こころのかけら



 放課後の誰もいない教室の隅で、花形は気持ち良さそうに眠り込んでいた。


 すぐに終わるはずだった用事が長引いてしまった自分に痺れを切らし、待ちくたびれて眠ってしまったのだろう。
 足音をたてずにそっと花形に近づき、その寝顔を覗きこむようにして、近くの椅子に腰を下ろした。

 教室の窓から見える空は、下校時刻になろうとしているからだろうか。暑かった陽射しがいくぶん柔らかくなってきているのがみえる。
 花形に視線を戻すと、熟睡しているらしく自分が近づいた事に気づくことなく眠っている。起きる気配がない。
 普段からその背の高さには似合わないような気配りを見せる花形は、時には無表情な電信柱等と言う有り難くない噂を囁かれたりする事もあるくらい、他人に隙を見せる事をしない。こんな風に寝入ってしまうなんて、彼にとってはかなり珍しいことだと思う。合宿中でさえあまり見かけない。

 そんな花形が、時折、自分にだけ見せる顔がある事を、誰も知らないはずだ。
 柔らかな笑顔が自分にだけ向けられている事に気がついた時、その笑顔の奥にある花形の気持ちが感じられて、やけにくすぐったかった事を覚えている。
 それと気づかせないようにごく自然に注がれているものを、とても気に入っていた。

 しかし、今日は少し勝手が違うようで。
 じっと見入っていると、別の感情も生まれてくるものなのだろうか。いつもは忘れている、見上げてばかりいる悔しさも沸きあがってきている。

 出会ったばかりの頃、花形の身長に対してずいぶん嫉妬心を燃やしては、どうにもならない事にコンプレックスを感じてしまっていた時があった。八つ当たりのような我が侭を言っては困らせていたと思う。
 こんなにも自分にとってかけがえのない存在になるなんて、あの頃には想像すらできなかった。今思えば、ずいぶん回り道したのだと思う。
 けれど、そうは思っても、悔しい事にはかわりなく、無防備に眠る花形の寝顔をこのまま観察してみることにした。

 思ったよりも睫が長く、何より幼くさえ見えてしまう寝顔に驚かされる。メガネを外しただけ、たったそれだけの事なのに、いつもの見慣れた彼ではなく、誰か別の人のように見えてしまうのは―――まだ知らない事が多すぎるからだ。笑顔の向こうの、肌の奥に隠されている花形自身のことを、まだ本当の彼を知らないから。


 触れてみたい…。

 唐突に沸きあがった衝動を押さえる事ができず、腕を伸ばし額に手をおいた。少し汗ばんでいるのか、ひんやりした感触に思わず目を閉じてしまう。爽やかさを感じさせる風が背中を通りすぎていると言うのに、少しずつ熱くなっていく身体。震えそうになってしまう予感…。
 自分の変化に耐えられずに髪を梳こうと手を動かした時、花形が僅かに身じろいだ。
 起こしてしまったのかと思ったが、花形は鼻の頭を少し掻いただけでまた寝息をたて始めている。
 気づかれないように息を吐き出しながらそおっと髪を梳き、側においてあるメガネを取り上げた。
 随分に視力が悪いらしい花形にとって、メガネをかけないでいる時、世界はどんな風に見えているのだろう。視力の良い自分には想像すら及ばない事ではあったけれど、一度でいいから同じ世界を見てみたかった。

 花形のメガネをかけてみる。瞬間、歪んで見える世界がそこにあった。
 長い時間はかけていられるわけが無く、すぐに外してしまったが、もう一度花形のメガネをかけてみた。
 今度は目を閉じて……。

 包まれているような、それでいてくすぐったさを覚えるようなほのかな想いと、軽い痛みにも似た疼くような不思議な感覚。

 この気持ちがどんなものか、どんな風に呼ばれていて、どう言えば良いのか…。
 自覚はしているのに、並以上の意地っ張りな性格が災いし、素直に認めることができないでいる。たった一言でいいのに、それは未だに遠くにいて、自分のものになってくれない。ならば、自分から動いて掴み取ればいいものを、動けずにいるのは。踏み出せないのは……。
 それは多分、理由が欲しいんだと思う。花形を好きな理由と、花形が自分を好きでいてくれる理由が。


 メガネを外し、元の場所へ戻した。
 まだ眠っている花形を見つめ、自分の気持ちをもう一度確かめてみる。

 寝息が鼻先をくすぐるところまで顔を近づけ、
「花形、まだ目を覚ますなよ…」
 そっと声をかけて、その頬に触れるだけのキスをする。


 いまはまだ、これだけしかできないけれど、心は確かに花形にあるから
 好きだよ…