透き間を埋めて



 誰かのこと、好き?
 どんな風に好き?







 練習も何もない休みの日、花形は藤真の家に来ていた。
 主将と副主将の二人で自分達の試合のビデオでも見ようとの、藤真からの提案を受けての事だったが、その話を持ち出した時の藤真の何となく嬉しそうな表情を、花形はいまでもはっきりと覚えている。急ぎの用事が珍しくなく、比較的のんびりと観賞できるのが藤真には良い休息になるからだろうと、そう花形は考えていた。
 本当なら、負う責務は主将だけのはずだったのが、監督まで引き受けなくてはならなかった事に、花形は今でもやり切れない気持ちになってしまう時がある。藤真に自分の為に使える時間をもっと増やしてやりたい。そのために自分がしてやれる事と言えば、少しでも負担をかけないようにする事くらいしかなくて、そんなもどかしさにいつも歯痒い気持ちになってしまうのだ。

 藤真のために。
 いつも、それこそ四六時中そんな風に思っていたからだろうか。いつのまにか、花形の心の中は藤真でいっぱいになっていっていた。


 藤真のベッドに二人して背を凭せ掛けて、試合のビデオを見る。時折、分析なども挟みながらの鑑賞だが、いつものような緊張感の漂うような切羽詰った感じはなくて、まだ二人が一年生だった頃のようなのんびりとした雰囲気で、ともすれば、眠気にでも負けてしまいそうになってくる。

「今度、新しいフォーメーションを試してみようと思うんだ」
「時間、取れるかな。レギュラーだけででもやってみるか?」
「だなぁ。みんなの練習見てたら、時間、足りないかもな。あ、それからさ、他にも試してみたい事もあるんだ」
「藤真らしいね」

 何か楽しい事を見つけた時の子供のような笑顔をしながら話す藤真に、花形は少しの安堵感に包まれる。
 バスケットの話に終始しながら、穏やかに時間が過ぎていく。

 何本目かのビデオを見ていた時、手元のノートに気が付いた事を書いていた藤真の手が止まり、けれど、視線はじっと画面を見つめている。
 花形も藤真と同じように画面を見つめていたが、あまりにじっと画面ばかりを見つめているので、手元のノートに目をやり、それから藤真の方を向いて、
「どうした。俺は気が付かなかったが、そんなに気になるような事があったか?」
 花形が話しかけても藤真は返事をしない。何か、考え事に没頭しているようだ。
 気が付けば、ビデオの試合中の音以外は何も聞こえない部屋で藤真と二人きりでいる。その事に花形は何となく息苦しさを感じ始めていた。
「藤真?」
 藤真は、花形の方を向いて、
「花形…」
「なに?」
 花形を間近でじっと見つめてくる藤真に、そう言えば、こんなに近くでお互いの顔を見合わせた事がなかった事を思い出した。
「お前…、好きなヤツいる?」
「は?」
 突然、考えもしなかった事を聞かれて、花形は驚くしかなかった。
「だから、好きな娘はいるかって聞いてんだよ」
「どうして?」
「聞きたいから」
「聞きたいからって、お前…」
 藤真の真意が判らずに答えに窮していると、
「キスはしたことある?」
「藤真、あのな…」
「したことあるのかないのか、どっちなんだよ。それくらい答えられるだろ」
「ない」
 きっぱりと返事をした花形に、藤真はにやりと笑って、
「やっぱりな。だと思った」
 さも嬉しそうに話す藤真に多少ムッとした花形は、
「けれど、好きなヤツはいる」
 そう言ってやると、藤真の顔色が一瞬曇ったように見えたが、先程からの唐突な質問責めに嫌気がさしていた花形には、藤真の気持ちを察してやる余裕はなかった。それ以上に、
「別に良いじゃないか。そもそも練習で忙しくて、好きなヤツはできるけど、キスまでしてる暇なんてないからな」
 最後は藤真への嫌味を込めて言ってやる。
 しかし、そんな事は気にならないのか、
「実は俺も経験なしなんだ。俺たち、この年なのに経験なしってのもどうかと思うんだよ。花形はそうは思わないか。こんな事では、いざと言う時に失敗してしまうかもしれない。万が一、ヘタクソ呼ばわりされるかもしれない。他のヤツならそれでも良いんだろうけど、俺は嫌だ。だからさ、俺達だけでも経験してみない? 練習と思って」
「はい?」
 時々、花形が思いも付かないような突拍子もない事を言っては慌てさせてくれる藤真であるが、今日は特にどうかしている。練習練習の毎日で遊んでいる他の学生が羨ましくなったのだろうか。こんな理由、藤真に限って言えば一番遠いような気がする。それなら、どうして…。

