シャツのボタンを留めようとしたとき、ドアの開く音が聞こえた。
振り向いてその背の高い男を見止めると、自然と口元が綻ぶ。胸の奥にツンとした小さな痛みのようなものを一緒に連れて。
彼がドアを後ろ手に閉める短い間、瞬きもせずに見つめても気づかれることはない。それはほんの一瞬の自身の変化でしかないからだ。
でも、どうなんだろう。
こんな僅かな変化さえ見逃さずに気づいてほしい。花形にだけは。
――― 今更…かな…
「今頃かよ花形。遅かったな。丁寧にどこを洗ってたんだ?」
肩にタオルをかけた格好の花形は、声の主に顔をむけて苦笑いも含ませて口元に笑みを浮かべた。
「他の部の奴ら、もう帰っちまってたろ。俺達だけかな、残ってるの?」
「みたいだな。藤真に付き合ってるとこんな時間になってしまう。ま、いつもの事だけど、って、俺はお前ほどゆっくりはシャワーは使わないよ」
「お、俺だって…そんなゆっくりは…」
「藤真は……いや、なんでもない」
「なんだよなんだよ、言えよ、お前…」
「いや、なんて言うか、藤真も口を尖らせることがあるんだなって思って」
「っ、花形のばーか」
「冗談だよ」
軽い嫌味のような言葉を発しながら互いに顔を見合わせて吹き出してしまう。そんな時の花形の瞳の色は柔らかい。
いつだったか、彼は言っていた。監督を兼任している藤真とふたりきりで、他の部員が帰った後の肩書き抜きでの練習が楽しいと。時間が短すぎて、それがどんなに物足りなく感じても、それ以上に満たされるものがあるんだと。
何となく心がくすぐったくなった事を覚えている。
心がくすぐったくて、温かくなって―――。
隣のロッカーを開けて、花形は中にかけてあるシャツを取り出した。腕を通し始め、しかし、感じたのだろう。
「何だよ、俺の顔に何かついてるのか?」
また、花形を見つめていたらしい。
変に思われただろうか。何か、なにか言い訳を。
「違うよ。髪がまだ濡れてる。ほら…」
顎で示した床が、花形の髪からぽたぽたと落ちた水で濡れていた。
「ああ、ごめん。後で拭いておくよ…」
「ばーか、違うって。それじゃ風邪引くだろーが」
そう言うなり自分のロッカーの中からタオルを引っつかむと、花形の髪を拭き始めた。
「良いって藤真、自分でやるから」
嫌がる花形の言葉には無視を決め込んだ。
「良いから良いから、俺に拭かせろって」
「藤真…」
――― こんなチャンス、めったにあるもんじゃないって…
シャツ越しではあるけれど、肩にぴたりと寄り添うようにして背伸びをしながら髪を拭く心地良さったら。肌の感触や息遣いが真近かに感じられて、胸の鼓動がやけに早くなる。
ああ、なんて嬉しいんだろ。なのに、嬉しいのに苦しさを感じる。鼓動の早さは痛みも伴うから。
けれど、こうして直に触れ合うことが皆無な関係でしかないから、嬉しくて。嬉しくて、でもやっぱり苦しくて。
「あは、少しはましになったろ?」
背伸びをやめながらタオルを持つ手を肩で休ませてもらい、花形がメガネをかけるまでの少しの間にその瞳を見つめる。と、見つめ返されて。唇が、僅かに何か言いたげに開けかけるのを遮って。
「あれ、まだちゃんと拭けてない?」
今度はタオル越しではない手で髪に触れる。
硬そうにみえても本当は柔らかな髪。まだ濡れている髪は冷たいのに、触れる指の先から一瞬のうちに身体を侵食するように熱となって駆け抜けていく。瞬間、身体が震える。
「…あ…」
「藤真?」
「…ん?」
くす、と笑う花形がわからない。
自分は今、どんな顔をしているんだろう。
「どうした? 顔が紅い。熱でもあるのか?」
そう言うなり、額に手のひらを当ててくるものだから、尚も身体が震える。
「ちっ違う、違うって、熱なんてないからっ…違うからっ…」
慌てて花形の手を振り払おうとしたとき、多分、かなり動揺していたんだと思う。
「藤真っ、ほろ、そんなに振り払わなくても―――」
手を掴まれて、瞬間に鼓動が跳ねる。
強くはない力なのに、どうしようもなく焦ってしまって、花形の手から逃れようと右手で胸を押した時、濡れていた床に二人とも足を取られてしまって、もつれ合う様に倒れてしまった。
部屋の引っくり返る様子を見ながら、それから目を瞑って―――ドンと言う音だけが響いた。
――― あれ…
倒れたのに痛くない。
咄嗟には理解できなくて。
「痛ったぁー…」
「花形っ」
自分を庇うように倒れた花形は、したたかに床で背中を打ったらしい。
「ごめ、俺……。大丈夫、じゃないよな、花形…」
「大丈夫だよ。ただ、ちょっと、まだ起きられない。ちょっと待って…」
「お前…、そうだ、メガネは?」
二人、倒れたままであたりを見渡すと、壁のほうに転がっているメガネを見つけた。
無事のようだ。よかった。
「藤真こそ大丈夫か?」
「ああ…。花形が下敷きになってくれたおかげで助かった。ごめん…」
「そんな顔するなって、藤真に怪我がなくて良かったよ…」
「…」
何も言えず、動くこともできず。ただ、倒れたときのまま腕を掴まれたままに花形を見つめる。
顔を近づける。こんな間近に彼の瞳を見るなんて。
ともに唇が何か言いたげに開かれるが、声も何の言葉さえ出てこない。
腕を掴んでいた左手が、頬を撫でてくれる。その手触りは硬いのに、なんて優しいのか。親指が目の下をなぞり、唇にも触れてくる。
――― ああ…たまらない……
自身の中にずっと燻ってきた想いのすべてをかけて、目を閉じた。
花形の手が頬から髪へ、梳くようにそうして撫でられる。
心地良さにうっとりしていると、右手が腕から離れて背に回されてきた。
抱きしめられる腕の強さに負けて、身体から力が抜けていった。
もう、何も迷うことはない。
唇に感じる吐息が熱いのは、待っていてくれているから。
触れ合ったその時、頭の後ろの手に微かに力が篭ったのが判った。
重ねた唇は、どうしようもなく次を望んでいる。
小さく開けてみる。と、意思を持った柔らかなものが忍び込んできた。
もう止まらない。
舌を絡み合わせながら、花形は互いの身体を反転させて圧し掛かってきた。
ちゅっと濡れた音をさせて唇が離れる。
「いいのか?」
ゆっくり目を開けて、瞬きをすることで返事をした。
迷いはない。そんなものは、好きだと認めた時から捨てていた。
これから続く時間の中で、自分がどんな風になるのか。
互いに変わってしまうかもしれない。大切な仲間で親友で、一年の頃はクラスメイトでもあった。いつから焦がれる想いに、こんなにも捕らわれていたのだろう。
何も考えまい。委ねるだけで良い。
この身体の中で燻り続けた熱を、今、解放してやるのだ。
花形の背中に両手を回した。