思いの向こう側



 気がつかないでいた想いがこの胸の奥にあると
 気がついてしまった時にはどうしようもないほど手遅れで

    

   思いの向こう側




 11月もなかばになると、夜は冷え込む。
 部活後の温まった身体をなるべく冷やしてしまわないように、藤真は少し身を丸めた。そして、目指す店までを足早に歩く。
 今夜はひとりでいたい。ひとりだけが良い。あの店へ。

 その店は、大学通りと言われる表通りを、この先三つ目の角を曲がって暫く歩いたところにある。少し古びた茶色いレンガに過ごしてきただろう年数が読み取れるような、そんな店だ。
 間口は狭く、通りから中に入っているために人目にはつきにくく、だからだろう、いつも客が少ない。そこが気に入った理由のひとつかもしれない。
 木の温もりのする扉を少し開けて中を覗くと、思っていたとおり誰も客はいなかった。こんな時間だから、大抵の学生達などは、酒が飲めるところや、大勢で騒げる店を選んでいる。
 ギィと言う音を立てて扉をさらに開けると、カウンターの中にいるマスターがこちらを向いて、軽く会釈をしてくれた。

「こんばんは…」

 当たり前の挨拶に返事をしないかわりに、手でどうぞと指し示された席は、いつも好んで座っている席だ。
 別に喋れない訳ではないマスターが、必要以上に話しかけてこないところも気に入って、時々、この店に来ている。置いてあるのはコーヒーだけで、後はトーストくらいしかない店だから、ここに来る連中は、余程の暇人か友達がいないか、それとも、今夜の俺のようにひとりになりたい奴くらいだろう。
 照明を少し落としたカウンターの一番端の椅子にスポーツバッグを置いて、そのとなりの席に座る。
 腰を落ち着けたところで、ふと見ればマスターが注文を待っていた。言葉は、ない。

「そう、だな。アメリカンを…。と思ったけど、やめた。少し苦いのにしてくれる?種類は何でも良い」
「畏まりました」

 棚に綺麗に並べられてある缶の中からひとつを選び、フィルターの中に一さじ二さじ入れて、丁寧に缶を締めている。
 お湯をゆっくりと注がれて、ぽこぽこと泡立つ様を見る。頬杖をついて、じっと見つめる。
 フィルターを通してたゆとうて落ちていくコーヒーの良い香りに包まれていると、不思議なほどに落ち着いてくる。
 酒は嗜む程度には飲めるが、もともとが好きではない。コーヒーだって、大学生になってからよく飲むようになっただけだ。けれど、とても身体の中にすとんと馴染んでくる感覚が好きで、酒に誘われてもまだ未成年だからと断って、この店に通ってくることが多い。
 目の前に静かに置かれたカップの中のコーヒーを見つめ、軽く頭を下げた。ありがとうは小さな声で。その声でマスターは何か気になったのか、いつもは聞いてこない事を聞いてきた。

「こんな時間ですから、軽く何か食べますか?トーストしかありませんが」

 スプーンを指先でつつきながら少し考えて。夕飯は学食で済ませてある。寮に帰っても何も食べるものもない。コーヒーに合うかどうかは判らないけれど、トーストくらいなら食べても良いだろうか。

「じや、一枚焼いてください」

 はい、と頭を下げて、カウンターの奥で、それでもゆっくりと用意を始める。
 また頬杖をついて、一口飲む。苦味に少し顔を顰める。
 いつもはアメリカンしか飲まないけれど、今夜は苦いものが欲しかった。苦味が消してくれるかもと、この胸の奥に灯る淡い想いを。気がつかなければ良かった。こんな辛いだけの想いには。
 何度も忘れたいと思った。もう、忘れてもいい頃だとも。どうせ会えないのだから、告げることもできないのだから。

 
 この店に来るたびに、いつも花形のことを思い出す。
 翔陽の頃、いつも一緒にいた。ふざけあって、声を立てて笑ったこともあるのに、浮かんでくるものは、ふたりして部室で向かい合って、黙ったまま日誌や練習メニューを考えていた時の事だ。どうしてそんな事を思い出すのか判らずに、いつも自問自答していた。
 何がきっかけだったかもう忘れてしまったけれど、あの男の事が好きだったんだと、今は素直に認めよう。
 それは、認めてしまわなければ、いつまで経っても心のうちのざわざわとしたささくれだっているものの正体が判らずに、変にイライラしてばかりで良いことがないからだ。
 落ち着いてくれない自身を何とか落ち着かせたくて、認めたようなもの。
 けれど、一度認めてしまえば、それはなんて自然な想いだったかを思い知らされて、俺ってなんて馬鹿なんだろうと、随分思ったっけ。

