遊びの時間(一)



 階段を上りきった所で少し呼吸を整えるために立ち止まった花形は、腕時計で時間を確かめた。
「遅れたか…。藤真のヤツ、怒ってるだろうなぁ」
 約束の時間より少し遅れてしまったことで、待っている藤真の機嫌に思いを馳せると、知らずに溜息が口をついてでてくる。
 遅れた理由はきちんとあるのだが、あの藤真の事だから、きっと弁解の一つもさせてはくれないだろう。一度機嫌を損ねさせてしまうと、中々聞き入れることをしない。
 凛とした監督の姿からは遠く離れているような藤真の年相応とも言うべき子供っぽさに、初めは振り回されてばかりいた花形も、二年も付き合えば慣れてきたこともあって、少々の機嫌の悪さなら交して流せるようになってはいたが、それでも、つい愚痴を零してしまう。
「自分は遅れても平気なんだから…、ったく…」
 小さな溜息を一つ吐き、待ち合わせの約束をしている図書室のドアを開けた。

 人気の少なさを感じて中をさっと見回すと、今日から試験一週間前に入るため部活動が禁止になっていて、普段なら、試験勉強などで生徒の利用が多くなっているはずの図書室が閑散としている。その事に何となくホッとしている自分に戸惑いを覚えた花形は、それを追い払うように頭を左右に軽く振る。
 気を取り直して、貸し出しカウンターにいる今日の当番に軽い挨拶をした後、初冬の寒さが増してきているこの時期、藤真が好んで指定席のようにしている窓側の方に目を向けると、
「居た居た、やっぱり、あそこか。判りやすいな、藤真は…」
 先ほどポツリと吐いた愚痴がもう欠片さえ残っていないような、そんな柔らかな笑みを浮かべた花形は、藤真の席まで静かに歩いて行った。

 試験前の部活動ができない時には、いつもは花形か藤真のどちらかの家で試験勉強やレポートを纏めたりするのだが、今日は、気分転換をしたいという藤真の希望を聞き入れて、珍しく図書室ですることになったのだ。
 窓ガラスを通して差し込む暖かな日差しを背中に受けて、待ちくたびれたこともあって藤真は机に突っ伏して眠っていた。その頭を手で軽く叩き
「遅れてすまんな」
「う…ん? あぁ、花形…」
 気持ちよく寝ていたらしい藤真は、目を擦りながら擦れた声で返事をした後、今度は手を口に当てて欠伸をしている。花形が心配していたような機嫌の悪さは見られない。
「いや、良いけどさ。お前、来るの遅いから、ついうとうとしちまってたら、もう夢の中ってな。良い夢、見てたんだぜ」
「申し訳ない。それより、進んでるか?」
 欠伸のし過ぎで目元に涙を浮かべて話す藤真の前に広げられているノートやレポートを、覗き込みながら花形が尋ねると、
「これが進んでるように見える?」
 藤真はノートを手に持ってヒラヒラさせる。殆ど真っ白状態のそれを見せられた花形は口元に苦笑を浮かべ、藤真の向かいの椅子に腰を下ろした。
「遅れたのは謝るが、進んでないのをオレのせいにするなよ」
「花形ってさぁ、涼しい顔して失礼な事言うよなぁ。オレがそんな事、言う訳ないのにさ」
「そうか。藤真と付き合ってると、こうなるんだよ」
「益々失礼な奴。友達、止めたくなるね」
「どうぞ」
「ほんと、嫌な奴…」
 花形の準備が整うまでの間、声を出して笑ってしまいたいのを必死で堪えながら、憎まれ口の応酬を続ける。
 バスケから離れたのんびりとした時間。それぞれに言いたい事を言い合って、そんな他愛ない会話が楽しくて、つい本来の目的を忘れてしまう。
 けれど、学生の哀しさとも言える試験のために机の上に出している教科書やノートをそのままにしておくこともできなくて、お互いに苦笑しつつ、仕方なく勉強を始める事にした。

 やっと静かになった矢先、花形が筆箱の中をごそごそとさせながら何かを探している。
「何? 何、探してんの?」
「消しゴムがなくて…。おかしいな、授業が終わった後、片付け忘れたかな…」
「オレの使えば?」
 そう言って藤真は、自分の筆箱を花形の方へ投げてやった。
「サンキュ。じゃ、ちょっと借りるな」
 そこへすかさず、
「ノート一冊と交換だから」との無理難題な言葉が藤真から飛んでくる。
 日常茶飯事のように繰り返されるいつもの藤真の冗談に、大げさに溜息をついた花形は、そんな藤真を無視するようにさっさとノートに向かう。
 自分の本気とも冗談ともつかないような言葉を簡単に無視してくる花形に藤真は、向こう脛を軽く蹴飛ばす事で仕返しをする。花形が睨み気味に顔を上げると、ニッと笑っている藤真と目が合い、何かを言い出そうとする前にさっと教科書に向かう。
「オレもガンバローっと」
 やっとやる気になったらしい藤真に、悟られない様に笑いを堪えるのに必死の花形だった。


