春一番



 自分を見下している男は、悔しさで睨みあげる眼差しを、軽く笑って受け流している。
 上手くなったものだと思う。いったい、何時からそんな余裕の表情ができるようになったんだろう?
 まだお互いに慣れていなかった最初の頃、相手を思いやる事よりも、抑えきれない欲求だけでぎこちなく動いてた身体が、今ではしっかりと意思を持って動いているようだ。
「もう、判ったから、腕、離せよ」
「今日はダメだよ」
 いつもの優しい笑みは何処かへ出張でもしているような表情をしながらそんな事を言う。静かな声だけれど、かなり怒っている事が判る。
 けれど、ここで怯む訳にはいかない。
「あ、そう。謝ったのにさ、花形って、そんなに心の狭いヤツだったっけ?」
「そうだよ、俺の心は狭い。藤真が一番良く知ってるだろ」
 心が狭かったかどうかは覚えてはいないが、花形を本当に怒らせると手がつけられなくなるらしい事くらいは朧気ではあるが知っている。
 ただ、自分としては、いつものやんちゃをやらかしたくらいの自覚しかなくて、花形をここまで真剣にさせてしまったとは、これっぽっちも思っていなかった。そんなところにも、花形は怒っているのだろうか。

 今日の当番のキッチンの後片付けをすませ、風呂にも入り、やっと二人っきりで寛げるってだけて相当にのぼせていて、逸る気持ちそのままにベッドに居る花形に飛びついた。その時花形は、買ってきたばかりの本を読んでいる途中だったけれど、構うことなくその本を取り上げてベッドの下へ投げ入れると、そのまま花形に跨り、組み伏した。いや、つもりだったと言う方が正しいだろう。あっと言う間にお互いの身体を反転させられて、組み伏したはずの自分が、反対にベッドに貼り付けにされたような状態で、当の花形から見下ろされている。
 何が悔しいかって、両腕を押さえられ、下半身に圧し掛かれられては、身長差に比例した力の差ってヤツで身動きひとつできないってことだ。

「これから、どうするんだ?」
「そうだな、藤真が欲しかったものをあげるよ。寝られないくらいのヤツをね」
 優しいのか意地が悪いのか判らないような笑みを浮かべながら、落ち着いた様子で話す花形の声に呼応するかのように、頭の中で警笛が鳴り始めた。
 もう、ダメだ。せめて、声をかけてから本を取り上げれば良かったと、今更な事に後悔する。
 観念して、これからの事に思いを馳せながら目を閉じた。


 ふわりと何かが顔の上に降りてきたかと思うと、触れるだけのキスをされる。
 触れては離れ、そっと触れては離れ、また、触れて。花形は腕を掴んだまま、何度も触れるだけのキスを繰り返す。
 じゃれ合う時の様な、ただ触れ合わせるだけのキスは好きだけれど、そればかりを続けられると待ちきれなくなってしまい、離れていく唇を追いかけてしまう。自由の利かない身体で精一杯頭を上げてせがんでも、唇を軽く押し付け、舌先で唇を舐めるように這わされた後、軽く触れあったまま、そこから先へは進もうともしない。仕方なく、花形の口の中へ舌を差し入れ、誘い込むように絡めようとするが、あっさりと交わされてしまう。
 こんな、焦らされてばかりのキスが続くと、満たされた温もりじゃなく、焼け付くような熱さでもない、どうにも消化しきれない燻った熱ばかりが身体の中に篭ってくる。
 持て余すしかないような燻り続ける熱に自分ではどうする事もできなくて、焦れるようなむず痒さを追い払うように身動ぎをした時、花形はようやく拘束していた腕を離してくれた。
 やっと自由になった両腕を花形の背中に回し、花形の唇に自分の唇を押し付け、貪るように求めた。花形もやっとその気になってくれたのか、逃げて交わしてばかりいた舌を絡ませ強く吸いあげてくる。息もつけないような口付けに、燻っていた熱の中にじんと痺れるものを感じ、くぐもったような声が漏れる。
「んん…ん……」
 花形が少し離れ後、まだ足りないとその唇を追いかけ、もっと欲しいとせがむように甘い吐息が零れてくる。
 けれど、花形はそれには応えてくれず、親指の腹で唇を軽くなぞり、瞼や頬に口付け、首筋へと顔を埋めてくるだけ。ゆっくりと仰け反らされながら、その首筋にやはり触れるだけのキスを施される。
「ん…はな…がた…そこは…あ…」
 花形は首筋に唇で摩るだけの愛撫を丹念に続けていたが、汗ばみ始めたうなじの辺りに来た時、ある一点を強く吸い上げてきた。その瞬間、
「んっ…」
 痺れるような快感に、思わず背を反らせた。
 その反応を楽しんでいるらしい花形は、ほの紅い痕が付く事を白い肌には目立ちすぎて自分が嫌がっている事も、今日だけは関係ないとでも言いた気に何度もそこを強く吸い上げる。その度に、震えが走る背を仰け反らせるしかなかった。

