体育館での練習を終えた後、掃除と最後の戸締りを下級生に任せた藤真や花形の三年生達は、シャワー室へ向かった。
 冷たいシャワーを浴び、汗と共に気が付かないうちに感じていた緊張感も一緒に洗い流す時に感じる、練習で火照った身体が元の体温に戻っていく心地良さに、藤真はついと酔うような錯覚を覚えてしまう。
 汗は流せても、身体の中に染み込んでくるものがあって。試合後の高揚感や重なり合った後の二つの熱の一つ一つが、大事な思い出になって身体の中に刻み込まれ残されていくような感覚がして、藤真は好きだった。
 廊下を歩きながらその心地よさを思い出して、ついふぅ〜とため息をつくと肩を軽く叩かれた。振り向くと花形が流れ落ちる汗を拭きながら、
「お疲れさん。ずいぶん慣れたみたいに思ってたけど、まだまだ大変なんだな、監督さん」
「そんなんじゃなくて、練習が終わったら、普通ため息くらいつくだろ?」
 花形はそれには何も答えずに、柔らかい笑みを浮かべて見つめてくるだけ。本当は何を考えていたのか、心の中まで見透かされているような眼差しに気恥ずかしさを覚え、
「なんでもないよ。早く行かなきゃ順番待ちになっちまうぞ」
 花形の背中を押しながら、シャワー室へと急いだ。
 それでも、花形の言葉で、最近は監督を兼任しての練習に天分の冴えを見せてきた藤真も、最初の頃の緊張感で身体がガチガチに硬くなってしまっていた事や、思いどおりに進まない事への苛立ちからすぐに頭に血を上らせていた自分を思い出して、苦笑を禁じえなかった。




 スポーツタオルでまだ濡れている腕を拭いている藤真の隣では、花形がやはりまだ濡れている身体を拭きながら、高野や永野達と談笑している
 内容はと言えば、体育館で練習をする時に詰め掛けてくるギャラリーの女の子達の話だ。髪の長い娘が良い、いや、ショートの方が良かった。今日は何校くらいの生徒が来ていて、制服は何処が良いとか。
 藤真には特に興味もない話なので、その輪には加わらずに背中を向けたまま聞くだけにしていた。
 その時、ふと花形が自分の右側を隠すように立っている事に気が付いた。背中のせめて半分でも見せないようにと自然に立っている花形に、昨夜の事を思い出した藤真は誰にも見られない様に口元を綻ばせた。

 熱く酔いしれるような時間が過ぎ、うつらうつらしていた藤真の耳に聞こえてきたのは、花形の困ったような声だった。
 「ああ〜、こんなにはっきりと痕がついたか…。藤真に知れたら怒るだろうなぁ…」
 日焼けをしていない肌は白く、強く吸い上げられるだけで痕が付いてしまう。いつも気をつけて欲しいと頼んでいても、あまり守られた事がなく、最近では、藤真自身でさえどうでもよくなってきていたのだが、律儀な花形にはそこまでは割り切れないらしい。
 その後、すぐに寝付いてしまった藤真には、花形がそれからどれくらい悩んでいたのかは知る由もないが、こうしてこっそりと隠すくらいしか良い案は思いつかなかったのだろう。
 花形らしい心遣いに、ぽつぽつと込み上げてくる温もりとも熱とも言えないようなものを感じてしまう自分が可笑しくて、同時に同性を好きになってしまった自分は相当にイカれているのだろうとも思った。
 寡黙で、あまり怒ったところを見せない花形は、下級生から主将の藤真よりも慕われているところがあって、少しばかり妬けてしまいそうにもなる時がある。けれど、それ以上に藤真の心を満たしてやまないのは、自分だけに花形の秘密を知る権利を与えられていると思えるからだ。
 眼鏡の奥にある瞳はいつも優しげな眼差しを湛えているが、その向こう側にある激しさを誰も知らない。熱いひと時を共有している時の花形が、時に激情のままに自分を欲する。誰も知らないそんな花形の素顔を、自分だけが知っている。その事にささやかな優越感に包まれる藤真だった。