 最後に会ったのは、三月の終わりの頃の、あの時期にしてはとても暖かな日の新幹線のホームで。見送るのは柄じゃないからなんて言い訳を何度も自身に言い聞かせても、どうしても顔を見ておかなければいけないような気にさせられて、離れてしまう時間が迫るあの瞬間に、ふたりはホームにいた。

『何かあったら電話、よこせよな』
『馬鹿、ある訳ないじゃん。心配性』
『もしもの為にだよ』

 きっと照れ隠しだったのかもしれない。何かあったらなんて。それでも、強引に手の中に持たせてくれたテレホンカードは、今も大事にパスケースの中に入っていて、いつも一緒に歩いている。
 見てみようか、こんな夜だから。花形から貰った唯一の形のあるものだから。
 スポーツバッグの中を探してパスケースを手に取ると、なんだか手が震えている。
 ケースの中から取り出したテレホンカードには、あの時、さっと書き記した花形の、新しい下宿先の電話番号が書いてある。
 この番号の先に、耳にとても馴染んだ声がいるのかと思うと、それだけで安心してしまうなんて。良い意味での精神安定剤になっている。

 そっと指先で、電話番号をなぞってみる。
 そのとき、目の前にトーストが置かれ、パンの好い加減に焦げた香りが鼻腔をくすぐってくる。
 視線をまたカードに戻す。
 想いを伝えようとは思わない。あの頃の翔陽にあって、一緒に戦った同士で、親友なのだから。それでも、言わないけれど、判って欲しいとは思っている。きっとこれは意地だ。だって、何かあったら電話をよこせって。そんなの、何もない時には、かけることができないって事じゃないか。何かなければ、電話をかける理由がないのだから。

「あの馬鹿…」

 だけど、こんな夜だから。今日が、何時間もしないうちに終わってしまうから。
 ふいに店の扉の横にある小さな電話ボックスに目をやった。さして広くもない店の、ガラス戸で仕切られているだけの小さな電話ボックス。今まで、何度もこの店に来たことはあるのに、一度だってそこから電話をかけた事はない。
 けれど、今夜はきっと特別だから。それを理由にしてしまっても、誰にらも咎められることもない。
 そう思うと、心が吹っ切れた。

「ちょっと電話、借ります」

 マスターはまた、言葉の代わりに手で指し示してどうぞとしてくれただけ。今は、それが酷くありがたい。
 さあ、急いで。
 カードを手に持って、電話ボックスに入ってみると、ほんとに狭いボックスの中。受話器をとって、カードに書かれてある電話番号を確認して、カードを入れた。指し示された度数は5度。それだけあれば充分だ。長い話にはならない。
 少し震える指で番号をプッシュする。
 あの声を俺に聞かせてくれ。どうしているかと聞いてくれ。
 けれど、ああ…。

””花形透です。只今留守にしております。ピーと発信音の後に、ご用件をどうぞ””

 唇を噛み締める。声は聞けたのに、あいつの声だったのに、聞きたいのはそんな事じゃなかったから。
 せり上がってくる想いの痛みの辛さに、受話器を持つ手が震える。

「俺、俺だよ、藤真だよ。判ってるか、藤真だ。あのさ、今日お前の誕生日だろ。おめでと言ってやりたかったからさ、電話した。今から言うから、絶対聞き逃すなよ。誕生日、おめでと花形…」

 一気に喋って受話器を置いた。受話器を握っている手が、なんだか汗ばんでいる。
 どうして、あんな事くらいで緊張しているんだか。笑ってしまうじゃないか。
 ため息をひとつついて、また席に戻っていく。マスターと目があったけれど、どちらも何も言わなかった。やっぱりここの店は居心地が良い。

 席に戻って、冷めてしまったコーヒーをゆっくりと飲み干す。
 苦いコーヒーが胃の中へ、身体の中へ染み込んでくる。
 淡い恋心が苦い想いになって、自身の中にやっぱり染み込んでくる。
 切ない想いは、この先もきっと言えないままで過ぎていく。