Every day, Every night



 草木も眠る丑三つ時とはよく言ったもので、しんと静まりかえるこんな夜はなんとも薄気味悪く、冷たい汗が背中を流れ落ちていきそうだ。
 マンションの廊下は特にそんな感じで、靴音をあまり響かせないように歩いていても、薄暗い電灯の下、自分以外の足音も聞こえてくるような気がして、思わず聞き耳をたててしまう。
 いつもより飲みすぎたらしい頭の中では、何やら音が響き始めていて、それに合わせるように足元が少し怪しくなってきている。

 やれやれ、我ながら、なんて情けないことやら…

 こめかみを少しおさえ、スーツのポケットの中を弄りながら鍵を探し、不快感を身体の外に追い出していく。
 ようやく目指すドアの前に着いた時には、色んな事が重なって思わずため息が零れてしまった。
 こんな事、藤真には言えない。あいつの事だから、きっと笑って……。

 と、そこまで考えて気がついたことがあった。
 自分の考えが当たっているか、それとも杞憂で終わってくれているか、鍵を外し、確かめるように静かにドアを引けば…。
 開いてくれたドアに、苦笑いと一緒にまたひとつ、ため息をついてしまう。

 滅多にないふたりの休みが重なった日で、ふたりともが連休だった事もあって、藤真はずいぶんと喜んでいた。
 そんな時に突然やってきた飲み会のお誘いに、腕を振るって用意してくれた料理に箸をつけないまま出かける自分を、不機嫌度500%の笑顔で送り出してくれた藤真のことだから、チェーンでもかけて締め出される可能性もあったけれど、まずは一安心と言うところか。

 すでにこの時間は寝てしまっている藤真を、起こしてしまわないようにそっとドアを閉めて、喉の渇きを癒すためにキッチンへ回る。
 コップに水を注ぎながら周りを見渡せば、何処も彼処もしっかりと片付けられているのが見て取れる。これは、藤真が相当に怒っていた証拠だろう。
 まるで鏡のように磨き上げられたシンクに映る自分の顔を見ていると、ほろ酔い気分もどこかへ飛んでいってしまいそうだ。優先順位を間違えた自分のせいではあるのだけれど。
 いろんな付き合いがあるからと言ってもダメだろうと思う。少しでも箸をつけていたら違っていたかもしれないけれど、明日は覚悟をしておいたほうがいいかもしれない。

 できるだけ音を立てないようにこそっと寝室のドアを開けると、枕を抱えて小さく丸まって寝ている藤真の背中が見えた。近づいてみれば、その背中は寂しいと訴えているようにも見え、零れる言葉はごめんと一言だけしかなかった。
 耳元でそっと声をかけて、髪を切り揃えたばかりの首筋にもキスをして。
 それで気がついたらしく、少し掠れた声で、
「あぁ、花形…、おかえり」
「ただいま」
 振り向きながらまわされた腕に引き寄せられ、そのまま濃厚なキスで迎えられた。
 言い訳も幾つか用意していたけれど、できれば忘れたままにして、今は藤真に触れていよう。
 アルコールのほんのりとした心地よさと柔らかい唇の甘さに酔いしれて、その先に訪れるひと時に思いを馳せ……。
「酒くさ…」
 まだ、夢の中にいるはずの藤真からの冷たい一言に身体ごと突き放され、現実はそんなに甘くはないと思い知らされる。

 やっぱりダメかな…



「花形っ!!!」
 その声に、頭の中にあったテレビの画面がパチンと音をたてて消えてしまった。
 気持ちよかった夢の中から引き戻されてみれば、目の前には、今日も元気な藤真がいる。元気すぎて眩暈を起こしそうだ。
「あ〜と、あの、藤真?」
「何、寝惚けてんだよ。朝だ」
 藤真の言っている事は充分すぎるほどわかる。カーテンの隙間からは朝陽が差し込んでいて、部屋を暖かくしてくれている。しかし―――身体が言う事をきいてくれなくて、情け容赦ない頭痛に、思わず顔を顰めてしまう。
「っつつ、頭が痛い…、もう少し…」
「めっちゃ天気が良いんだよ。今日は布団干すって言ってたし、他にも色々言ってたろ」
「そう…だっけ?」
「言ってたよ。いいから、さっさと起きろよ」

 「もう少しだけ…」「ダメっ!!!」を何回か繰り返した後、掛け布団を剥がされてしまうと、もうお手上げだ。
 寝室から出て行く藤真の後ろ姿に恨めしい視線を送りながら、それでも重い身体に渇を入れて起きてみれば、キッチンからは何やら良い匂いが漂ってきている。ずいぶん早起きだった藤真が、朝食も用意してくれていたらしい。
 心づくしの手料理は嬉しいのだけれど、問題はそのメニューな訳で。少し二日酔いのこんな朝には食べたくないと、いつも口煩いぐらいに言っているモノが、テーブルの上に並べられてある。トーストにスクランブル・エッグ、豪華なサラダにはツナやらベーコンやらハムの面々が、しかも、たっぷりと。

