カタカタと、規則正しい音を立ててキーを打つ音だけが部屋の中に響く、そんな静かな夜。
花形は、会社から持ち帰りの仕事の続きを、自分の家でしていた。
キーボードの横には灰皿と飲みかけのコーヒー。そして、一枚の葉書が置かれている。
今が何時なのか知ろうとして、壁掛け時計を見上げた。すでに時刻は日付を変えていた。
花形はキーを打つ手を休め、眼鏡をとると、右手の人差し指でこめかみを押さえた。
ここのところ、残業続きで相当に疲れが貯まっているようだと思った。肩もこっている。
肩を揉み解しながら、首を左右に振る。
そして、気にはなっていたが、あえて目を逸らしていた物に手を伸ばした。
毎年届く、一枚の葉書。
差出人は、高校時代の友、藤真からだ。
友人。親友。戦友とも言える間柄。他に呼べるものがあるととしたら、初恋の相手でもあるという事。
17歳の頃、この想いが何なのか判らずに、ずっともやもやとしたものを引きずって18歳を迎えた頃に、ようやくその正体に気がついた。
きっかけは、今でもはっきりと思い出せる。
藤真からのぶっきらぼうに近い状態で言われた、誕生日祝いの言葉を聞いた時だ。その時に彼への想いを自覚した。
ちりちりと焼け付くような熱に似たそれが、恋だと判った時、けれど、気持ちを伝える事は結局はしなかった。
伝えて、彼の側にいられなくなるよりは、自分の心の内にだけ仕舞い込んで、一番近しい友として彼と接する事を選んだのだ。淡い想い。10代の幼い恋だった。
辛くなかったと言えば嘘になる。
彼のくるくる変わる明るい表情に、ついとつられて触れてみたくなってしまうことは、一度や二度ではなかった。
湧き上がる衝動に胸を焦がす事があっても、それをやりすごす術を覚え、いつしか、それに慣れていった自分がいた。
あれから、もう何年が過ぎたろうか。
お互いの進路の違いから、高校を卒業すると同時に離れ離れになっていった藤真。
一緒に居なかった事、大学生活が思っていた以上に忙しかったこともあって、心の中の想いは変わらずにあるものの、しらずしらずのうちに、隅のほうへと追いやられていっていた。
忘れていたわけではないけれど、それでも、思い出すことが殆どなくなっていた頃に、突然。
そう、ほんとうに突然のように送られてきた葉書。
『誕生日、おめでとう』
たった一言だけの便り。
それだけで、長年隅に追いやっていた想いが、また、心の大半を占めるようになっている。
時が流れ、きっとセピア色になっていただろうと思われたその想いは、けれど、いまだ新鮮な色合いで、花形の心を支配した。
それから、数年。
毎年、花形の誕生日にお祝いのメッセージを書いた葉書を送ってくる藤真。
何が、彼に葉書を書いて寄越せるのだろう。
藤真に何があった?
ぐるぐる巡る思いは、しかし、長年の後ろ向きだった恋心同様に、確かめる術を持てないでいる。
「ありがとう」の返事すら出せないでいる。
あの声に、あの笑顔に、屈託なく笑う藤真に、会いたくないわけではないのに、一歩が踏み出せないでいる。
花形は思い出して、椅子にかけてあった上着を手に取った。内ポケットに入っている定期入れを取り出す。
その定期入れの中に、今も大事にしまいこんでいる一枚の小さな写真を取り出した。
大学入試の時、願書に張るために撮った証明写真の、使われなかった残りの写真の一枚である。
何度か出し入れしたために、角は少し擦り切れている。
その写真の中には、小さな画面に納まりきれないように二人の顔が写っている。
証明写真を撮っているとき、藤真が悪戯心満載にしてにボックスの中に入ってきて、押し出す事も出来ずに撮られたものだ。
いまでも覚えている。
狭いボックスの中、鼻にかかる藤真のさらさらの髪は、ふたりで残り僅かな高校生活を惜しんでバスケットボールを追いかけた後のシャワーで使ったシャンプーの匂いがしていた。自分と同じ匂い。
そして、悪戯っぽく笑う側から、顔を僅かに見上げて自分を見た時の瞳の近さに、その瞳に自分が映っていることに、鼓動がやけに騒がしくなっていたのを、まるで昨日の事のようにはっきりと覚えている。
あの時の藤真には、自分の心の内にある淡い恋心なんて、気づきもしなかっただろうと思う。
自分だけが、自分ひとりだけが、想い焦がれていただけ。
藤真の笑顔に、ニッと笑って返してやった時のちりちりとした胸の痛みも、自分ひとりだけのもの。
「藤真、おまえは……」
俺に、何が言いたいんだ?
未だに行動を起こせない自分に、行動を起こせとでも言いたいのか?
そんなこと…。
そんな事できるわけがないと、口元に苦い笑いを浮かべて否定してみる。
毎年、一方通行の叫びのようなものを送ってきて、今更、自分に何をさせたいのか。言わせたいのか。
この、謎解きのような葉書の中に込められた藤真の思いを、自分は、何年たっても見つけられない。
それならば。
立ち止まる事だけしか選択肢がないと思っていた自分を、動かしてみよう。
何かが見えてくるかもしれない。
何かが判って来るかもしれない。
そう思うと、ほんの数秒さえ惜しくなってきてしまい、近くにおいてある受話器を取り、葉書に記されている電話番号をプッシュしていた。
こんな夜中に。けれど、不思議な感覚で。藤真は自分からの電話を待っていてくれているような気がする。
数コールの後、向こう側の受話器がとられる。
聞こえてきた声は。
『はい、藤真ですが…』
懐かしい声。声だけは、あの頃とまだ変わってはいなかった。軽い眩暈に見舞われる。
何と話したものか口を開きかけたが、言葉は出てきてはくれなかった。
もう一度。
『藤真ですが、何方ですか?』
思い切って。
「あ…あの…」
『花形? 花形なのか…?』
名前を呼ばれて手が震える。ああ、藤真。声が聞けただけで、名前を呼んでもらえただけで、こんなにも嬉しいなんて。
「ああ、俺だよ。葉書…、いつもありがとう…」
『ふふ、こんな夜中に誰だろうって思ったけど、花形かもって思ってたんだぜ』
「…そう、か…」
『花形から電話もらったら…』
「うん…俺もね……」
毎年毎年、誕生日に葉書を送ってきてくれて、自分からの返事を待っていてくれた愛しい人。
長い間待たせたね。話したいことは、きっといっぱいあるんだよ。
息せき切って溢れ出す想いは、そう簡単には言葉になってくれなかったけれど、静かな静かな夜に、時に話すことがなく沈黙だけがふたりを繋いでも、やっと繋がったこの電話を切ったりなんかしない。
淡い恋心を言葉にして伝えることはしないかわりに、精一杯いろんな話をしよう。
こうして今でも君の事を、藤真の事を想っている、そのことを言葉に滲ませて、いろんな話をしよう。
変わらぬ君への想いを心に抱きしめて、今夜だけは受話器を離さないで繋がっていよう。