どんなに僕が…



 何度目かの訪問でようやく慣れてきた僕は、コーヒーを持ってくるからと、彼が階下へ降りていった後、一人残された部屋の中でも落ち着いて待っていられるようになっていた。

 小さい頃から、友達は数え切れないほど沢山いたけれど、深く付き合うような関係にまではならなかった。広く浅い交友関係は、好きなバスケットさえ続けていられれば良かった通過点のようなものだったと思う。
 その事で、特に寂しいと思う事もなかったから、正直なところ、驚いているのは僕自身だ。こんなに誰かひとりが気になるような、執着を覚えてしまうような経験が初めてだったからだ。きちんと整理された机の上に置いてある卒業アルバムを、彼に断りもなく手にしてしまうほどに。

 手に取ろうとしてアルバムに指先が触れた時、僅かに躊躇いや後ろめたさはあったものの、彼の事をもっとよく知りたいと言う気持ちには勝てるはずがなく、深呼吸を一つして、はやる気持を押さえるように椅子に腰を落とし、少し小ぶりの"第三十五期 卒業生"と書かれてある表紙をめくった。

 校歌や正門から見た三階立ての校舎の写真、教師達のページを過ぎ、目的の人物を探す。
 数ページめくった後の二組の中に、彼はいた。
 一人づつ、かしこまった顔つきで写っている写真達の中の彼は、今とは違い、ずいぶん幼い気がした。たった二年とはいえ、時間の流れの不思議を垣間見た思いがした。
 次ぎのページをめくると、全員での集合写真があり、やはりこの頃からも健在だったのか、頭一つ飛び出でている彼がいる。今と変わらないその様子に、少しホッとする。知らずに笑みが零れる。
 集合写真の次ぎは、数人づつに別れての写真だった。かしこまって写っていた先ほどとは違い、彼だけでなく、どの顔にも笑顔が溢れていて、教室に差し込む秋の陽射しと相俟って、その眩しさに目を眇めてしまう。と、同時に軽い眩暈と息苦しさを感じる。

 ――ああ、まただ。また、こんな風な…

 彼が、部活の練習の合間や休み時間に会えた時などに、時々話してくれる中学時代の思い出話と同じ世界が、このアルバムの中にはあって、自分の知らない彼がそこに確実に存在していた事を教えてくれている。中には、小学校からずっと一緒だと言う腐れ縁の友人もいるらしい事も、彼からはよく聞かされていた。
 写真の中に写る彼等は、自分の知らない彼を知っている。そんな当たり前の事に、痛みを覚え、息苦しさを感じてしまう。
 いつのころからか、気が付いた時には、彼はすでに心の中の大半を占めていて、僕は、彼の話す自分の知らない彼を知っている彼等に、嫉妬ばかりしている。今も、写真の中の同じ時間を過ごして来た彼等を羨んでいる
 彼が見せてくれる優しさを自分一人だけのものだと錯覚しているだけと、そう何度も思い込もうとしたけれど、彼を求める心は際限なく溢れてくるばかりで、僕を苦しめてばかりだ。

 いつものように重いため息をついて、アルバムを元の場所に戻した。


 いつか、報われる時がくるのだろうか。彼の穏やかな笑顔を一人占めできる時がくるのだろうか。
 大きな両手に包まれて、笑っていられる時が……




□ □ □





「おい、藤真、こんなとこで寝てたら風邪引くぞ」
「んん…ん…」
「ほらほらほら、コーヒーでも入れてやるから、藤真、起きろよ」
「…うん…」

 花形に声を掛けられて、そこここでふらふらと浮遊していた意識を繋ぎ合わせて、何とか顔を上げた藤真は、目を擦りながら回りを見渡した。
 少し離れたところには低いテーブルがあり、その向こうには、風で揺れているカーテンが見える。水の音のする方を向くと、自分に背を向けて立っている花形がいる。いつもの見慣れた光景である。
 何かをしているらしい花形を見ながら、ああ、コーヒーでも入れる準備をしているのだろうと、そんな事を考えていて、ようやく、先ほどまで、夢を見ていたらしいことに気が付いた。

