冬の匂い



 左手に持っているバーガーを一口食べる。その間に、テーブルにおいている雑誌を捲る。
 こんなところまできて参考書を広げる気もなく、店に置いてある雑誌に手を伸ばした。
 目の前のトレイの上にあるポテトは、もう冷めているだろう。顔を上げて店の中を見回し、時間を確かめる。そろそろ来ても良い頃だと思うのに、待ち人はまだ来ない。
 約束をしてあった訳ではなくて、突然に呼び出したのだ。慌てて走ってきているだろう事が想像できて、それは待っている身には、少しは嬉しいものになる。
 部活を引退してからは、学校ではあまり顔をあわせなくなった。それが少し寂しいとか、そんな風に改めて思う事もないけれど、バスケ部に在籍していた頃のような雑多な毎日が、なんとなく懐かしく感じられるから、やはり自分に嘘がつけなくて、こうして藤真をわざわざ呼び出したりしている。
 ひと駅前の自分が乗る電車が来る前に藤真に電話をかけた。駅前のファースト・フード店で待っているからと。彼がその事を嫌がっていないことが判るのが、僅かだけれど恥ずかしかったりもするのに。
 何故だろうな。戦友みたいなものだからなのかな。
 答えは簡単に見つかりそうで、それでいてなかなかに手強くて、すぐには見つからない。それでも、会いたい気持ちがあるから、それがとても厄介だと思う。

 溜息をひとつついて、また一口バーガーを食べる。
 ふと目を上げると、店の前の自転車置き場に、藤真が入ってきたのが見えた。ようやく主役が登場だ。
 口元が自然と緩む。
 藤真はバスケ部では監督まで勤め上げ、その手腕は高校生離れしていた。教師たちや、周りに居る部員たちでさえ驚くほどで、練習メニューなどは緻密で、大凡蟻の入る透き間もないほどだった。そんな彼なのに、自転車を止めた後、鍵をかけない事が不思議にうつる。きちんとしているようで、どこか、きちんとしていない。何事にもそつなくこなしていたはずなのに、プライベートは知れば知るほどに大雑把で、最初は面食らったものだ。
 そんなところも、今となっては懐かしさを覚える思い出のようなものになってしまっている。
 やはり、寂しいのかもしれない。
 藤真に会いたくて、声が聞きたくて、受験勉強の合間をぬって、こうして会いにきているのだから。


 店のドアを開け、藤真が入ってくる。一通り店の中を見渡している。こんなに大きな人間など、すぐに見つかりそうなものなのに。
 やっと目が合ったとき、藤真の顔が綻ぶのが判った。嘘ではなくて、それは本当に嬉しい事だ。
 何か独り言を言いながら、こちらの方へ歩いてくる。自分も笑みをもって返そう。
「ひっさしぶり、花形。遅くなって、すまんね」
「いや、突然呼び出したからね。良いんだよ」
 四人掛けのテーブルで、向かいに座るかと思われた藤真は、
「おい、もっと奥行けよ」
と、顎で促すと、なんと隣に座ってくる。
「狭いよ、藤真…」
「いいじゃんよー、それよりさ、何読んでるの? お、車かぁ。良いの、ありそう?」
 手元の雑誌を珍しそうに見ているのが、何だか可笑しい。あの頃は、雑誌といえばバスケ関連のものばかりで、今、手元にあるような中古車情報誌の類は読んだ事がなかったから。
 それなのに、にこにこと嬉しそうにページを捲っている。それ、俺が読んでいたんだけどな。
「ポテト、もらうな。あ、これも貰っていいの?」
 言うが早いか、もうポテトを取って頬張っている。藤真のために注文しておいたバーガーも、少し冷めてしまったけれど、前においてやった。それを、やはり嬉しそうにとっては食べ始めている。
 コートに片手を突っ込んだまま食べているのは感心しないが、それも藤真らしいと思った。
 部活を一生懸命にしていた頃、藤真の悪い癖を、口やかましく言っては治させようとしていた事があった。いらいらしてくると爪を噛むのだ。
 いくらなんでも、そんな姿を他の部員には見せられないと、言っても止められない時は、そっと噛んでいる手に手を置いて、止めさせていた。
 今は、そんな風に言ってやる必要もないだろう。この時期は、してはいけないことだけを守っていれば、後は少しくらいなら羽目を外しても良いと思うし、何をしようと、変な癖があったって、少しくらい行儀が悪かったって良いじゃないか。
 ふたりでお喋りしたり、しなかったり、でも一緒にいるなんて事は、後少しでできなくなるのだから。

