その先にあるもの・・・



 その視線に気がついたのは偶然だった。



 体育館の中は、綿密に組まれた練習メニューをこなすために部員たちが寸暇を惜しんで動いていた。
 そんな合間、藤真は流れる汗を拭きながら、足元に転がってきたボールを取ろうと腰をかがめた。
 その時。
 ふと、何気なく上げた目線の先に。特に何かを感じたのではない。よくあるような、ただ普通に首を傾げ自然に目を合わせたというのが正しい。
 花形は小さな笑みを口元に作ったように見えて、つられて笑みを返した。
 それなのに。合っていた視線がふいに外された。その顔からは笑みは消えて、強張っているようにも見えた。

――― あ…

 あれは―――。
 見つめられていた。そう思った。何故だかわからないけれど、確信に近い思いだ。
 すると、不思議な感覚が湧き上がってくる。嫌悪感だとかそういうものではない。花形に見つめられていた。ほんの僅か含まれた熱い想いが込められていた視線で。あの視線の意味するものが何なのか、察しはつくのに、不愉快ではない。
 認めざるを得ない容姿ゆえに女ばかりでなく男からも言い寄られる事が多いのは、今までの経験から苦い記憶としてある。好奇の目に晒される事も無いわけじゃない。けれど、そういう喜ばしくないものから身を守り平静でいられるように、自分は随分大人になったと思う。

 花形のあの視線。
 一瞬垣間見たその視線に込められた意味を、自分は理解した。
 恋の色合いを湛えていた。あの花形が。
 それなのに、不愉快にもならず嫌悪感さえ浮かんでこないのは何故だろう。



 花形から目を離し、部員達の方へと顔を向ける。
「おーい、直ぐにボールを片付けろ。紅白試合する。花形、メンバー組んでくれ」
「了解」
 歯切れの良い返事が耳に届く。しっかりとした声をしている。
 ゆっくり振り向いて見ると、メンバー表を片手に四つの組を作っている。側にいる長谷川や伊藤に的確に指示を出しながら、そこにいるのは何時もの冷静沈着な花形だ。先ほどみせた小さな笑みも強張っているようにさえ見えた固い表情も窺い知る事はできない。まるで、先ほど見たものが幻でもあるかのような、それほどに花形はいつもとおなじ花形でいた。
 花形の側まで歩いていき、メンバー表を覗き込む。ちらと花形を見やり、
「これで良いな。すぐに試合を始めさせてくれ」
「オーケー、監督」
 口元が笑みを作ったのをじっと、けれどさりげなく見つめる。こんな間近に自分の顔があっても、花形は顔色ひとつかえない。

――― 思い過ごし…かな…

 そうなのかもしれない。いや、きっと、そうなのだろう。
 友人であり、親友といっても良い。戦友であり同士でもあり、主将と副主将。一言では言い表せられないような距離感の中で、誰よりも近くにいて信頼するに値する人。それが花形だ。
 一瞬見たあの視線の意味も、勘違いだったのだと思わせてくれるには充分すぎるほどふたりの関係は真摯であるはず。
 あるはずであるのに、そう感じたあの一瞬、自分は嫌な思いをしなかった。その事が不思議なほど心に引っかかるものがある。

――― どうして…

 けれど、それ以上を考え始めると、元に戻れそうにもないところまでいってしまいそうにも思えて、考えるのを止めた。
 頭を少し振って、僅かに残る思いを吹っ切って藤真は練習試合に集中した。







「今日の練習試合、よくできたと思うけど、明日はメンバーをちょっと変えてみてやってみよう」
「気になるとこ、あったかな?」
「特にって訳じゃないけど、なんかね、そう思ったんだ。だって…」
 電車の揺れに任せるように緩く身体を揺らせながら吊革に手を預ける。
 いつものように花形と電車に揺られながら帰る道すがら。練習の気になるところを思いつくままに花形に話していく。花形は藤真の話を遮って意見をすることはなく、じっと聞き役になっている。
 押し潰されそうな重圧からひと時の解放を得て、ストレスのかからないように花形は接してくれている。とても心地よい。柔らかな毛布のように、ふわふわしている。
 こんな花形との関係。
 それでも、話をしながら、頭の片隅に今日見た花形の視線を思い出してみる。
 気遣ってくれている事は重々承知しているけれど、花形はあの一瞬に垣間見せたあの視線の持つ意味を、決して身体からも言葉の端からも滲ませないようにしている。鉄壁なガードだ。柔らかなものの内側に一枚、何も染み込む事のないものを纏っているような気さえする。
 それなのに、どうしてあの時だけ、偶然とは言え見詰め合ってしまったのか。
 思い過ごしと言えるものなのか。本当にそうなのか。

 花形が電車を降りて、窓越しに手を軽く振って別れる。いつものことだ。
 ただ、走り出した電車の中から、花形が見えなくなってしまうその時にふと振り返ってみた。
 また一瞬。
 花形がこっちを見ていた。振り向かないと知っていて見ていたのだろう。いつもは振り向かないのだから。

 電車のドアに凭れて思う。
 窓の外は夜の九時を過ぎて暗い。その夜の中に、ぽつぽつと街の明かりが見えて。真っ暗闇じゃない、少しの明かりがあることでとても安心する。
 花形の存在は、実はそんなところにあるんじゃないだろうか。
 独りぼっちじゃないと思わせてくれる。安心感をくれる。だから、前だけを向いて突っ走れる。頑張れる。
 花形は、多分自分の気持ちを伝えてはこない。その代わり、そっと見つめてくるだけ。
 堪らなく辛くなって、あの大きな手に縋りたくなった時があったとしたら、何も言わずに差し出してくれるだろう。親友として同士としての手を。
 あの視線の意味を、そおっと身体の中に溶け込ませて、けれど、二人のためにも応えることはしない。その方が良い。きっと。


――― 俺は…ずるいのかもな、花形…


 壊してしまいたくないのだ、今の関係を。
 窓ガラスに映る自分の顔。なんて顔をしているのだろう。
 見ていたくなくて目を閉じた。

 いつか、応えられる時がきたら…。