言葉にできない -2-



 仙道は、牧の部屋へは週に一度か二度の割合で来ていたが、牧と顔を会わせる機会は殆どなかった。生活時間がずれているために仕方がないことなのだが、それでも…。
 少しずつ、確実に牧の生活の中へ入ってきている。

 最初は、その小さな変化には気づかなかった。 
 それが分かるようになったのは、例えば、シーツが代えられている、キッチンの中に放ったらかしにしていた物が片付けられている。
 そんな普通の何でもないようなところに、彼は自分を残していく。残されたものから仙道を身近に感じることはあっても、手の中にその体温が残る事はない。
 直接に触れられないもどかしさに、時には苛立ちさえ覚えてしまう。

 そんなもどかしさが、牧を動かしたのかもしれない。

 めったに会えない彼が自分のベッドを使っていた。居間には、やりかけの宿題なのだろう教科書やノートが広げられている。
 彼を起こさないようにベッドの端にそっと腰を降ろした。
 初めて見る彼の寝顔だ。規則正しい寝息を立てている。静かに上下している彼の胸にそおっと手を置いてみる。手のひらから伝わってくる彼の鼓動と体温。
 何かに突き動かされるように、仙道の少し開いた唇に、牧は自分のそれをそっと重ねた。
 彼を、仙道を感じる。

 ずっと欲しかった答えが、牧の中で一つの言葉として生まれた。



◆ ◆ ◆




 久しぶりに牧の部屋を訪れた仙道は、今日も会えないだろうと思っていた牧に迎えられ、嬉しさを隠せないでいた。しかも、買い物に付き合えと半ば強引に連れ出された事も、仙道にとっては楽しめるものだった。

「やけに楽しそうだな 」
「まあ、そうですね。まさか、牧さんと買い物出来るなんて、思ってなかったですからね」

 スポーツ選手らしい大きなガタイをした二人の男が並んで歩いている姿は、道行く人の噂の的になってしまうらしい。
 先程から通りすぎる人達が牧と仙道を見てはコソコソと何やら喋っている。
 回りの事に頓着しない牧は、人が噂話をしようが何をしようが、あまり気にならないらしい。牧らしい、と思う。そう言うところも仙道は気に入っている。

「今日は何にしますか? ナンなら、オレが作りますけど」
「仙道、お前、料理できるのか?」
「ええ、一人暮ししてますからね」 
「……」
「なんて顔してるんですか、牧さん。 鳩が豆鉄砲みたいな顔してますよ」
「あ…ああ…」
 牧には、この仙道という男がどうも良く判らないでいる。
 何でもソツなくこなす器用さがあるのに、何もしようとしない横着さもある。
 いつもニコニコと愛想よくしている様に見えるが、ごくたまに見せる笑顔とは別の表情に驚かされる時がある。
 まだ他にも自分の知らない顔をこの男は持っているのだろうか。
 知りたい。
 自分の中に生まれた言葉を確かな形のあるものにする為に、もっと知りたいと思う。

「ポークピカタって言うらしいです。 ホントのところは知らないんですけどね。オレに教えてくれた人が、そう言ってただけですから。味付けは塩コショウくらいで充分で…、卵の方は味付けなしが、いいかな…。とんかつソースをつけると美味しいですよ。あ、それから…… 」

 仙道は、作っている料理について何やら色々と教えてくれている。
 それにしても、よく喋る男だ。 それを煩く感じないのは何故だろう…。
 寡黙な男だとよく言われてはいるが、本当のところはそうじゃない。
 人付き合いの煩わしさが嫌なだけの事だ。ベタベタと近寄られるよりは、居ない方が楽だった。
 でも、仙道は違う。
 気がついたら側に居た。 そこに居るのが当たり前のように。 ごく自然に。
 仙道は、オレとの距離感を一番分かってくれている人間なんじゃないだろうか。


 食事を終え、ベランダ側の床に座り寛ぐ。
 仙道は、牧の少し前に立ち、外を眺めながらコーヒーを飲んでいる。
 静かに暮れて行く街を眺めながら、仙道は何を考えているのだろう。

