茜色の空



 イタチは森の中、いつもそうしているように一人で修業していた。まだ5歳。
 忍びになること。強くなること。見極められる力。
 幼心ではあっても、それははっきりと胸の内にある。

 目を閉じて。何も考えず。無になるように。
 ある一瞬を逃さずに、弧を描く手から幾枚もの手裏剣が飛ぶ。
 鉄の擦りあう音に、葉音が少し。
 静かになるのを待って目を開けて確かめてみると。

――― …うっ…

 狙った位置から手裏剣がほんの僅か外れてる。
 手にはもう一枚も残っていない。仕方なく、地に落ちている手裏剣を集めた。
 そうして。
 空を仰ぎ見れば、茜色の空が森の中からも見える。

――― もう夕方か…帰ってるかな…

 イタチは集めた手裏剣に目を落として、口元を綻ばせた。
 その顔は、先程までと違うまだ幼さが残る5歳そのままのイタチだ。
 急げ。
 そう呟きながら帰り支度を整え、駆けだす。今日は何としてでも早く家に帰りたい。
 待っていたのだ。本当に待ち侘びて。
 森を抜け、街中で声を掛けられても手を振って応えるだけで。
 ああ、やっと家が見えてきた。




「ただいまっ!」
 走ってきた勢いのまま玄関の引き戸を引いたものだから、戸が煩く啼く。
 しまったと思ったのだろう、イタチにしては珍しく家の中から声をかけられるのを待った。
 木の葉病院から退院してきた母の声を。

「イタチ、帰ったの?」
 奥の部屋から母が顔を覘かせて、
「ただいま…」
「いいから上がっておいで」
「今の音で泣いてない?」
「大丈夫だから、おいでイタチ」
「はい…」
 廊下をそっと早足で、母のいる部屋に向かう。
 部屋が近づくにつれ早足はおさまり、後少しなのに進まなくなった。何となくそわそわしてきて、手も汗ばんできている。
 何故?どうして?
 弟が生まれたのだと聞かされた時から、あんなに楽しみにしていたこの時なのに。
 初めて味わう感じに戸惑ってしまう。自分はもっと落ち着いているはずなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
「いいから、いらっしゃい。今、よく眠ってるから」
「ん…」
 母の声に促されて、イタチは静かに部屋の中に入った。


 畳の上に敷かれた小さな布団。
 そのそばにイタチは座り、すやすやと寝ている小さな顔を見つめた。
 掛け布団の襟から小さな手が見えて、そっと撫でてみる。
 小さな手は一瞬開いて、そうしてイタチの指を柔らかく握る。
 思わず母を振りかえると、
「名前はね、サスケって言うのよ」
「サスケ…?」
「イタチ、お兄ちゃんになったね」
 うんうんと首を縦に振りながら、イタチはサスケの寝顔をまた見つめた。
 その時。
「母さん、笑ったよサスケが」
「そうね…、赤ちゃんは寝ているとき、そんな風に微笑むの」
 母が笑顔を見せる。
「何?」
「イタチのそんな嬉しそうな顔、お母さん、初めて見たわ。あなたも人の子ねぇ」
「なんだよ、それ」
 ぷいと膨れるように母から視線をはずして、またサスケを見つめる。サスケはイタチの指を握ったままだ。
 サスケを起こしてしまわないようにそぉーと指を抜こうとするが、案外に見た目よりも強く握られていることに驚いてしまう。
 空いている手で頬を触ってみた。
 なんて柔らかい。
 柔らかくて何とも言えない感触に、胸の奥が熱くなってくる。
 無防備に、何の恐れも知らず眠る弟。
 イタチは顔を近づけ、
「サスケ、お兄ちゃんだよ。お前の事はお兄ちゃんが守ってやるからな」
 サスケはイタチの声がまるで聞こえたように、また小さな笑みを作った。
 それが嬉しくて。
「いろんなこと教えてあげるからな、強くなれよ」
 母がイタチの背をぽんぽんとたたいてくれる。
「お兄ちゃん、頑張ってね」
「うん…」
 何だか無性に嬉しくなってイタチは目を擦った。初めてだ。自分が嬉しくて泣くなんて。
「ちょっと顔、洗ってくる」
 言うなり、イタチは部屋から出て行った。