「藤真?」
 自分の考えに没頭していた藤真は横から頭を軽く小突かれて、ようやく意識を現実に戻した。
「な、何だよ。痛いじゃ…ないか…」
 横を向くと、花形がこちらをじっと見ている。
 ひょっとして、今まで花形の事で頭の中が一杯だったことを悟られでもしてしまったのだろうか?
 しかし、ポーカーフェイスには自信のある藤真は、慌てる様子も無く何事もなかったかのようにもう一度尋ねた。
「何だよ?」
「あのな…」
「みんなで何か食いにいこうかって話してたんだ。藤真、聞いてなかったんだろ」
 花形が言おうとしたところを遮って、藤真の後ろから長谷川が先に答えた。
 振り向くと、長谷川に高野と永野もこちらをじっと見ていた。
「なんだよ、皆して…」
「なんか、余程の事を考えてたんだろ? 何度も呼んだのに返事なしだったからなぁ」
「藤真が考える事と言ったら、バスケの事位しかないから、もしかしたら―――」
「また練習量が増えるとか。何といっても鬼監督だしな」
「うへぇ、そりゃ困るわ。花形、何とか藤真を説得しろ」
 高野や永野から交互に関係ないことで責められても、まさか自分の世界に浸っていましたとは言えず、
「悪かったな、鬼監督で。明日の練習の事考えてて、聞いてなかっただけだろ」
 藤真の声音が少し変わる。ここで機嫌を損ねてしまっては、本当に練習量が増えてしまうかもしれないと思い、高野が慌てて、
「嘘嘘、藤真は厳しいが、鬼ではない。でも、練習メニューとか考えてたんだったら、やっぱり練習の事だろ?」
「まぁね。手際よく進むめるためにどうすりゃ良いか考えてただけ。だけど、そんなに増やして欲しかったら―――」
 いつものツンとした物言いに戻った藤真の言葉に、
「結構ですっ」
 高野と永野が同時に答えた。それらのやりとりを見ていた花形は、くすくす笑いながら藤真を見やり、
「で、お前も行くだろ? 練習の後のラーメン、美味いからな」
「通りを渡った所のラーメン屋だろ? 一緒に行く…けど…」
「用事があるのか?」
 藤真は待っている花形や長谷川達に、
「花形とちょっと話さないといけない事があるから、先に行っててくれ。後から追いかけるから」
「じゃ、先に行ってるよ」
 高野がくれぐれも練習量だけは増やさないようにと言い残して、長谷川や永野達と連れ立って部室から出て行った。


 先程までの賑やかだった部室に藤真と二人きりになった花形は、何の話があるのか判らなくて、ロッカーに凭れ藤真からの話を待った。
 藤真はようやく二人きりになれた事もあって、寛いだ様子で机に腰を下ろした。そして、花形をじっと見つめて、
「ちょっと、聞きたい事があってさ」
 何となく含み笑いをしているように見える藤真に花形は、
「何が聞きたいんだ?」
「俺の背中、隠してたろ? なんで?」
「あ、あの…、あれはな…」
 できれば聞いて欲しくなかった話題だったようで、腕組をした花形は横を向いたまま、黙ってしまう。想像していた通りの花形の反応に笑い出してしまいたいのを堪えながら、藤真は尚も言い募る。
「身体拭いてた時だから、何か付いてた?」
 花形は益々何も答えられず、バツの悪さから目を泳がせていたが、最後には藤真の視線に捉えられてしまう。しかも、その眼差しには、本当の事を言うまでは絶対に解放なんてしてやらないとでも言っているように思われて、仕方なく花形は頭を下げ、
「すまん。申し訳ない。あれだけ気をつけて欲しいって言われてたのに、やっぱり守れなくて…」
「何が?」
「つまり…、その、なんだな、背中とか腰とかにばっちり付いてるんだよ、キスマークが…。おまけに幾つも…」
 素直に謝る花形に、以前は煩いくらいに言っていた約束事に、今でもこうして拘りを持ってくれている事が嬉しいと思える藤真だった。
「律儀だな花形は。俺なんか、もうどうでも良いって思ってるのに」
 その言葉に少しは安心したのか、ホッとしたような声で、
「そ、そうか。それなら良かった。だけど、どうでも良いって…。前はあんなに怒ってたじゃないか」
「まね。なんつーかさ、言ってくれてたら、俺も自分で見えないようにしたりできるだろ。なんてったって、花形は何回言ってもキスマークつけるからね」
 机に座ったままの藤真の前にきた花形は、まだ濡れている藤真の髪をくしゃくしゃしながら、
「ほんとにすまん。でも、仕方ないんだよな…」
「何がだよ」
 座っている藤真の顔に自分の顔を近づけた花形は、指先で顎を捉えて少し上向かせると、
「藤真は背中とか腰が弱いだろ。良い声出してくれるから調子に乗ってしまうんだろうな」
「なっ、何言ってんだよ。俺がそんな声なんて出すはずないじゃ―――」
 そう言って一発殴ってやろうと振り上げた腕は、花形に簡単に捉えられる。本気でやりあうつもりはなかったけれど、それでも面白くなく膨れっ面の藤真に、花形は触れるだけのキスをした。