 暫くすると、シャープペンシルの乾いた音と、たまに、ノートや教科書を捲る音くらいしか聞こえなくなっていた。
 ふと、顔を上げた花形の目に、藤真の髪がさらりと動くのが見えた。静かになったのは、また、眠ってしまっていたからだったのかと思うと、口元が自然と綻ぶ。
 毎日が一分でも一秒さえも無駄にしたくないと思えてしまうほど、藤真の周りは忙しくなった。それは花形も同じであったが、やはり表に出るのは藤真の方が断然に多く、その大変さは花形のそれとは比べ物にならないだろう。だから、こんな風にうたた寝ができる時間が持てる今は、とても貴重なのだろうと思う。
 先ほど、花形がくるまで少し寝ていた藤真だから、中途半端に起こされて余計に眠いのかもしれない。そう思うと、声をかけるのが躊躇われてしまい、まだ一日目だからと花形は自分に言い訳をして、藤真を起こさずにそのままにしておいてやることにした。

 ノートと教科書の上に重ねた両手に頬をのせて、気持ち良さそうに寝息を立てている。藤真が身動ぐと、それに合わせるように淡い色合いの髪がさらさらと動く。
 その瞬間、鼓動が早くなる。
 落ち着かなくなり始める自分を諫めるように、花形は窓の外に目向けた。それでも、心は正直で、視線はまた藤真に戻ってしまう。
 シャープペンで藤真の頭をコンコンと軽くノックしてみる。本当は、そんな事ぐらいでその眠りが覚めないことは判っている。判ってはいるが、どうしても確かめたい。起きていない事を、まだ、眠っている事を確かめておきたかった。
 そして、口をついて出てきた言葉は、
「ノート一冊と下心一回分の交換なら……」
 僅かな時間の後。
 花形は声に出してみて初めて、自分がとても恥ずかしい言葉を発したのだと、自覚せずにはいられなかった。
 あまりに情けなくて、込み上げてくる笑いを、俯いて喉の奥で引き止める。
 今のは嘘だ。そんなもので交換できるような、男子校ならではのふざけた遊びの延長のようなものではなく、もっと純粋な気持ちだ。そう信じている。
 けれど、触れてみたい衝動に駆られる事が一度や二度ではなく、いつも二つの気持ちの間で揺れている自分がいる事もまた事実だった。

 図書室を見回すと、入り口近くにある貸し出しカウンターのところでは、暇なせいか当番もうたた寝している。
 また、窓の外に目を向ける。どんよりした雲の透き間から差し込んでくる日差しがとても暖かで、自己嫌悪に陥りそうだった心を柔らかな気持ちにさせてくれる。
 もう一度藤真を見つめ、静かに息を吐いた後、
「さっきのは、なかったことにしてくれ」と、一言そう言って、また教科書に向かった。

 ページを捲る音だけが、微かに聞こえては二人の間に溶けていく。


 ―――今日も空振りか……

 教科書を読み始めた頃までの記憶はあるが、そこから先がないのは、また眠ってしまったためだ。その眠りから覚める事ができたのは、花形に頭を何かでコツかれたからだったが、すぐには起きる事ができなかった。
 ようやく聞けた花形の下心つきの告白に、もう少しで吹いてしまうところだったのを、藤真は何とか堪えていたのだ。

 それがいつ頃だったかは、もう覚えていない。それほど前から、花形の気持ちには気がついていた。藤真も同じ気持ちだったからだ。
 多分、花形もお互いに想いあっている事に、薄々は気がついているはずである。それなのに、今以上には近づこうとしてくれない。
 そんな花形に歯痒い思いに駆られた事もあったけれど、藤真はそれで充分だと思うようになっていた。急がなくても、ゆっくりでも良い。それがふたりに合った時間なら、それで良いと今では思っている。
 まだ心が決まらずに揺れてばかりの花形と、どちらが先に根を上げるか、我慢できなくて告白するかを、藤真なりに楽しみながら待つことにしたのだ。
 いつまで我慢できるのか、藤真自身にも判らない事だけれど。


 この先、いつ来るか判らないお互いの気持ちを伝え合える時のことをぽつぽつと考えながら、またうとうとし始めた藤真だったが、頭を何かでパタパタと叩かれていることに気がついた。
 やっとの事で起き上がり、それを花形から取り上げてみると、
「何かと思ったら、定規で? こんなもんで叩くなよ。せめて身体揺するとかして起こしてくれればいいのに…」
 ぶつぶつ文句を言う藤真に、
「すまんな。遠くて、それしか使えなかったんだよ」
「はいはい、起こしてくれて有難う」
 自分のまだ半分ほどしか進んでいないノートと、目の前の花形のノートとを比べながら、
「さすが花形。ずいぶん進んでるじゃないか。後で―――」
「自分の分は自分でする。ほら、さっさと始めろ。時間がなくなるぞ」
 相変わらずな花形に藤真は口を尖らせながらも、またノートに向かうことにした。

 僅かに俯いたその時、藤真の口元に笑みが浮かんでいた事を、花形が気がつくことはなかった。