静かな夜に溶け込むような柔らかな声で届けられた初めての告白は、淡い明かりの下、彼らしく甘い言葉ではなかったけれど、まだ冷たいシーツの上に投げ出したままの身体すべてを包み込むような暖かさを与えてくれた。
返事のかわりに長い指を絡めとり、軽く唇をあてる。
いつも遠くから見ていたこと、何でも掴めそうな大きな手が大好きなこと。たくさんのそれらをようやく伝えることができたことに、至福感に満たされる。
腕の内側を辿り、手首あたりで小さな円を描いている少し節くれだってみえる指先を、黙ったまま見つめる。心地よさにうっとりしている手のひらの中へ、すうっと滑り込ませた指先でかりかりとくすぐっては小さな刺激をくれる。
微かに震えているのは寒さのせいじゃなく、これからのきっと翻弄される自分がわかるから。
他愛無い否定や肯定ばかりを繰り返してきた自分たちが可笑しくて、顔を見合わせて笑ってばかり。
大好きな手が髪を撫でて梳いてくれている合間に、触れ合うだけの軽いキスばかりを何度も強請る。
くすぐったそうに痺れているもの。生まれたばかりのそれらは、どうせ溺れるほどの大きな波になって飲み込もうとしてくるはず。
それならば、せめて小さなうちに感じていたくて、まるで手のひらの上で転がすように遊んでみたりする。
それでも、もっと欲しくなってその先を促すと、鼻先に触れるだけのキスを落とされる。そんな見透かされている自分が悔しくて、何か言ってやりたくて口を開けかけたけれど、言葉は出てきてはくれなかった。
重ねられる唇に塞がれてしまったから。
ふかく、さらに深く、まるで堕ちていくように……
三年間の何もかもが終わったその日は、朝は、まだうっすらと季節外れの雪の白さが目立っていた。
底冷えのする中で少しづつ泣き出しそうになっていった空は、卒業式が終わる頃には雨空に変わっていた。
ぽつぽつと降る冷たい雨に、きっと誰かの涙雨だよと、いつもの友人達の軽快な冗談も、降る雨と感傷的な雰囲気のおかげで湿ったものにしかなってくれず、誰からも笑いを誘うことは出来なかったようだ。
洗い流してほしい想い出ばかりを身に纏ってしまった自分だって笑えない。差し出した手の平に雨粒をためて小さな海をつくり、大切なものすべてを沈めてしまえれば良いのにと思う。
―― それでも…
いつのまにか心の中で育っていた淡い想いにいつまでも気づかないふりをして、他の誰よりも長い時間を一緒に過ごしてきた彼に対し、これ以上見え透いた嘘でごまかしてしまうなんてできない。
後輩たちが用意してくれた謝恩会を、ふたりだけでそっと抜け出した。
暖かくなるにはまだ遠いこんな日の雨に打たれては、冷え切ってしまうのは仕方のないことと、いつもなら口実にでも使えそうな言葉はもう必要なくて、すべてのしがらみから開放されたオレたちは、お互いを抱きしめあった。
今日の主役達は脱ぎ散らかした服の下にほおっておかれたまま、柔やかな雨音に閉じ込められた部屋の中で、ひっそりと朝が来るのを待っている。
―― 最後だから
心の奥底でそう言い聞かせている自分がいても、僅かでも後悔を残さずにすむのなら、それでも構わない。
いつか、こうなることを望む自分がいたことを、やっと認めることが出来たのだから。
頬を預けても良いと思える優しい手。
今、大好きなその手に緩やかに追い上げられ、焦らされては篭っていく熱に、気持ちとは裏腹な艶やかな喘ぎを零してしまう。
まるで他人のような甘い声を聞きながら、仰け反らせた首筋から伝い落ちる汗の冷たさを感じる暇さえ与えられずに、何度も上り詰めさせられる。
いつ終わるとも知れない苦痛から逃れたくて、縋るようにしがみついた広い背中に跡が残るほどに爪を立て、絶え間なく続けられる容赦ない動きに翻弄されながら、それでも、苦痛とは別の何かが生まれてきているのを感じる。
届きかけては離れていくそれを快感と呼ぶにはまだ小さすぎて、見失いそうになりながら、いつのまにか追いかけている。
手にしたくて、欲しくて追いかけて。もう少しで……。
遠のいていく意識の中で精一杯に手を伸ばしたとき、花形の声だけが聞こえていた。
ふわふわと漂よっていた意識を引き戻すように、誰かが頬を叩いている。ふわっと瞼を開けると、すぐ目の前には心配そうな顔をした花形がいる。
抱きしめられた安堵感でそのまま気を失っていたらしい。
―― 花形…
側にいてくれたことが嬉しくて、身体は辛かったけれど思わず笑みが浮かんでくる。
「ごめんな…」
花形は何度も頬を拭うように触れながら、思いやれる余裕がなかったことをすまなそうに謝ってくる。
溢れる想いを止める術を見失ってしまっていたのは、それはどちらも同じなのに、花形に罪悪感を背負わせてしまった事に申し訳なさでいっぱいになってしまう。
望んだことだからと、あまり力の入らない身体で首を横に振っていると、重なり合った熱に酔わされていた意識がはっきりしてくると共に、忘れかけていたものを鮮明に思い出してしまった。
自分自身でさえ知らなかった肌の奥に潜んでいた欲望を、花形によって探り出され、乱されたのだ。
苦痛の中で見出された快感に、声をあげ、愉悦の涙を流していた。一度だけでなく、花形の手の中で何度も。
突然に湧き上がってきた恥ずかしさに耐え切れない自分に出来る唯一の事は、両腕で顔を覆う事だけ。自分は今、どんな顔をしているのだろうか。薄明かりの中でさえ顔を晒す事を躊躇ってしまうほど、泣き腫らした顔はきっと汚れてしまっている。
花形は、そんな抵抗すらも溶かしてしまうように、覆ってしまった腕に柔らかいキスを繰り返しては、名前を呼んでくる。
「藤真、顔、見せて」
「だ…だめだ」
「藤真、お願いだから…」
「嫌…だ…」
どんなに訴えても、花形は許してくれない。
激しさとは無縁な、ひたすらに穏やかであるはずの花形にも、こんな一面があったなんて。
何度も何度も触れるだけのキスを繰り返されてる。抗いきれない優しさに、結局は両腕を外されて、固く瞼を閉じて最後の抵抗を試みても、柔らかなキスを受けてしまえば、少しばかりの意地も消されてしまう。
花形は、少し泣いているようにも見える優しい笑みを浮かべながら。
「オレの顔、忘れるな。こんな事、藤真だからだ。分かるだろ、おまえだけだから」
「花形…」
「藤真にそんな顔させられるのも、オレだけだから。オレだけだ」
「…はな…がた…」
これで終わりじゃない、大事な事だよと、小さい子に言い含めるように言いながら、また抱きしめられる。
―― ああ、そうだった…
いつも一緒にいることが当たり前のようになっていて、これから先も、そんな日がずっと続いていくものだと思っていた。
信じていたと言うより、疑ったことすらなかった。
進学先の違いで離れてしまう事が分かった時から、ずっと不安な気持でいたこと。
負けん気な性格故にどこにも吐き出せない辛さに負けて、理由があるはずの彼に冷たく当たってしまったこと。
そんな自分に嫌気がさして、自暴自棄にもなりかけたこと。
いつのまにこんなに弱くなってしまったのかと、ずっと分からずにいたけれど、今、やっと分かったように思う。
大切な人になっていたから。
この腕の中は、なんて暖かいんだろう……