 なんだかなぁ…。

「藤真…」
「なんだよ。早く、座れ」
「もしかして、まだ怒ってる…よな?」
「まさか」
 こっちを向いてもくれずに話す藤真の全身からは、昨日の休みに、夕方から飲みに行ってしまった自分への『完璧に怒っています』オーラが発散されている。
 やれやれ、これも仕方ないかと椅子に座った時、
「はい、花形はこれ」
「え…」と、渡されたお椀をよくよく見れば、一番欲しいと思っていた蜆の味噌汁じゃないか。
「ありがとう、藤真」
「さっさと食えよな。予定が一杯詰まってて、忙しいんだから」
「ああ、そうする。ありがとう…」
 目を合わせずに捲くし立てているのは、きっと照れ隠しなのだろうけれど、怒っていても欲しいものを用意してくれていて、オレは嬉しい。

 でも、喜んでいられたのは朝ご飯の時まで。その後は本当に大変だった。
 絶妙のタイミングで後から後から用事を出されては、あたり構わず引っ張りまわされ、睡眠不足と少し軽くなってくれた頭痛の中で考えた事は、男二人の生活なのに、こんなにする事があったっけ? なんて事ばかり。
 狭い風呂場や洗面所のカビ掃除が終われば、部屋の模様替えが待っていて、休憩している暇がない。

 目の前が何やらふわふわしている事に気づかないふりをして、藤真の言葉に逆らわないでいるのはちょっと辛いかもと思い始めた頃には、足元はすっかりふらふらになっていた。
 藤真の声を背中で受けながら、返事をするのももどかしく、そのまま床へと身体を落としていった。
 陽の差し込んでいるところは、なんて暖かい。このまま寝ても良いよと言ってくれているみたいに気持ちが良かった。そんな自分が笑えるけれど。

 ごめん、休ませて。次はちゃんとするから、今は寝かせ…て…。

 言いたい言葉が頭の中を駆け巡っているのに、声に出せていたかどうかはかなり怪しい。
 何もかもが遠くにあるようで近くにあるような不確かな空間の中で、力がすうっと抜けていっているのが分かる。きっと、意識が遠のいていっているのだろう。
 ふわふわと宙に浮いているような夢の中の、まるで柔らかな綿アメに包まれているような世界で、なぜか藤真の声が上のほうから聞こえてきた。
「ごめんな、花形…」
『オレの方がごめんな…』
 ちゃんと言えてるだろうか?
 どうか、声に出せていますように。藤真に届いてくれていますように。



 うすぼんやりと気がついた時には、辺りはまだ明るかったけれど、もう夕方に近い時間になっていた

 こんな時間まで、どうして床の上で?

 最初は分からないでいたけれど、まるで細い糸を手繰り寄せるようにその理由に行き当たると、苦笑いしか浮かんでこなかった。
 まだ、きちんと藤真に謝っていなかった事を思い出していた、そんな時、
「んん…」
「え……」
 少しくぐもったような声は胸あたりから聞こえてきて、まだのほほんとしていた意識をはっきりさせてくれるには充分すぎるほどだった。
 慌てて掛けられていた毛布を剥ぐと、自分にしがみつくような格好で藤真が寝ていた。

 ああ、そうか…

 こんな時間まで床に寝ていても寒さひとつ感じなかったのは、藤真が用意してくれた枕や毛布があったから。こうして、隣に寝ていてくれたから。
 それらの事を藤真がしてくれていたのかと思ったら、いろんな気持ちがごちゃ混ぜになってしまって、やっぱり苦笑いだけしか浮かんでこなかった。
 ただ、さっきまでの苦笑いと少し違うのは、暖かい気持ちがその中に含まれていたという事。

「藤真、ごめんな」
 気持ちよく寝ていたところを起こしてしまったらしく、目を擦りながら欠伸なんかしている。
「驚かせて、ごめんな」
「いいよ…。それより、もう大丈夫?」
「あぁ、充分寝たからね」
 その言葉に安心したのか、小さくうなずいた藤真は、また寝息を立て始めている。
 このまま寝顔を見ているのも悪くはないけれど、寝てしまう事も悪くないと思う。言い訳が必要なら、昼寝をするとだるくてしょうがないからとでも言っておこう。

 頬に小さなキスをして、同じように横になる。藤真の腰をちょっと引いて、肩まで毛布を掛けて。
 一枚の毛布の中で暖かくなっていく二人の体温を感じながら、たまにはこういうのも良いかもしれないなんて事を、藤真にはナイショで思っていた。言えば、きっと怒るだろうけれど。


 後少し、もう少しだけ、おやすみ。