 それからは、サスケの子守りをよくさせられた。と言うよりも、それはイタチの表向きの態度だけで、内心ではサスケの側にいることが嬉しくてたまらないのだ。
「俺がちゃんと見てるから、母さんは用事して」
「ありがと、お兄ちゃん」


 サスケの隣で頬杖をついて飽きることなく見つめていると、サスケもイタチの顔をじぃーと見つめてくれる。
 母が言っていた。この頃の赤ちゃんはまだ視力が弱く、あまり見えてはいないらしい。じっと見つめ返してくれるのは、見えにくいからだとか。
 それでもイタチは嬉しかった。つい手を伸ばしては、サスケの鼻の先をちょんと触ったりしてみる。その度に小さくきゅっと目を瞑る仕草が可愛い。
 サスケが寝ている時、また小さな笑みを見せてくれないかと期待して見ているうちに、知らずに寝入ってしまったこともあった。そんな時は決まってイタチは、サスケの手を握っていた。
 
 初めの頃は殆ど寝てばかりのサスケも、ひと月ふた月を過ぎるころには、あやしてくれるイタチの手を追いかけたり触ったり。頬をつんつんと突くと、笑うようにもなった。
 元気に手足をばたつかせるサスケの握られた手の中に、イタチは指を握らせてそっと起こしてみたりもした。まだ、首が座ってなくて危なっかしくて、すぐに寝かせたけれど。
 そうしてみ月を迎えるころには、サスケはイタチの手を追いかけるようにして寝がえりを打てるようになった。
 うつ伏せで一生懸命自分の腕で身体を支えるサスケを見ては、イタチは「危ない時だけ手を貸してあげてね。なるべく自分でさせるのよ」と、母からの言いつけを守りきれなくて、サスケの脇を持ってやった。白湯を少しづつ飲ませてあげることもあった。
 イタチは、時間が許す限りサスケの側にいてやり、遊び相手になってやった。


 今日は父も母も夕方から留守にしている。
 イタチは、負ぶい布を肩から斜めにかけてサスケを抱きながら、縁側に座っていた。
 見上げる空がだんだんと暗くなってくる。
 と、同時に、里がなんだか騒がしくなってきている。
 嫌な感じだ。
「こんな時に、父さんも母さんも留守なんて…」
 サスケが何か察したのか、小さく泣いてぐずった。
「大丈夫だからな、サスケ。お兄ちゃんが守ってやるからな」
 よしよしとあやしながら、

――― 必ず守ってやるから…


 夜空を見上げながら。
 まだ5歳のイタチの決意は幼いものだったかもしれないけれど、はっきりと心に残るものになった。




   ◇◇◇◇◇




 木の葉崩しの爪痕がまだ残る里を見下ろした時、懐かしすぎる記憶に抗えずイタチは思わず目を閉じた。
 ほんのひと時の間。言い知れぬ痛みを伴う切なさに心が叫んでいる。

――― サスケ、あれからどうしてる?お前を忘れたことなんか片時もなかった…

 思い出すと言う言葉がないほどに、イタチはいつもサスケの事だけを思っていた。

――― 強くなったか。強くなって俺に追いついてこい。そして、追い越していけ…

 けれど。

 瞼をゆっくりと開ける。イタチは己の顔に仮面を着けるようにすっと冷たい瞳になる。
「あの里が哀れだな」
「柄にもない。イタチさん、久しぶりの帰郷は懐かしいですか?もしかして、あなたらしくないほどに未練が…」
 鬼鮫の声を聞きながら、
「ないね、なんの感傷もまるでないよ」


 忍であるが故の非情さと、駒にどうしてもなりきれなかったたった一つの未練を心の隅に留め置き、イタチは暁の一員として再び木の葉の里に足を踏み入れた。