てのひら



 薄く曇った窓ガラスの向こう側には、雪がちらほらと降り始めていた。朝、藤真が遅がけに家を出た時には霙交じりの雨だったが、午後を少し回った頃から気温もぐっと冷えてきたのだろう。このまま少しづつでも降り続いていけば、明日の朝には積もっているかもしれない。
 藤真は思う。例えそれが少しだけの積雪であっても、そんな日に無理を押して登校してくる必要がなくなる。登校しなければ、自分はきっと一日中家の中に閉じこもったままで暇を持て余しているに違いない。入寮の準備も手付かずに、何をする気も起こらないまま一日を終えてしまうだろうことが簡単に想像できる。
 気づかれないようにそっと小さな溜息をついた。
 理由が欲しい。なんでも良い。どんなつまらない事でも良い。会うための理由が欲しいと切実に思った。

「…真」

――― 時間がないんだ。会えるなら何だって良いのに…

「藤真って…」
「ん?」
 名前を呼ばれ振り向くと、花形が手を休めて藤真を見つめていた。何度か名前を呼んでくれていたらしい。
 バスケ部に在籍していた頃は何かにつけて神経を張り詰めさせてばかりいて、プライベートも何もなかったような生活をしていた。そんな二人も、最後の選抜を終えた後に部活動を退いてからは、部員の世話や部の細かな事を心配する必要もなくなり、今日のようにのんびりとした時間を過ごせるようになっていた。だからかもしれないが、この頃の花形の瞳は穏やかな色合いを湛えていて、藤真をゆったりとした気持ちにさせてくれる。それなのに、穏やかなはずの瞳にじっと見つめられていると、何を考えていたのか覚られてしまいそうで、後ろめたくもないのにその瞳から逃れたくなってしまう時がある。
「ごめ…、ちょっと考え事してたからさ」
 僅かに苦笑した後、窓の外に目をやる藤真だった。
 花形は何か言いかけたようだったが、藤真の言葉に柔らかく微笑むと、また、机の上のやりかけの仕事の続きを始めた。

 数日もすれば藤真も花形も卒業式を迎える。進学先はお互いにすでに決まっていて、補修を受けることもない二人には後は卒業式の練習くらいしか登校日がなかった。今、花形が書いている卒業式での答辞の草案作りにしても、わざわざ登校してきてまでする必要などなく、家ですれば良いのだけれど、藤真にとっても花形にしても、二人で過ごす時間がもう僅かしかなく、今日のような花形の用事くらいでしか会えない事が判っているから、二人してこうして登校してきているのだ。

 そっと花形を盗み見る。
 原稿用紙に向かい、口元を軽く開けたり閉じたりしながら、少し書いては確かめて、また鉛筆を走らせている。花形の手は、その身長に見合うように大きい。持っている鉛筆が殊更に小さく見えてしまうほどだ。字の方はと言うと丁寧に書かれていると思う。
 身長の高さもあって藤真よりも一回りも大きな身体をしているのに、その大きな手は愚鈍な動きをすることなく、時にしなやかにバスケットボールを自在に操り、何度となく試合の中の大事な場面で活躍してきた。頼れる手だった。
 また、試合が終わった後の背中をぽんと軽く叩いてくれた時や自分の髪をくしゃくしゃとする時に安心感を与えてくれる手でもあった。そんな大きな手が大好きだった。
 けれど、もう少しでそういうものとも別れなければいけない。会えなくなる。三年間の時間の中で触れ合えていたものと離れていってしまうのだ。
 寂しくなる。
 いや、それだけじゃない。小さな子供が、ひとりぽつんと公園の真ん中にいて、今まで側にいてくれたはずの親を探し回る時のような、不安な気持ちにもなってしまうだろう。あまりにも近くに居すぎたから。
 これから先、何を支えにしていけば良いのだろう。
 色々な思いが、藤真の中で交差する。

「…藤真?」
 突然、花形から声をかけられ、少し驚いたように顔を上げると、そこには、やはり優しい色を湛えた瞳があった。
「何?」
「何だか深刻そうな顔してたから。何か考え事?」
「いや…、何でもないよ」
 そう言って視線を落とす。視線の先には花形の手があった。
 そうだ。もう会えなくなるのだから。後、僅かしか時間がないのだから。
 上目遣いに、まだ藤真を見つめていた花形の瞳に訴えかける。言葉にもして。
「書いてるとこ悪いけど、ちょっと手、触らせてくれる?」
 突然の申し出に、花形は何も質問をすることなく、鉛筆を置いてどうぞと言うように両手を差し出してきてくれた。

 花形の手に触れる。その大きさを確かめるように触れた後、軽く握り締める。右手は鉛筆を持っていたせいか少し汗ばんでいる。手の平の柔らかさに少し驚く。以前にはきっとマメが出来ていて、多少は固くなっていたはずである。そんなところにも、もう、後少ししか時間がない事を教えてくれる。
 目を閉じて。自分の手の平に、花形の手の感触をしっかりと覚えさせるのだ。ずっと頼りにしてきた。甘えを見せた事もじゃれあって遊んだ事もある。一緒に三年間汗を流してきた事や最後の試合で流した涙を拭った事も。いろいろな思い出を全て手の平の感触と一緒に覚えておくのだ。

 目を開けて、花形を見つめる。ここまできたのだから、自分の中にだけ留めておく必要もない。聞きたかったことも聞けばよいのだと思った。
「なあ花形、大学では、もうバスケはしないのか?」
「ああ、しないよ。バスケ部には入らない」
 静かにはっきりと答える花形の声が、藤真の中に染み込んでくる。
「どうして?」
「藤真たちと、もう充分過ぎるほどやってきたからね。それに―――」
「それに?」
「藤真とも離れる。これ以上やる必要はないし意味もない」
 藤真は、花形を見つめながらその手をゆっくりと離した。眼鏡の向こうにある瞳の中にその言葉の真意を読み取ると、僅かに視線を落とし、
「そっか、俺を最後の思い出にしてくれるんだな」
「まあ、そういうことになるかな」
 少し笑みを含んだような声で簡単に答える花形は、すでに心に決めたことがあるようだった。
 また原稿用紙に向かいながら、まるで自分に言い聞かせるように、
「俺には、この三年間が全てだから」
 しんと静まり返った部屋に溶け込むような声でそう話す花形を、藤真は、見つめているだけしかできない。何かを聞くことも、これ以上は、もう必要ないのだと思った。
 仲間たちとともに過ごした三年間をしっかりと自分の中に忘れることなく刻み付けられていたら、それでいいのだと。

 窓の外に目をやると、雪は止んでいた。このままだと、明日も花形と会える。
 会う為の理由が欲しいと、先程までの切羽詰った考えしかなかった藤真とは、今は、少し違ってきている。
 もう、色々と考えるのは止めよう。残り少ない二人だけの時間なら、もっと大事に過ごそうと思った。
 理由なんて、なんでも良いじゃないか。登校しなければ会えないなんて、誰が決めた訳でもない事に拘る必要などどこにもないんだ。離れる時が、別れる日が本当に近くまできている。けれど、だからと言って落ち込んでいては、貴重な時間を無駄に過ごしてしまってはいなかったか。
 寂しがっている暇なんかありはしない。

「なぁ、花形…」
「ん?」
「明日…、映画でも観に行かないか」
「いいね、それも」
 原稿用紙から顔を離した花形が、少し笑っている。それにつられるように、藤真も笑った。
大切な、大切な時間なのだから。