ずいぶんと涼しくなった秋の風に誘われて、交差点や歩道のあちらこちらでは落ち葉が舞っている。
かさかさと音を立てている落ち葉達を踏みしめるようにして、信号が青に変わった横断歩道へと歩き出した人並みの中を、普通の人よりは頭一つ分は高いと思われる青年と、風に流されてはさらさらと音が聞こえてきそうな髪をした青年とが連れ立って歩いていた。
時折、見上げて話をしてくる彼のために、少し猫背気味になる背の高い彼の手には、何かのお祝いだろうか、花束と小さな包みが握られていた。
季節外れの雨の中で…
何度も腕時計で時間を確かめるが、待ち人はくる気配がない。藤真はどうにも我慢しきれずに、今にも泣き出しそうな雨空から逃げだすようにして、向かいのビルの二階にある喫茶店に入って待つことにした。
いつもは約束した時間に遅れる事のない同僚は、飛び込みの仕事でも任されているのだろうか、時折、歩道を見下ろして探してはみるが、いまだやってくる様子がない。
ため息よりも苦笑いを浮かべ、仕方なく二杯目のコーヒーを注文した。
普段ならば、待つ事の嫌いな自分は、約束の時間を少しでも過ぎてしまえばさっさと帰っているだろうに、今日に限ってはそうならなかった。途中で立ち寄った本屋で、気まぐれに購入した文庫本が意外に面白く、待っている間の良い時間潰しになっているからだ。
運ばれてきたコーヒーに多目の砂糖とミルクを入れ、一口飲んだ後、読みかけの文庫本の栞を挟んだページを開ける。
その栞は、本を買った時、カバーと一緒につけてくれた紙製の普通のもので、本の読み始めの頃には気がつかなかったけれど、四コマ漫画が描かれてあった。
こんな僅かな場所にと思うと興味が沸き、手にとってみた。
内容は、何気ない日常のちょっとした出来事で、番号が振られているのはシリーズにでもなっているものなのだろう。
裏をみると、手書き風の小さなカレンダーが書かれてあった。
「そっか。今月は十一月だったんだ…」
毎日の仕事に追われていくら忙しいと言っても、日にちの感覚を忘れてしまっていた訳でもなかったのに、栞に描かれてある小さな十一月のカレンダーを見て、ふと声に出してみた時、とても懐かしい響きに出会ったような気がした。
何だろうか、この何となくむず痒いような感覚は…。何処かに大事なものを置き忘れてきているような、それなのに、それが何かを思い出せない。
爪を噛む癖が出ていることにも気がつかないで、どこか、遠くを見るような思いで、記憶に残っている想い出をひとつひとつ手繰り寄せてみた。
やっとの事でたどり着いた答えには、懐かしい香りが込められていた。
――― あいつの、誕生日があるんだ…
思い出すと同時にざわつき始める心を落ち着かせようと、少し冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干した。
まだこんなにも「あいつ」の事で、未だに切ない想いに駆られてしまう自分に、口元には自嘲的な笑みが浮かぶ。
中学、高校、大学と、それこそ、ずっとバスケットだけをしてきた自分にとって、いつも思い出されるのは、決まって高校時代、翔陽にいた頃の事だ。
特別だった高校時代。翔陽ですごした三年間は、まさしく特別なものだった。
その特別な中でいつも自分の傍に一緒にいてくれた、時々、思い出したように振り返ると、穏やかな笑みを見せてくれていた人。
一年ですでにレギュラーだった自分は、他の一年生達とは違う練習メニューをすることが多かった。あの頃は、上級生達と一緒にいる事の方が多く、いつも回りとは少し距離があいていた。そのせいもあってか、素直とは程遠い自分は、渇かえた猫のような緊張感を絶えず漂わせていて、結果、どこにいても溶け込めずに浮いていたように思う。
そんな自分だったのに、普通に接してくれた花形とは、時に衝突する事もあったけれど、親友と呼び合えるほどまでに親しくなっていった。やがて、支え合う存在となっていった彼を頼っていくうちに、きっと、心が越えてしまったのだろう。いつの間にか好きになっていた。それは、殊更に特別なことではなく、自然な想いだった。
それでも、気持ちを伝える事はしなかった。いつも一緒にいたからその必要がなかったと言うのは表向きの理由で、本当は、誠心誠意応えてくれていた大切な親友を失いたくなかったのが本音だった。
花形との間を気まずいものにしたくなくて、大学進学を機に離れることを選んで、もう、何年になるだろうか。
大学を卒業して社会人になった後も、律儀な彼は、年に何度かの季節の便りを届けてくれている。その中に、元気に暮らしているらしい彼を見つけて、変わらないでいてくれる事に感謝をしながらも、それ以上に心穏やかではいられない自分は、まだこんなにも想っている彼と関わりを持つことに不安が拭いきれなくて、未だに返事の一枚すら出せていない。どうしても避けてしまう。
あれから何年も経っていると言うのに、いつまでも拘り続けていて前に進めないでいる。
――― 花形…、どうすれば一番良かったのかな…、どうしたらね…
