に入れたい
 恋する気持ちの貪欲さに、自分自身の心なのにどうする事もできずいらだつ日々ばかりを過ごしていた。募る想いに眠れぬ夜も初めて経験した。
 欲しいものはただ一つ。それならば―――。
 抑えられない想いならば、いっそその想いに素直になればいいと思ったのだ。それだけしか考えられないのならば。
 この手に掴んで離れていかないように、ただひたすらにそれだけを思って。傷つけるつもりなんて、これっぽっちもなかった。


 ――― 俺のものになれよ、花形


 藤真は仰向けになって、また目を閉じた。
 自分の言葉に一瞬驚いたような表情を見せた花形の顔からすうっと表情が消えていった。そして。


 ――― 藤真の身体を貰えるなら…


 あれは、二人だけで残って練習をし終えた後の体育倉庫室だった。花形と初めて繋がれて一つになったとき心は、言い表わせられないほどに満たされた。
 と、同時に感じた無機質なあの感覚。打ち震えるほどに満たされた心の中に、一筋、たゆとうて堕ちていく冷たいものを感じずにはいられなかった。
 花形が自分の言葉に何を感じ、どんな解釈をつけて納得をし、あの返事をしたのかは判らない。今思えば、二人ともがお互いに欲しいものをとりあえず手に入るからとでもいうように交換し合っただけだったのだ。
 最初のボタンを掛け違えた。欲しくて欲しくて手に入れたくて、それだけしか見えていなかった、なんて不器用な自分。なんて不器用な恋なのだろう。
 自嘲気味な笑みを浮かべ、暖かな日差しの中、再び目を閉じた。

 自分にとっては身体への負担は大きかったが、それよりも花形を手に入れたことの方が気持ち的には勝っていた。とはいっても花形を受け入れる事は苦痛には変わりなく、心とは裏腹な態度で接してしまう事も多く、その事がかえって花形の心を遠ざけてしまったのだ。
 心の内は満たされていたのに、それを伝える術を知らずにいたばかりに、想いが花形に伝わる事はなかった。
 どんなに抱き合っていても。




 噛み締めているだろう唇の端から微かに漏れ出る声は確かに聞こえているはずなのに、背中に覆いかぶさるように後ろから穿ち続ける行為を止めようとはしない。花形の胸に当たっている藤真の背が小刻みに震えているのが、熱く打ち震えるような快感ではなく、緊張で強張らせているための震えであっても。
 手は苦痛から逃れるかのようにシーツを掻くようにして固く握り締められている。その手の上に花形が時折手を重ねてみても、指先だけで払いのけられる。労りなど必要ないとでも言いた気に。そうして、また、シーツを鷲掴みにして握り締める。負けず嫌いで意地っ張りな、こんな状況にあっても勝気な藤真らしいと、手を払いのけられた事に対しての落胆よりも、愛おしさのような不思議な感情の波が花形の中に押し寄せてくる。押し寄せてくるのに、藤真の手は氷のように冷たい。
 愛おしさに包まれている自分が酷く哀しいと思えるのだった。

 藤真の欲しがっているものを与える代わりに藤真からその代償をもらう。お互いに承知の上のことである。しかも、その話は藤真の方から持ちかけられたのだ。にも関わらず、今の藤真には全身で自分を拒絶しているようにしかみえない。男が男を受け入れると言う事が、藤真にとっては苦痛と屈辱の世界でしかなく、たとえ、それを許したのが自分自身だったとしても、無意識のうちに拒んでしまうのだろうか。
 愛しいと思えるようになってきた自分のように、藤真にも満たされるものはないのだろうか。



 藤真の望むもの。それは、自分の思い描いているチーム作りに他ならない。例え、どんなにエースとしての働きをしても、自分が最上級生になってチームを掌握しなければ実現は難しい。その時がくるまで、藤真はじっと待っていた。傍目にはいつもと変わらぬ練習熱心な一部員として、けれど、その心の内には熱く滾る思いを忍ばせていたのだ。
 そうして、やっとその時期がきた。
 花形は、藤真とともに主将と副主将を引き継いだ時から、藤真の元で最大限のバックアップをする覚悟でいた。
 一年生の入部当事から、花形や他の一年生達の一歩も二歩も先を歩いていた藤真は、周りからどんなに浮いた存在になっても、卓越したバスケセンスで人を惹きつけて止まなかった。そんな藤真と一緒にプレイをしたくて、追いかけて追いかけて、ようやくの思いで辿りついた立場が副主将だったのだから、その覚悟も生半可なものではなかった。
 そんな時にあの言葉をかけられた。


 ―――俺のものになれ、花形


 なってやる。ああ、藤真のものになってやるとも。お前と一緒ならどんなことだってやってやる。
 そこにあるのは純粋な気持ちだけのはず。それなのに、僅かな透き間をみつけて入り込んできてしまったものに、きっと二人とも支配されてしまったのだ。

 俺はいったいなにをしているのだろう…

 問うても、何度問うてみても見つからない答えに心は焦れてしまい、優しくしたいのにできない。
 反射的に逃げようとする肩を掴み、組み伏した藤真を後ろから未だ穿ち続けている。どんなものも粉々に打ち砕いてしまうかのように。



 堕ちていっている
 深く深く暗い底の見えない深さまで
 想いあっている心をふたりして道連れにしながら堕ちていっている
 藤真は朝の陽射しの柔らかな温もりに花形を想い
 花形は深くて暗い底に藤真をみつめながら