Jealousy -2-



 うつらうつらと夢間を漂っていたら、聞きなれた声が耳に入ってきた。
 少し遠いその声は、多分電話で話をしているのだ。何を言って、何を頷いて、どんな返事をしているか。そこまでは聞き取れない。それでも、どこか急ぎの用があったのだろうと思えたのは、聞こえてくる声音がそう教えてくれた。

――― 出かけるんだ……

 ぼやりする頭でそんな事を考えていたら、電話を終えて部屋に入ってくる音がした。
 クローゼットを開けたみたいだから、着ていく服を選んでいるのだろう。
 そっと目を開けて、向けている背中で出かけていこうとする牧を感じてみる。夕方には寮に帰るのに。一緒にいられる時間なんて、そんなに多くないのに。逢いたい気持ちも側にいたい想いも同じはずなのに、どうして独りにするの。

――― あ〜あ…

 ベッドに近づいてくる気配を感じて、また目を閉じる。微かに寝息を立てて、寝たふりをして。でも―――。
 項に牧の唇を押し付けられたら、それだけで震えてしまう。感じてしまっている自分を、多分、気づいている。
「仙道…、すまんな、いまから急用で付属まで行ってくる。昼過ぎには帰れるから、大人しくしていてくれ」
「…………」
「できるだけ早く帰るから」
「………」
 もう一度項にキスをくれて、小さなため息と一緒に静かに部屋から出て行った。
 程なく玄関から音が聞こえてきたら我慢できなくて、被っていた布団を跳ね上げて、慌てて寝室のドアまで駆けて顔を出して、
「牧さんっ、俺、待ってるよ」
 ドアを開けながら振り返って、笑いながら、
「ああ、待ってろ」
 ちょっと照れくさくて俯き加減で、
「待ってるよ…」
 じゃ、と手を振る姿がドアの向こう側に消えていくのを、時間がゆっくり過ぎていくように感じながら見ていた。
「あ〜あ、行っちゃった…」

 ため息はつき慣れている。その後に少し俯くことにも。いつだってそうだ。忙しいから仕方がない。そんな事も判りきっている。だから。少ししかないない時間だから、一緒にいたいのに。牧だって同じ考えだろうことも理解しているのに、心は正直で、一人でいなければいけない時間を思うと、やはりため息しかでてこない。

「ふぁ〜あぁ、まだ眠いけど…起きようか。牧さんが帰ってくる前に掃除でも済ませるかな」

 ベッド脇に無造作に置かれている服を取り上げて、長袖のシャツの上からセーターを被り、後はジーンズだけのラフな格好で、さてどこから始めようか。
 まずは、風呂場かな。
 バスタブの栓を抜いてぬるくなったお湯を抜く。壁や鏡、シャンプー台も奮発して磨いておこう。一人住まいとは言え、あれでも牧は綺麗好きというか小まめというか、まめに掃除は欠かしていないのがよく判るけれど、独りきりの寂しさに負けたくなくて一心に磨く。

 30分はそうしていただろうか、風呂場はこの辺で充分だから、一休みしようと居間のほうへでてきた。ぐるりと見渡しても、掃除機をかけるほどでもない部屋だけれど、ついでにここも掃除だ。
 廊下の物置に掃除機を取りに来たその時。

ピンポーン

 インターホンが誰かの来訪を告げている。
 時間を確かめれば、まだ朝と呼べる時間帯だ。こんな時間に、どんな客が訪れたのだろう。
 出なくてもいいだろう。どうせ牧への客だろうから。
 そう思い、掃除を続けようと腰を屈めたとき、また。

ピンポーン

 何故か、牧ではなく自分が呼ばれているような気がする。人差し指の爪を噛む。
 どうするか。出ようか。牧のマンションに通うようになってそろそろ一年になるが、留守中に来訪者があっても出たことはない。出るべきではないと思っているから。けれど、さわさわと騒ぐ胸が落ち着いてくれない。
 思い悩んでいると、また催促のインターホンが鳴る。やっぱり呼ばれているのかもしれない。いや、考えすぎか。どうする。どうしようか。
 意を決して玄関まで来てみる。

「はい、どなたですか?」
「……」

 返事はないが、気配はある。
 鍵を開けて、ドアチェーンをつけたままほんの少しドアを開けてみる。
 その小さな隙間から見えた顔立ちには見覚えがあった。

「おはよう、仙道」
「あ、待って…」
 いったんドアを閉めてチェーンを外し、ドアを開けてみると、そこには。
「神……だね」
 静かな瞳をした、この四月から海南大へ進学することになっていると聞かされている神が立っていた。
「牧さん、出かけてるよ」
「知ってる。付属に行ってるんだよね。知ってるよ。だから、来たんだ」






 公園の入り口から入ったところにある自動販売機で缶コーヒーを二つ買う。ひとつを後ろから歩いて付いてきている神に投げて渡し、もうひとつをプルトップを外して、一口飲む。
 話がしたいと言う神に、部屋主のいないところへ上げることはできないから、近くの公園でもと誘って出てきたは良いけれど、果たしてどんな話があるのだろうか。
 近くのベンチに腰掛けると、神も黙ったまま隣に腰をかけた。
 神は、先ほど渡した缶コーヒーは飲まずに、手の中で持て余している。

