5月の風



「こんな所にいたのか」

 背中越しに聞こえた声はなんて耳に馴染むんだろう。
 藤真はぼんやりとそんな事を考えながら、晴れ渡った空を見ていた。
 声の主は、返事をしない背中をぽんと叩いて隣に並び。

「お昼食べてないだろ。教室にいなかったから買ってきたぞ」
 差し出されたものを見て、
「さすが花形。わかってるよなぁ」
 花形の手からパンを取ると、袋を開けてそのままぱくついた。
「ほら、牛乳も。座って食べろよ」
「はいはい」
 フェンスに凭れながら、花形が買ってきてくれたパンの二個目を口にした。
「あ〜美味い」
「そんなにお腹空かすくらいなら、四時間目が終わって食べりゃいいのに」
「まぁ、そうなんだけどさ…」
 花形はもう食べてきたのか、何をするでもなく隣にいる。
「授業中にさ…」
「ん?」
「オレって窓側の席だろ。な〜んか、風が気持ち良くってさ」

 藤真の四時間目は古典の授業だった。
 ノートを取っている時、時折出そうになる欠伸をごまかすために窓に顔をむけていた。窓からは風が入ってきていた。
 もう春は終わっていると告げる風は頬に心地よかった。心地よさの中には、夏はもう少し後だよとも。

「なんか、思いっきり風に吹かれたくなってさ…」
「そか…」

 花形は、それ以上は何も言わなかった。
 藤真が牛乳を飲み込む音が、二人を包む。
 校庭では、きっと昼休みを楽しんでいる生徒で賑やかになっているはずだ。けれど、そんな喧騒も屋上までは届いてこない。
 見上げる空は青く、小さくてふわふわの雲があちらこちらに散らばっている。

 暑くなっていく予感のする陽射しを浴びながら藤真は、う〜んと伸びをした。
 それから。

「借りるぞ」

 返事などは待つつもりはないらしい。
 何か言おうとした花形の口元は、声を発するのをやめた。
 藤真がその肩に寄り添うようにして、やがて聞こえてきた寝息に言葉ではなく笑みを浮かべた。

 藤真がただの一人の高校生になれる瞬間だと思うのだ。
 一人で背負いきれないほどの重荷を抱えても、藤真は変わりなく藤真であり続けてはいるけれど。代わってやることもできず。
 ならば。

 花形は自分の立ち位置の中から、藤真のためのささやかであっても何も気にしないでいられる時間を大切にしてやりたいと願う。

 
 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るまで、後15分くらいしかない。
 そんな短い時間でも、藤真は熟睡しているのか気持ちよさそうに寝ている。
 合間には夢を見ているのか、
「ん…んん…」
 何かを言いかけているような。それでも言葉にはならない。小さな笑みだけが残るだけ。

 今見ている夢がどんなものでも、藤真にとって良い夢であってほしい。
 試合をしているなら、勝っていていてほしい。
 練習をしているなら、あの綺麗なフォームでシュートを決めていてほしい。
 ランニングなんかしていたら、一番前を走っていてほしい。
 もしも、恋をしているのなら。
 夢の中で恋をしているのなら、幸せな恋であってほしい。


 花形はそこまでを願ったあと、肩に寄せる藤真の髪を頬に感じるように頭を寄せかけた。
 五月の風はさわやかに吹いている。
 寄り添う二人を撫ぜながら包み込むように、そうして吹き流れていく。

 さわやかに。