 気が付けば、いつの間にかうつ伏せにさせられていた両足の間に、花形は後ろから片足を割って入ってきていた。そして、耳元へ、
「もう少し続けようか? 藤真は背中も弱いから」
 その声だけで、背中にぞくりと波打つような快感が走る。痺れるように震える背中を、花形はその大きな手のひらで、時折、わき腹へも手を這わせては撫で上げていく。その手の動きにあわせるように、艶を含んだ吐息が口をついて漏れてくる。
 撫で上げられながら、屹立しているだろう花形自身が肌に直接触れているのを感じていると、燻り続ける熱にも煽られて、自分自身のものも固くなり始めているのが判る。花形にも判っているはずなのに、背中を撫でたり、首筋に口付けをするだけで、そこへ手を伸ばそうとはしてくれない。いい加減に焦れてきて、自分のものに手を伸ばすと、手首を掴まれ、
「ダメだよ、まだイクのは早い。もう少し辛抱して」
「は…な……」
 花形は、背中に手を這わせながら、腰の辺りにも口付けていく。強弱をつけて吸い上げられると、身体中の力が抜けていくようだ。手首を掴まれたまま固くシーツを握り締めていた手が、少しづつ力をなくしていっている。
 押し寄せる快感の波はとても柔らかで、波間に揺れるゆりかごの中にいるような錯覚を起こさせる。
 このまま…、このままで…。

「そろそろ良いかな」
 花形の声を上の空で聞いていたら、目の前には白いシーツではなく天井が見えてきた。
 霞がかかったような意識の中で仰向けにされたのだと気づいた時、下肢の辺りにぬめった感触を覚えた。花形の口にやっと銜えられたのだと思った。
「あああ…はながた…も…」
 花形の愛撫に充分に慣らされていた身体は、先端を舌先で軽くつつかれただけで、あっけなく達してしまった。それなのに、焦らされて燻り続けた熱は、一度では治まってはくれず、息つく間もなく扱き始めた花形の手の中へ、再度、精を迸らせてしまう。

 続け様に吐き出した後、白々と薄れていく記憶の狭間で覚えているのは、部屋の電気がまだ点けたままになっていたことだった。



 ふわりふわりととても柔らかな眠りの中。ベッドが少し揺れたおかげで目が覚めた。
 それでも、まだ眠くて、目を擦りながら隣を見ると、花形がいない。
「あ…れ?」
 ぼんやりとする頭で考えようとするが、上手くまとまらない。起き上がろうとすると身体が鉛のように重く感じられる。何だか面倒になってきて、名前を呼ぶだけにした。
「はながた、花形?」
「ん? 気が付いたか? ちょっと待って」
 声のするほうを見ていると、花形はベッドの向こう側から起き上がってきた。手には本を持っている。
「え〜〜と、その本は……」
「そうだよ、藤真に取り上げられて、ベッドの下に放り投げられた本だよ」
 やれやれと言った感じで話す花形は、怒っているところはなくて、いつもの花形に戻っているようだ。
 花形の方に寝返りを打って、
「ごめんな…」
「どういたしまして」
 本に付いた埃をタオルで丁寧に拭いた花形は、ベッドの横の小さな本棚に片付けると、藤真の隣に向き合って横になった。藤真の髪をすきながら、
「だいぶ疲れたろ?」
「うん…。瞬きするのもしんどい…」
 心地良い疲労感の中で、花形から額にキスをもらう。
「だろうね。何回イッたか判らないくらいだからね」
 くすくすと笑いながらそんな意地の悪い事を言う花形に、
「お前、ヤなヤツになったねぇ」
「だけど、大好きだろ」
 しれっと言いながら、今度は唇にキスをくれる。蕩けそうなキスに、何か言ってやりたかった気持ちも溶けてしまい、もうどうでも良くなってきて、
「腕枕」
「はいはい、どうぞ」
 ごつごつしている腕を枕代わりにして、その広い胸に顔を埋める。うとうとしながら、それでも、少しだけ残っている悔しさをやっぱり言っておかなければと思い、
「大嫌いだよ。大好きだけ…ど……」
「はいはい」
 花形は返事と一緒に額にキスをくれたようだったけれど、瞼が重すぎて、それ以上は何も判らなかった。

 憎まれ口を一言残した後、すぐに気持ち良さそうな寝息を立て始めた藤真を間近に見ていた花形は、もう一度、その柔らかな唇に触れるだけのキスをした。