「あれ?」
「どうした? 夢でも見てたのか? 良い夢だったら、起こして悪かったかもな」
「いや…そんな事ない」

 そうはいうものの藤真は、まだぼんやりしている意識の中で、それがどんな夢だったのかが思い出せないでいる。どんな夢だったのだろうか。何となく、胸を締め付けられるような切ない夢だったように思われるが、はっきりとした形になってくれず、なんてもどかしいんだろう。
 もどかしい?
 そう言えば、とても何かに似ているようなこのじれったい感じは、あれは、遠い記憶の中にあるはずの、まだ―――。

 二人分のコーヒーを焙てた花形は、最近買ったばかりのカップに入れ、どこか遠くへ意識を飛ばしている藤真の前に置いてやる。
 コーヒーの良い香りのするカップを目の前に置いてもらい、やっと我にかえった藤真は、軽く礼を言って美味しそうに一口目を飲み、また、先ほどの不透明な夢へと思いを馳せる。

「ひょっとして、昔の夢とか。それ見ながら寝てしまったみたいだからね」
「ん?」

 花形の指差す方に目を落とすと、アルバムが何冊か詰まれている。
 汗ばむような五月の陽気に誘われて、本当なら遊びに出かけるほうが健康的なのかもしれないが、花形も藤真も、GWの人出を考えると外出をするのに億劫になってしまい、それならばと、大掃除を決行したのだ。
 その時に、たまたま見つけた昔のアルバムに藤真は、掃除の事など何処へやら状態で見入ってしまい、後片付けが終わった後も、今度は場所をキッチンのテーブルへと移し、懐かしそうに見ていたのだった。

「そっか。アルバム見てたら、そのまま寝ちまったんだ、オレ…」
 花形は、重ねてある数冊の中から一冊を取り出し、丁寧にめくりながら、
「それで、昔の夢でも見てたんじゃないのか」
「花形の言う通りかもな」

 少しカビ臭さも加わった古いアルバムを見つけ時、迷わずに手が伸びていた。ページを捲ると、そこには懐かしい景色と笑顔にまみれた友人達がいたものだから、そのまま片付けてしまうのが惜しくなってしまい、片付かないと渋る花形を何とか説き伏せて、ここまで持ち出してきたのだ。
 夢中になって見ているうちに、いつのまにか寝てしまっていたから、きっと、みていた夢は昔のどこかの思い出の中の事だったのかもしれない。
 まだ残る夢の切なさの先を思い出そうとして、ふと目を上げると、じっとこちらを見ている花形と目が合った。
 いつになく真面目な顔をしている花形が、何か言いたそうにしている事に少し身構える。

「何だよ、変な顔でもしてた?」
「いや、そうじゃなくて――」
 すっと腕が伸びてきたかと思うと、指先で線を引くように頬を撫でられる。
「ここに跡がついてる。アルバムを枕代わりにして寝てた証拠だね」
「くすぐったい」
「黙って…」

 顎まで降りてきた指先に顔を少し上向けられる。次ぎに何がやってくるのか、判っている自分がやけに可笑しくて、笑ってしまう。
 笑っている口を塞ぐように、そっと重ねられる唇を受け止める。軽く押し付けた後、すぐに離れていく花形を、今度は自分が追いかける。
 追いかけて追いかけられて、二人して額をくっつけて笑いながら、それでもまだ気になる夢の事を、心の隅でもう少しだけ考えてみた。

 あのもどかしさは、遠い昔の想い出の中にあるものと同じものだ。彼に抱いていた淡い想いの、まるで、先行き不透明な迷路にはまり込んでしまったような、そんなつらい想いをしていた時のもどかしさに似ていて……。

「藤真? 夢の事、考えてるのか? それか、キスが嫌とか?」
「ああ、ごめん。なんでもないんだ。それにさ、嫌な訳がないだろ。大好きだよ、花形のキスは」
「じゃ、続けても良いね?」
「もちろん」

 花形の両手に頬を包み込まれていた藤真はゆっくりと目を閉じて、重ねられる柔らかい唇を受け止めた。



 もう、夢の事は忘れよう
 ずっと欲しかったものを、今は感じていたいから……