「なぁ、花形は免許、すぐ取るのか?」
「ん? どうしようかなぁ。夏休みに時間があったら、親に費用出してもらって…、いや、後でバイトしてちゃんと返すよ。んで、夏休みくらいに取りたいよな」
 藤真はくすりと笑うと、また雑誌のページを捲りながら、
「俺も夏休みくらいには取りたいよなぁ」
「おまえは無理だ。部活で忙しいだろ。一年生なんだから」
 すかさず言ってやると、ぷーとふくれた顔がこちらを向いてくる。
「そうやって、すぐに無理無理言ってくるんだから。花形は親だな、俺の」
 そうなのか。俺は藤真の親の役目を負っているのか。それとも、気づかないうちに、そんな風にしていたのかもしれない。それは嫌だ。
「じゃなくて、忙しいのは判ってるだろ。高校の時よりも大変って、藤真が言ってたじゃないか」
「んな事、いつ言ったっけ?」
「忘れたよ」
 嘘だ。覚えている。去年、推薦での入学が決まった後、大学のバスケ部を見に行ってきたその足で俺に会いに来て、そう言ったんだよ、藤真がね。
 ぱっと藤真が顔をあげた。
「なぁ、花形…」
「ん?」
 声が、やけに嬉々としている。何か、良い事でも思いついたらしい。
「どちらかが先に免許とったらさ、先に取った方がドライブに誘うってのはどう?」
「いいね、それ。って、俺のほうが先だと思うから、藤真は助手席行き、決定だな」
「オーケーオーケー、忘れるなよ、花形。絶対、俺を一番に乗せるんだぜ」
「はいはい」
 了解の返事を取り付けたら、それだけで嬉しいようで、鼻歌なんかを歌っている。

 それからは、ふたりして黙り込み、雑誌を取り替えたりして読んだり、またバーガーやポテトを注文したりして時間を過ごした。
 何も話らしい話をしない。でも、それでも良い。ふたりでいることが大切なのだから。
 後、二ヶ月もすれば卒業を迎える。
 三年前、春の桜の下で始まった藤真との関係に、一応のピリオドがうたれるのだ。
 長かったのか短かったのか、今となっては判らない。残り少ない高校生活を惜しむあまり、見えていたものまでもが見えなくなりそうな今の状態では、色々な事を思い出しすぎて、息が詰まりそうになってしまう。
 受験勉強の息抜きに藤真に会いに来ているのではなくて、本当は、会えないから受験勉強しているみたいな感じがしてならない。 
 藤真が雑誌を見るたびに、頭を上下させるたびに、そのさらさらの髪が、まるで音が聞こえてくるようなさらさらとした感覚が、出てくる直前に風呂にでも入ったのかシャンプーの香りと相まって、鼻腔をくすぐってくる。
 それほど近くに居る。
 一緒に手元の雑誌を見ているふりをして、目を閉じてみる。

 ねぇ、藤真。こんなに近くに居ても、これからはどんどん遠くになっていくんだね。一緒に過ごした時間はきっと楽しいものになっているのかなぁ。
 冬特有のしんと冷えた空気の、澄んでいる様のように、きっと色褪せないで残っていくんだろ。
 そう信じているよ。

「ん? 何か言った?」
 視線は下を向いたままそう聞いてくる藤真の感の鋭さに脱帽する。
 何を考えていたかなんて、ひょっとしたらお見通しなのかもしれない。
「いや、なんにも…」
 苦しい事もあったけれど、沢山の楽しい事を思い出にして、これからを過ごしていくのだ。
 また、色々な出会いもあるだろう。でも、三年前のあの目を瞠るような出会いは、多分、これから先はないように思える。それは、今が特別だと、そう誰に言うでないけれど胸を張って言えるから。

「花形は、時間良いの?」
「うん、そろそろ帰るよ」
 そっかー、と言いながら雑誌を閉じるその横顔が、何となく寂しく見えたのは気のせいかもしれない。
「今日は呼び出してすまなかったな」
「いえいえ、受験勉強の息抜きに呼び出して貰って、俺は嬉しいよ。また、呼び出してくれよな」
「了解」
「よしっ」
 そして、ふたりして、顔を見合わせて笑いあう。良い感じだ。
 先に歩き出した藤真について歩き出す。ドアから外へ出ると、冬の冷たい空気に晒される。寒いはずが、そうでもないのは、どうしてだろう。
 自転車を出してきて、跨いだ藤真から、
「俺に会って風邪引きました、なんて言うなよなー」
「判ってるって」
 軽く手を上げて、
「気をつけて帰れよ」
「花形もな。転ぶなよ」
 その言葉に、自転車を蹴り飛ばす真似をすると、笑いながら藤真はこぎ出して走り出していく。
「じゃーなぁー」
 遠くなっていく背中をじっと、いつまでも見ている。明日は来ると、必ずやってくると判っている。けれど、今、この時の藤真を目に焼くつけておかなければならないような、そんな切羽詰った思いが込み上げてきて、どうしようもなくて、あの背中が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。
 『絶対』なんて言葉は、本当はどこにも存在しないものなのだと思う。

 藤真の姿が消えてから少しばかりの時間が経った頃、ようやく駅へ向かうために歩き出す。
 それは、これまでの自分とさよならをして歩き出す事にも似ていて、冬空を見上げて、落ちて零れてこないように、暫くはこうしていよう。
 零れてこないのを確認したら、今度は俯いて、藤真が言ったように転ばないように足元を気をつけて歩いていこう。
 なんてセンチメンタルな気分になっているんだかと、自分を笑い飛ばして、明日、また会えることを信じて、冬の中を歩き出すんだ。