「何ですか、牧さん」
「あ、いや……」
 それと気づかないうちに、仙道を見てしまっていたらしい。

「飲み終わりました? 片付けてきますから、それ……」
 そう言って目の前に差し出された仙道の手を見て―――何かが弾けた。
 その仙道の手をとり、グィッと自分のほうへ引く。
 突然のことで、仙道にはそれを防ぐ事ができず、牧の腕の中に倒れこんでしまった。
 仙道の身体を受け止め、組付す為に床に押しつける。 何処かを打ったらしく少し声をあげたようだが、気遣ってやる余裕はなかった。
 仙道の顔の両側に手をつき、見下ろす。 
「牧さん…、なにを…」
 予期せぬ牧の行動に驚いた仙道は声を上げかけたが、牧の瞳の奥にあるものを察っし、抵抗することはなかった。
「仙道…」
 そうして、武骨そうに見えるが柔らかい手で仙道の頬に触れる。
「おまえ、こんな時でも、変わらんな」
「そう…ですか」
「オレは、おまえが知りたい。 もっと知りたい」
 少し笑った仙道は、頬に触れている牧の手をとり、手のひらに触れるだけのキスをする。
 牧の身体が少し震えたように思えたのは気のせいだろうか。
「おまえは、いつも涼しい目をしてるな」
「牧さんは、熱いですよね」
「そうか」
 静かに瞼を閉じることで返事をする仙道が、ひどく扇情的に見える。
 牧は仙道の手を取り、手のひらにひとつキスを落とし、自分の首に回させていく。
「牧さん…、ひとつだけ、覚えておいてください」
「ん?」
「オレは…、相当に嫉妬深い人間ですから」
「そうか…」
「どろどろですよ、オレは。 刺し違えて心中なんて、平気でやりますからね」
「あぁ…」
「牧さんの一番大事なものを……壊す事も平気ですから」
「どうすればいい?」
 仙道は柔らかい笑みを浮かべ、
「オレを離さない。 それだけです」
 返事の代わりに、仙道の唇に自分のそれを重ねる。
 重ねてはそっと離れ、触れてはそっと離れ、仙道にとっては気が遠くなる程の焦れるくちづけを繰り返す。
 触れるだけのその合間に、少しづつ仙道の息が上がってきているのがわかる。

「まきさ…ん 」

 ひとつ大きく息を吐いた仙道の身体が震えた。



    …………………………



「仙道…。 大丈夫か…」
 随分落ちついてきてはいるが、それでも、まだ仙道は荒い息をついている。
 牧は、仙道の頭を大事そうに自分の膝の上にのせた。
 小さな声で謝る仙道に、心が痛む。
「ええ…、大丈夫です…。 さすがに、ドリブルはできないですけどね……」
 心配してくれている牧を安心させるように、笑いながら答える。
 仙道の身体の事も何も考えずに、ただただ彼の事を知りたいという欲求だけで、無理やりに近い形で抱いてしまったことを、後悔するしかなかった。
 水で絞ったタオルで顔を拭ってやるが、まだ少し顔が青い。
「大丈夫ですって牧さん。 ひさしぶりで…、ちょっと堪えただけですから…」
「久しぶりって…」
 驚いている牧に、まだ自分のことを殆ど話してなかった事を思い出した。
「あ〜と、つまり…ですね、オレは、そんなに真面目に生きてきた訳じゃないってことです」
「そうか」
「嫌になりました?」
「どうして?」
 答える事は…できなかった。頬に触れてくる牧の手が優しすぎたから。
「牧…さん」
「ん?」
 覗きこむようにして自分を見ている牧の顔に手を伸ばす。
 指先で牧の顔を小さく突つく。 何かの感触を確かめるように。
 ずっと、もうずっと欲しくて欲しくて、探し求めていたもの。
 熱くさせてくれる激しさと、縋り付きたくなるほどの暖かさと。
 牧に惹かれた理由が、やっと分かった気がした。 自分の欲しかったものが、今、目の前にある。 他の追随を許さぬような圧倒的な強さと、その裏側にある無防備な弱さと、その奥にある暖かさと。
 見つけた。やっと見つけた。
「牧さん…」
「ん?」
「オレが言った事、覚えてます?」
「あぁ、覚えてるよ。 離さないさ」
 その言葉に安心したように仙道は微笑んだ。
 離さないでほしい。
 ずっと欲しくて探していたものをやっと見つける事ができた嬉しさと、失いたくない不安とが入り乱れて、伝えたい事が声に出てくれない。
 言葉にできない。言葉に出来ないけれど、どうか伝わって欲しい。
 牧が、自分の指をとり、柔らかくキスをしてくれている。
 彼の目の前には、今は自分だけがいる。自分だけを見ている。
 仙道は瞳を閉じて、ひとつ大きく深呼吸をした。
「あの…、少し寝て良いですか…。 何だか、眠くなってきて…」
「ああ、ここにいるから。 それより、ここじゃ背中がいたいだろ、ベッドに行くか?」
「いいです、ここで。 動くのが…かったるくて…。すいません…」
 ほどなくして仙道は、寝息をたて始めた。
 握っていた手をそっと胸に置いて、額についている汗を少し拭ってやる。
 仙道の寝顔を見るのは二度目だ。 ひどく幼く見える寝顔に、知らずに笑みが零れる。
 この沸きあがってくる気持ちはなんだろう。 藤真を想っていた時には感じた事がなかった。
 これが、愛おしさなのだろうか…。

 仙道の手を離したくないと、今はっきりと想う。 オレは、仙道を離さない。