まだ朝の早い時間、始発より一本遅れた電車に乗り込む。座れる席はいくつも空いているけれど、ドアの横の手摺を持ち、壁に頭を持たれかけさせる。
ドアが閉まり、電車は静かにホームを離れ、少しづつスピードを上げながら、景色を窓の外に映し出していく。
花形の住む街が―――。
四年前といくらも違わないで、それは同じ景色のように見える。ビルと言うほどの物はなく、普通の家並みが何処までも続きながら、通り過ぎていく。
瞬きを何度か繰り返し、それらの街並みを静かに見つめる。
花形の住む街が遠ざかっていく。俺からも。心の中からも。
それは、二人の間の距離のようにも似ていて、例えようもない寂しさだけを残す。流す涙があれば良いのにと思うのに、いつの間にか降り始めた雨がガラス窓を叩くのを、涙の理由にしている。代わりに泣いてくれているから、と。
昨夜の二人は、紛れもなく一つに溶け合えたというのに、こんな風に二つに裂かれていくのを、結局はなす術もなく受け入れるしかない。
遠くなる。遠くなっていく街の様に、花形が遠くなっていく。
翔陽を卒業した後の進路を別々のものにした時でさえ、こんなにも遠くなるとは思ってもいなかったのに。だんだんと離れていく。
それなのに何も出来ない。なんて無力な。
今ほど、自分自身を無力だと思ったことはない。あの頃でさえ、先の見えぬ不安に苛まれていても、平気でやり過ごす事ができたのに。今頃になって、こんなにも無力な自分を見せ付けられるなんて。
就職が決まったと、花形に連絡を入れた時、返ってきた返事に言葉をなくした。
――― 俺 結婚する事にした
受話器を握り締める手が冷えていくのを、どこか遠くで感じながら、その言葉の意味を反芻した。
耳鳴りのように頭の中で繰り返される”結婚する”と言う言葉は、花形が俺のものではなく、誰か知らない人のものになるという事をしつこいくらいに教えてくれるものだった。
手の届かない人になる。
気持ちを伝えたのは翔陽を卒業する時の一度だけ。あの時も、心は一つになったと確信していたのに。いつの間にか、気がつかないうちに、遠くに行ってしまっていたのか。
肌を寄せ合って、大事だと言ってくれたその意味を、ずっと心の支えにしてひとりで過ごしてきた四年間なのに。花形、おまえは違うと言うのか。何がおまえをそんな風に変えさせたのか。
知りたくて。どうしても知っておかなければいけないような、何かに背中を押されるような衝動に喉が渇いていくのを止められないままに会いに行った。
確かめたかった。
ふたり、見詰め合ったまま、ただ、時間だけが過ぎていく真夜中に、答えや返事や言い訳も、色々な言葉を聞きたかったから、何も言い出さないお前の胸倉を掴んで詰め寄った。
花形は、ああ、いつもの冷静さで、自分の中の嵐が過ぎ去るのを待っているのだろうと思ったら、余計に気分が悪く、腹が立った。掠れ気味の声が辛そうに聞こえても、あえて無視した。
「ばかやろーっ」と叫んだ後、まるで、押し倒すようにベッドに落ちて、その身体を抱きしめた。
花形の懐かしい匂いに眩暈が起こる。それすらも愛しくて、頬に手を当てて唇を貪るように吸い上げた。ただ、ひたすらに口付けて吸い上げた。舌を差し入れ求めても、ずっと固く拒んでいた花形の身体も、限界なのは判っていた。やっと応え始めてくれた舌に絡みつかせて、お互いを求めあった。
会っていなかった四年と言う時間は、それすら色褪せるほどで、それからは、服を脱ぐのももどかしく、唇を合わせたままでシャツを脱ぎ捨てて、また抱きしめて抱き合った。
互いの高まりを手でイかせてもまだ足りなくて、さらに痛みも興奮も快感すらも、すべてを身体の中に捻じ込んで欲しくて、縋り付いた。
夜が白々開ける頃には、ふたりともベッドで、満たされた想いで互いの体温を感じていた。
それなのに。
俺だけのものだと思っていたのに。
腰を引き寄せられてそっと耳打ちされた言葉に、瞼を伏せる事しかできなかった。
また―――。掠れて辛そうな声をしていた。
扉の窓ガラスを叩く雨粒を見ながら、昨夜の事をぽつりぽつりと思い出す。
身体を繋げて、心もひとつに繋がっている筈なのに、離れていこうとする花形。それが俺のためなのだと言う。先の未来を考えてばかりの花形と、今しか考えられない俺と。
いつから、そんな風にふたりの間に溝をつくったのか。隔てなければいけない壁をつくったのか。
大学生活を送っている間は、忙しさを言い訳や理由にして会わないでいたけれど、会うことさえあればいつでも元のふたりに戻れると、そう思っていた。ずっと、そう信じていた。
どこで路を間違えたのだろう。
ガラス窓に手をあてる。
春を迎えたばかりの今は、まだ冷たい空気が幅を利かせていて、ガラス越しだというのに冷たい雨にさらされているようで、手のひらから体温を奪っていく。まるで、剥ぎ取られるかのようで、身体の芯が冷たくなっていくのがとめられない。
それでも―――。
十代の、まだ子供のような頃に心に芽生えた想いがある。伝えずにずっといたけれど、離れる時が来た時に一度だけ打ち明けた。お互いに想いあっていた事に満たされるものを感じて、嬉しくて、ひっそりと涙したことを、今でも覚えている。
あれから四年。
会えなかった時間の中で、心は同じところにあるのに、見つめる先が違っていた事を知ろうとしなかった。
それでも、過ごしてきた時間を無駄だと思いたくない。意味のないものだと思いたくない。
首を傾げて、ガラスにうっすらと写る自分の顔を見つめる。唇を少し動かして、声にならない声で名前を呼んでみる。
瞼を伏せる事しか。もう何もできないことなのだと。この手にはもう戻ってこないのだと。
やはり、自分は無力でしかない。