栞のカレンダーを見ながら、そう問いかけた時、ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
顔を上げてみれば、ようやく降り始めた雨が、ガラス窓にぽつぽつとあたっていただけだった。
雨にでも呼ばれたのだろうか。
そんな事を考えながらガラス窓から目を離さないでいると、やがて雨は、絹糸のように静かに降り注ぐようになり、見下ろしした歩道では、それまでがまるで嘘のように急に賑やかになっていき、みんなの差し始めた傘でアスファルトが見えなくなっていっている。
蕾だった花達が、この時を待っていたように一斉に開いていくようにも見え、思わず軽い眩暈に襲われる。
そう言えば、自分は傘をあまり持つことがなかった事を思い出した。
傘がないからと花形に我侭を言って、狭さに文句を言いながらも入れてもらっていたその本当の理由を、彼は考えた事はなかっただろうか。
気持ちは伝えなかったけれど、いつも、どこかに本気の本心を散りばめていた事に、彼は気がつく事はなかったのだろうか。
花形は、自分の事を本当はどう思っていてくれたのだろうか。
あの頃は、自分の気持ちだけで精一杯だったから、彼がどう思っていたのかなんて考えた事はなかった。
ひょっとしたら、彼から何等かの応えのようなものがあったかもしれない。
もし、そうだとしたら…。
そう思った時だった。
手元に視線を戻そうとして、見知った顔を見つけたように思い、もう一度窓の外を見渡した。
――― 花形…
向かいのビルの入り口あたりで雨宿りをしている人達の中に、皆より頭一つ分は背の高い彼がいた。
降り出した雨の中を走ってきたのだろうか、濡れたらしい髪を何度も梳きながら、時々、空を見上げては、一緒に雨宿りをしている人と、あの頃と変わらない柔らかな笑顔を向けて何か話をしている。
誰かと話しをする時、背が高いために少し猫背気味になってしまう癖も、黒ぶちメガネをかけているところも、あの頃のままだ。
手紙の中だけではなく、本当にずっと変わらずに昔のままでいてくれている花形に、何かが心の中で弾けたような気がした。
――― 行かなきゃ。今度こそ言わなきゃ…
湧き上がる気持ちを抑えることができず、慌てて椅子から立ち上がった時、
「藤真っ!!」
突然、名前を呼ばれて、声のするほうを見ると、遅れてきた同僚が喫茶店の入り口に立っていた。
自分のいる席まで、顔の前に手のひらを出して謝りながら歩いてくる同僚から、何故か目が離せなくて、声すら出てこない。
瞬きもせずにじっと見つめられた事で、遅れてきた事を非難されていると思ったのだろうか、
「本当にすまん。連絡入れなくて申し訳なかったから。素直に謝ってるけど、駄目か? 藤真?」
席に辿りついた同僚に顔を覗き込まれながら声をかけられて、やっと我に返ることができた。
「いや、違うんだ。違うんだよ」
突然に声をかけられたとは言え、気をとられていた事を後悔しながら、もう一度窓の外を見る。花形が向かいのビルで、まだ雨宿りをしているのを確かめるために。
けれど。
――― いない…
また同僚の顔を見て、もう一度、花形がいるかどうかを確かめてみた。やはり、そこには、もう背の高い人はいなかった。
駅の方へ走っていったのかもしれない、もしかすると反対方向なのかもしれないと、一縷の望みをかけて探してみるが、花形を見つけることはできなかった。
急に脱力感に襲われて、椅子に座りなおした。
「さっきからどうしたんだよ。誰か、知ってる人でもいたのか?」
同僚の言葉をどこか遠くで聞きながら、窓の外の雨の中にいた花形の事を考えていた。
あれは、いったい何だったのだろう。単に見間違えただけなのだろうか。けれど、自分が花形を見間違えるはずはないと思う。だとしたら、未だに拘り続けている想いがかたちになって、雨の中に彼を見せてくれたのだろうか。
そんな非現実な考えに心を奪われていた時、
「藤真…」
同僚の穏やかな声に、ようやく現実へと引き戻される。
「ごめん。ずっと、なんか考え事してた」
「良いって。遅れて申し訳なかったよ。それより、ずっと降りそうで降らなかったのに、急に降りだしたろう。慌てちゃったよ」
笑いながら話す彼の口元を見ながら、
「ほんとにな、急に降りだしたな」
藤真は、もう一度窓の外に目をやるが、もう探すことはしなかった。
先ほど見たものが、見間違いや幻だったとしても、切ない想いだけを自分の心の中に残して消えてしまう花形が、とても花形らしいと思った。だから、いつまで経っても自分は忘れられないでいるのかもしれない。
藤真は、心の隅に花形を想いながら、狭いテーブルに広げられた資料を見ながら話し始めた同僚に集中することにした。
今年は誕生日にカードを贈ろう。
電話をかけてもいい。久しぶりに声も聞いてみたい。
拘り続けるあまりに避けていた事、ずっとしてこなかった事を、今年は何からでも良いからしてみよう。
せっかく、雨の中に彼を見たのだから、素直に会いたいと言おう。
会って、ずっと言えなかった言葉を「おめでとう」と一緒に。
同僚の指先を見ながら話す藤真達のいる喫茶店の外では、十一月にしては暖かな雨が、その雨足を強くさせていっていた。