 色々な事が頭の中を駆け巡っていて、何と言っていいのか判らない。
「え〜と、なんだって? 俺たちでって、どういう事だ?」
「うん、俺とキスしてみないかって事。これも練習だ」
 しれっと言う藤真に眩暈を覚えつつ、どうしたものかと考えているうちに、藤真はもうその気でいるらしい。花形の顔に自分の顔を近づけてくる。キスに眼鏡は邪魔だかと言って、花形が何か言う前に勝手に眼鏡を外してしまう。
「おい、藤真っ」
 花形の言葉など耳に入らないのか、藤真はぐっと近づき、
「四の五の言ってないで、ほら、俺の顎を掴めよ。優しくな」
 すぐ目の前で囁くように誘ってくる藤真に、もう後には引けないと思った花形は意を決して、
「判ったよ」
 動かないようにと藤真の顎を指先で掴む。思っていたよりも細い顎に、ドクンと心臓の音が聞こえる気がした。
「俺の事、好きな女と思えば…」
「俺は、藤真とキスするんだよ」
「え…」
 藤真が何か言いかけたが、花形はそれには構わずに藤真の唇に自分のそれをゆっくりと重ねていった。
 柔らかい―――と感じた瞬間、じんと痺れるような感覚が突き抜けていった。
 少し離れた時、藤真の唇はうっすらと開いていて、その奥に薄紅い舌が見える。その舌に誘われるように、また唇を重ねていく。軽く吸い上げると、藤真の舌が差し込まれてきて、お互いに絡ませあう。
 腰の辺りに痛いほどの痺れを感じながら、キスだけの行為がそれ以上の深くなる予感に覆われた時、突然、藤真が花形から離れた。
「あ、ごめん。玄関に誰か来たみたいだ。行って来る」
 早口でそれだけ言うと、藤真は慌てたように立ち上がり、藤真とキスをしていたままの姿勢でいる花形を置いたまま、急いで部屋から出て行った。

 思い切りドアを閉めて言ってくれたおかげで、その音で我にかえった花形は、今まで藤真が座っていたところをじっと見ていたが、大きなため息をついて、寝転がった。
「あの野郎、自分から言い出したくせに先に逃げ出しやがって…。ばかやろう」
 キスをしたせいで身体の奥に灯ってしまった熱をどうしていいのか判らず、天井に向かって藤真への文句を吐き出す花形だった。
「俺は、そうさ、キスなんて、そんなシャレた事した事ないぞ。俺の好きなヤツの事、教えてやろうか。そいつは、身長が178cmもあって、髪は短くて刈上げで、色は茶色、目も茶色がかってたかな。いっつも、くるくる表情の変わるヤツで、側にいるだけで―――それだけで良いと思ってたんだ…」
 誰に聞かせるともなく一気に話した花形は、一息ついた後、
「藤真が好きなんだよ。それなのに、あんな事やっちまうなんて…」

 藤真が、どんな気持ちで、何を考えてキスをしようと言い出したのか判らない。いつもの悪戯心がさせたのかもしれない、或いは、自惚れてもいいのなら、藤真も自分の事を好いてくれている証拠なのかもしれない。
 けれど、どちらにせよ、本心は隠し通し告げるつもりのなかった花形にとって、キスをしたことがきっかけで藤真に対して気持ちが溢れ出してこないだろうかと、これからの事を思うと正直なところ自信がなかった。
 起き上がり、藤真が座っていたところを見ていると、ため息しかでてこない。
「あのバカは…」



 その頃、藤真は洗面所にいた。
 花形から離れて部屋を出た後、玄関まではきたのだが、すぐ側にある洗面所に駆け込んだのである。すぐにばれてしまうような言い訳を残してまで、花形から離れたかったのは、もう我慢の限界だと思ったからだった。
 洗面台で水で顔を洗ったあと、鏡で自分の顔を見ると、思った通りに紅くなっている。息はまだ少し荒く、心臓の音までも聞こえてきそうだ。
「俺って、バカみたいだ…」
 自嘲気味に笑った後、鏡に映っている自分の顔を見ながら、指先で唇に触れてみた。まだ熱が残っているような、花形を感じているような気がしてきて、身体中が熱くなってくる。

 花形に好きな人がいるのかどうかなんて、いつもは気にしたことがなかった。いつの間にか芽生えていた淡い想いにも、特に驚いたりはしなかった。告げる必要もないくらいに近くにいる二人だから、自分にとっては、ごく自然な気持ちだったからだ。
 それなのに、どうしてだろう。のんびりとした二人だけで過ごす休日に、少し気が緩んだのだろうか。
 花形の事をもっと知りたい。
 そう思い始めたら止まらなくなって、好きな子はいるのか、キスはした事があるのか、挙句に、キスをした事がないと聞くと、練習という言葉にかこつけて花形とキスまでしてしまった。
 花形の「好きなヤツがいる」の言葉に焦ってしまったのだと思う。それならば、せめて初めてのキスくらいは自分のものにしたいと思ったのだ。

 初めて触れた花形の唇。少し乾いてかさついていたけれど、とても柔らかな感触に思わず我を忘れそうになった。自分を見失わないようにと必死に言い聞かせながら、けれど心は正直で、自分から花形を誘い、どちらからともなく舌を絡み合わせていた。

 顔を上げると、また紅くなっている自分がいる。それでなくても、深くなりつつあったキスに身体の奥に熱が篭ったままなのだ。
 藤真は、その場にしゃがみ込むと、自分の身体を抱きしめた。早く静まって欲しい。早く、元通りに戻って欲しい。そうでなければ、花形に顔を合わせられない。
 藤真は、自分から言い出した事とは言え、後悔せずにはいられなかった。


 それにしても、ずっと気になっていることがある。

『俺は、藤真とキスするんだよ…』

「あいつ、なんであんな風に言ったんだろ…」
 花形の心がどこにあるのか、まだ判らないでいる藤真だった。