大切な一日



静かな雨の降る夕方。
ホームへ入ってきた電車を、藤真は改札口から少し離れたところの柱にもたれて見ていた。ドアが開いて吐き出されてくる人波に視線を走らせるが、どんなに目を凝らしてみても見知った顔を見つけることはできなかった。少し乗り出すようにしていた身体を、また柱にも凭れさせる。口をついて出てくるのは溜息ばかりになっている。
待ち始めてから、もう何台目の電車が行き過ぎただろう。次の電車で降りてこなかったら一度マンションまで戻っていようか。ふっとそんな考えが頭を過ぎっても、藤真の足はマンションへ向かう事はなかった。帰って来る時間をだいたい予想して出てきたのだ。迎えに来る為の理由も用意して。

『雨が降ってたんだ。だから、傘を持ってきた』

何事にもそつのない花形の事である。朝、出かけるときに持っていないように見えても、きっと折り畳み傘を鞄の中へ入れているだろう。自分が苦心の末に考え付いた理由が、花形にとってはとるに足らないような類のものである事は容易に想像できる。それなのに、そんな言い訳を用意してまで駅で待たなければならない自分の意地っ張りさに、藤真は今更に自分の性格を呪いたくなってくる。
たった一言だけで良いのに―――

『悪かったよ…』

言えなかった時から、二人の間に壁を作ったのは花形だったか自分だったか、もう忘れてしまった。最初はほんの些細なことから始まったように思うのだけれど、これと言ってはっきりとした原因があった訳ではない。お互いに慣れた間柄の中で、僅かばかりの思いやりを相手に出し惜しみしてしまった結果だと思っている。おかげで、一緒に住んでいながら、同じベッドに寝ていながら、食事もできるだけ一緒にするようにしていながら、会話をまったくしない。先に根を上げたほうが負けだと思う気持ちが拍車を掛けてくれているおかげか、どちらも顔を合わせる事はあっても口を開かない。声を聞かせる事を惜しんでいるようでさえある。二人を包む空気は重く、気まずい思いもしているはずなのに。
花形のそこらあたりの潔いほどの徹底振りは、高校生の頃に身にしみて知っていたはずなのに、長い付き合いのなかで少しづつ忘れてしまっていたらしい。人間の良さでもあり、悪いところでもあるのだが。

また溜息をついた藤真は、改札口から目を離して空を見上げた。
マンションを出る前から降り続いている雨は、当分は止みそうにない。
柔らかな線を描きながらまるで絹糸のように降る雨は、身体に絡みつき、静かにその芯までを濡らすように降り注いでくる。気がつけば身体の中に沁みこんでくるような、しっとりとした感覚。
そう言えば、こんな雨が好きだと何時だったか花形が言っていた事を思い出した。
もっと目の覚めるような鮮明なものを好む藤真は、さわさわと緩やかに降る雨があまり好きではなかった。降るなら降る、降らないなら降らない。そんな風に何事にもはっきりとしたものが好きだった。
花形に出会う以前までは。

――― 今は…こういうのも悪くないってか…

一緒にいる時間が少しづつ長くなっていくその間。抗えないほどに惹かれていく想いは、ごく自然に自分の中に芽生えていった。自身の中では違和感は殆どなかったと言っても良い。それ以上に自分の心を満たして止まないものがある。
たとえば、同じものを見ていたいと思う事。同じものを見て、同じ空気を感じ、気に留めたことも無かったものにも目を向けて、身体にも心にも記憶させていきたいと思う気持ち。
好きだと、これが恋なのだと気が付いた時から、そんな風に自分の中で起こる心の変化に戸惑う事はあっても不快感を感じる事はなかった。花形をもっと知りたいと思う気持ちの方が、ずっと強かったから。好きではなかったものにも興味を覚えるようになり、少しづつ嫌いではなくなっていく。今、目の前で降り続いている雨がそうであるように。
だから、喧嘩をしていても他に何があっても、待っていたいと思える相手なのだ、花形は。

見上げていた空から何気なくタクシー乗り場に目をやる。もうすぐ電車が着く時間なのだろうか、タクシーが次々と集まり始めている。次の電車でまだ花形が降りてこなくても、それでも自分はまだ帰らずにここで待っているつもりだ。あの頃から、ずっと変わらずに自分に向けられているものに会えると信じてもいるから。冷たい戦争の真っ最中で、不安な気持ちがないとは言い切れないのに、そんな風に思えるのは、きっと、花形も同じ気持ちでいてくれていると思うから。
今日が特別な日であることを。

また改札口に目をやる。ホームに着いたばかりの電車からあふれ出た人波の一番後ろにやっと待ち人を見つけることができた。頬が自然と綻ぶ。
改札口を少し俯き加減で通り過ぎた花形が、定期券をポケットに直しながら顔を上げた時、少し離れたところの柱に凭れている藤真と目が合うと、穏やかな笑顔を見せてくれた。
この笑顔が見たくて、自分はずっと待っていたように思う。
冷えていた心も何もかも溶かしてしまうような温かい眼差し。初めて欲しいと思った時のまま、少しも変わらずに自分の目の前にいる。時々、その恩賜も忘れて喧嘩して我侭ばかり言ってしまうのは、人間の悲しい性なのかもしれない。

ぼんやりとそんな事を考えていると、花形が側まで来ていて、いつもの笑顔と一緒に、
「遅くなってごめんな。いつもより長引いてしまって。藤真、随分待ったろ?」
こんな風に謝られたら、今朝までの事なんて忘れてしまいそうになる。何も言えなくなってしまう。
「いや、そんな事ないって。それより、雨降ってたから、傘持ってきたんだ…」
「ありがとう。今日は持ってなかったから助かったよ」
「どういたしまして。それより早く帰ろう。飯が冷めちまう」
「あれ、今日は藤真が用意してくれたの? 俺の番じゃなかった…」
少し大きめの傘を広げて歩き始めた花形が、意外そうに言ってくる。
「だって、今日は特別だからね」
お互いの傘の中から顔を見合わせて、だろ?って目配せすると、花形はやっと気がついたようだった。気がついたはずなのに、大きな背中を猫背気味にさせて足元を気にして歩いている。
ほんの少しの間、ふたりの間に沈黙が下りた後。小さいけれど藤真の耳にしっかりと聞こえるように、ありがとう…と花形の嬉しそうな声が届けられた。
藤真も顔を上げずに足元に視線を落として、…うん…と一言だけの返事。
もう、それだけで充分だった。

藤真は軽く傘の先をあげて降り続く雨を見て、来年もその次も、やっぱり同じ事を繰り返しながら大切な日を過ごしている二人を思い描いていた。