「俺に話があるって、何?」
「うん…」
「今日は少し暖かいね…誰もいないけど…」
「仙道は…」
「ん?」
「…仙道は……牧さんと…どんな関係にあるんだろ?」
「どんなって……」

 突然訪ねてきてそんな事を聞く。どこかで牧と二人でいるところを見られたのだろうか。いや、ほとんど、ふたりで出かけることはない。ならば、何故。

「ふたりは付き合ってるの? つまり……男女が付き合うみたいに……」
 神の方を向き、そのまだ静かでいる瞳を見据えて、問うてみた。
「神は、どんな答えがほしいの?」
 何か言いかけた唇は閉じられて、手に持っている缶コーヒーを見つめている。
「一度だけ…」
「え…」
「一度だけ、ここの駅で見かけたんだ。牧さんが降りていった駅で、仙道が歩いているのを…」
「ああ、牧さんのところにはちょくちょく遊びに来てるから」
「違うだろ。それだけじゃないんだろ」
 初めて意思を持った瞳で見つめられる。
「その時判ったんだ、牧さんがどうして独り暮らし始めたのか。牧さんは付属に居た頃よりちょっと雰囲気が変わった。何故なんだろうと思ってた。大学生になったからかなとか思ってたけど、駅で仙道を見かけたとき、ああそうなんだって…」
「神……」
「大事にしてるんだと思ったよ」
 見つめられるのに居た堪れなくなったのか、また、視線を手元に落として、
「大切にしてるんだなって。だって、こんなところで独り暮らしだろ。大学に通うには便利じゃないし、それに、陵南と海南のちょうど真ん中くらいじゃないか。二人で居るときを大事にして…。あの牧さんがさ…」
「……」
「俺の知ってる限りじゃ、バスケにしか興味はなかったよあの人。バスケを離れたところで何かに興味を惹かれるなんて事は、あの人には一番縁遠いことだからね」
「……神、あのね…」
 コーヒーを飲み干して、缶を近くのゴミ箱めがけて投げ捨てた。カンと言う小さな音だけが聞こえ、朝の公園はなんて静かなんだろうと、そんな事を思う。心をざわつかせるものが何もない空間。子供たちの歓声で満ち溢れている太陽の下にある公園だって嫌いではない。ただ、そこに―――。
「牧さんの側にいるとさ…」
 神がこちらを向いたのが判ったけれど、まっすぐ前だけを見据えて続ける。
「すごく居心地が良いんだ。俺が居ても良い場所を作ってくれてると言うかな、そんな感じ」
「牧さんは真面目だし、理不尽な事も先輩だからってすることもない。海南の皆は知ってる。だから、尊敬できる人なんだ」
「そうだろうね。多分、そうだと思う。けど、俺が一緒に居る時は肩肘張らなくて良いんだ。気を使わなくてすむんだ。判るかな神に…、顔色を窺わなくてすむって言うことがどんなにほっとすることか」
「…」
「俺は牧さんが好きだよ。ずっと追いかける存在の人だったから。追いついたかなと思ったら卒業しちゃうし。肩透かしだよね。だからかな、今側にいるのは…」
「他に、何か他に理由はないのか、仙道…」

 理由―――
 側に居る事に理由があるとしたら、好きだという気持ちだけだ。確かに、マンションの鍵を渡してくれた時は正直、驚いた。けれど、それよりも好奇心の方が強くて、差し出された手をとったんだ。
 ただ、そうなるように、牧が自分に興味を示すように振舞ったのも事実ではある。あの時の牧の心の透き間につけ込んだといわれても仕方がないのだ。仕方のない事なのだけれど、それでも、あの頃の二人には必要であったと思いたい。

「ないね」
 そう言って、静かに神を見つめた。
 少し唇が動いたけれど、何も言ってこない。自分の返事に不満なのは顔色を見れば判る。しかし、これ以上もうお喋りをするする気にはなれない。
「じゃ俺、用事があるから部屋に戻るよ」
 軽く手を振り、立ち上がって歩き始める。その後ろから、
「仙道っ、最初の質問には答えてもらってないっ」
「ああ」
 振り返って、
「神の思ってる通りだと思うよ」
 何がこんなにも神を必死にさせてしまうのか判る気がする。しかし、自分とは関係ない。もう終わりにしたい。
「じゃね」

 薄雲が広がる空を見上げる。
 神の言いたいことは判る。海南の人間にとって牧は、きっと特別な存在だったのだろう。自分達だけの特別な。それなのに、自分たちの知らないところで、見たこともない顔を持っていたとしたら。
 嫉妬。神の気持ちの中に、少なからずある感情だとおもう。

 ――― 独り占めしてるってことかな……

 部屋に戻ったら、寮に電話をかけよう。明日の朝に戻りますからと。それから、掃除の続きをして、今夜二人で食べるカレーでも作っておこう。牧は汗をかいて帰ってくるだろうからバスタブに湯を張って、後はのんびりしながら帰りを待てばいい。
 今夜、きっと早い時間から牧は自分を求めてくるだろう。熱い楔をうち続けられながら、触れてくる唇の優しさに翻弄されるのだ。荒い息の元で、けれど心の中は至福感で包まれる。たった二人だけで共有する満ちたりた時間。他の誰にも見せない顔を互いに晒して、互いを求めて感じあう。

 そういう関係だよ、神…