 少し長めの触れるだけのキスが終わり顔を上げた花形は、頬をほんのり紅くさせながらも睨みあげてくる藤真が、まだ怒っていることを不思議に思い、
「どうした?」
「短すぎる」
 きっぱりと言い切られた花形は、その言葉の意味をすぐに理解し、
「はいはい、気が回らなくてすいませんね、監督さん」
 もう一度キスをしようとして近づくと、藤真の両手に押し留められる。何? と言うような目をして藤真を見ていると、
「これは邪魔」
 そう言いながら花形の眼鏡を外し、丁寧にたたむと自分のシャツのポケットに仕舞い込み、もう良いよと花形の首に両腕を回してくる。花形は腰を抱き寄せ、ぐっと近づいた藤真の唇に自分のそれを再び重ねていった。
 軽く押し付けた後、藤真の上唇や下唇を柔らかく挟みこんだり、舌先で唇をなぞったりしていたが、焦れた藤真が口をあけると、誘われるままに舌を差し入れる。そうして、何度もお互いの吐息を絡み合わせる。

 長いキスが終わり、花形が離れても藤真はまだ長い睫を落としたまま、うっすらと開いた唇からは甘い吐息を漏らしている。花形はそんな藤真の瞼にキスを一つ落とすと、
「早く皆のところに行かないと、変に思われるぞ」
 無粋とも思われる花形の言葉は尤もで、仕方なく藤真は目を開けた。
「それもそうだな…、残念だけど。それより、俺の顔、紅くなってないか?」
「うん、真っ赤だ」
 花形の胸に頬を預けるように凭れると、ため息をついて、
「だよなぁ。花形があんなキスするから。まったく…」
 苦笑いしか浮かんでこない花形は、藤真の頭をぽんぽんと軽く叩いて、
「まあ、良いから良いから。早く食いに行こう。藤真も腹、減ってるだろ」
 何となく物足りなさを感じている背中を押して机から降り立たせた花形は、藤真の脇腹や腰を指先で摘んでやる。
 びくっとして慌てて花形から離れた藤真は、振り返り、
「花形っ、何すんだよっ。おまえ、知ってて―――」
「時間がないから、もう部室出るぞ」
 二人分のスポーツバッグを持ってドアから出ようとする花形を追いかけて藤真も一緒に部室から出て行く。
 急いで鍵を閉めた藤真の手をとった花形は、驚いて振りほどこうとする抗議には無視をして、
「走るぞ、ここから。店に付く頃には二人とも汗かいて真っ赤になってるから、誰も気が付かないって」
 花形は笑いながらそんな事をさらっと言う。藤真は、やっぱり適わないと思った。だから、友達以上に好きになれたのかもしれない。
 そして、誰も見ていないところまでなら花形と手を繋いで走ってみるのも悪くないと思い、花形の言うとおりにする事にした。

 ふたりが校門を走りぬける頃には、辺りはすでに暗くなり始めていた。