てのひらのなか



 眩しい陽射しに急かされる朝。
 最初にする事は覚め切れない目を擦りながら目覚まし時計で時間を確かめること。

 掛け忘れられている事に気が付く頃、隣で寝ている男の向う脛を蹴飛ばして起こしてやろうかと思っていたら、先を越されて脇腹をくすぐられてしまう。身体の一番弱いところを攻められながら、寝ていたはずなのに先に仕掛けてくるなんて、なんてずるい野郎なんだと言ってやりたいのに、身体を捩りながら笑い転げ始めると、もうだめ。観念して白旗を上げると、お詫びの印とか言って髪に何度もキスをしてくれる。大きな手で髪を梳かれ、合間にキスをもらう心地よさは格別で、今日が平日でなかったらもっと欲しいと強請っているところだよ。


 そんな気持ちを抑えて起き始めた頃には、すっかり目は覚めていて、顔を洗う前には簡単な仲直りもすんで。朝の短い時間の中では、じゃれて遊んでいる暇なんてないからね。

 ほらほら、お湯が沸いたから早く止めなきゃ。
 コーヒーは後でいいから味噌汁が飲みたい、トーストも焼こう、マーガリンをぬったら蕩けるチーズをのせるのは俺の方。そうだ、昨日の残りのレタスをサラダにして食べれば美味しいかも。テーブルを拭いている間に刻んでおくから、他の準備は任せたよ。

 新聞見ながら食べるなんて、随分親父らしくなってきたぞって言ってやったら、眼鏡の奥からそれだけは言って欲しくないような目で睨んできても、俺は平気なんだって。知らん顔決め込めるのが、俺の専売特許なんだから。
 それにしても、朝はなんて早く時間が経ってしまうんだろう。
 電車に間に合わないからって、男二人で玄関先で鞄の中身を確かめたり靴を履くのは窮屈だって判っていても、どうしても同じ事ばかりを繰り返してしまう。

 きっと、小さい時からずっとこんな風だったんだよ。小学生の頃に同じ事で叱られてばかりだって、翔陽で出会った後、そう言ってたろ。要領が悪いのか不器用なのか、随分悩んだよな、俺たち二人。
 ああ、時間がないって。

 外に出て走り出せば、背中を見て走るのはいつも俺。でも、良いんだ。大きな背中を見て走るのが大好きなんだから。
 出会ったばかりの頃は、先頭を走っていたのはいつも俺の方で、お前は俺の背中ばかりを見て走っていたって。そうやってずっと追いかけていた事を教えてもらった時は、嬉しかったはずなのに、妙に照れが邪魔をして怒鳴って怒ったりしたね。
 もう、こんな時間になったよ。懐かしい話ばかりをしていても仕方がないから、さあ、出かけようか。鍵を掛けるのは、今日はお前の番だから、早く用意して。

 そうして、いつものようにドアを開けて駆け出していく。
 昨日もこんな風な朝を迎えて、きっと、明日も同じような朝が来て、次の日だって、その次の日だって同じ朝が来る。
 同じ毎日が、いつものように繰り返されていく。取り立てて変わったこともないごく普通に暮らす毎日をすごしていく。二人で静かに積み上げていく時間の中に、誰も入り込んでは来れない。
 そう信じている。


 いつからだろう。
 いつも側にいたお前と、いつも一緒にいたいと思い始めたのは。そこには素直な想いがあるだけだった。俺が居る場所にお前が帰ってくる。たったそれだけの事。

 どちらかが先に帰ったら、電気をつけて部屋を明るくして待っている。食事は外で済ませても、寝る前に少しのお酒でも飲みながら、他愛ない話に笑いながら熱中して。大事な眼鏡を預けてくれるのも、たまにおどけて掛けさせてもらえるのも、手を伸ばせば、いつだってその体温を感じていられるのも、すべて俺だけに許された事。そんな事に、凄く心が満たされるなんて言ったら、お前は笑ってしまうだろうけれど。

 夢とか願いとか言うほどのそんな大それた事ではなくて、ほんとにほんとに小さな事。二人が一緒に居られるだけで良いんだ。
 二人がいて、初めてひとつのものに見えるように、きっと俺たちはそんな風なかたちをしているんだと思っている。だから、よく聞くような性格の不一致とか色々な理由で別れてしまう人達の事は自分達とは関係のない、遠いところの話だと思っていた。そう思っていた。
 けれど。
 二人の気持ちのその先にあるものや何が待っているのか、本当は知っていたのに、目を逸らして気が付かないふりをしていただけなのかもしれないね。


 こんなに難しい事だったなんて、知らなかったよ。