At the end of summer



 IHが終わり、綾南バスケ部では、主将、副主将の交代を終え、新体制の元での練習が始まっていた。


 盆を過ぎても一向に暑さの緩む気配がない体育館で、汗だくになりながらボールを追いかける。 しかし、今日は、もうそろそろ限界がきているようだ。
「ちょっと俺、休憩するわ」
 側に居る部員へ声をかけ、水呑場へ向かう。
 顔を洗い、ついでに頭から水を被った仙道は、勢いよく顔を上げた。
「はふぅ〜〜〜、気持ち良い〜」
 ほぉと一息つくと、この頃いつもそうしてしまうように、遠くを見てしまう。
 照りつける日差しはまだ夏の暑さのままだけれど、通りすぎる風の中には、微かだが秋の匂いが混ざりはじめている。
 変わっていくもの達の中で、いつまでも変わらずにいるのは自分の心だけだ。
 まだ、たった先月の事なのに、もう随分時間が経ってしまっているような錯覚に陥る。
 目が覚めて、また眠りにつくまで、夢の中にまで現れて来る彼は、どんなに忘れたくても、離れていってはくれなかった。
 それならばと、忘れられない面影に抵抗するのを止め、自分の気持ちに正直になってしまおうと、そのうち時が経てば自然に消えていくだろうからと、そう思えるようになるのに、そんなに時間はかからなかった。

 いつか、忘れてしまえる日がくるだろうか。
 痛みも何もなく、浮かぶ面影に笑いかけられる日がくるだろうか。

 浮かんだ面影を追い払うように頭を何度か振り、部室へ向かった。

 他の三年生達と練習の後に軽い食事をとり、何時もなら仲間内の誰かのところに集まり、ビデオを見たりして騒ぐのだが、今日はそういう気分にはなれなかった。
「今日は帰るよ」
「めっずらしー。なになに、彼女でも来る訳?」
「残念でした。宿題たまってるからだよ。夏休みのさ。とっととやらないと間に合わないから」
「はいはい、ではでは、頑張れよ〜」
 宿題をするからと言う理由を殆ど信じてもらえずに、ひらひらと手を振りながら送り出されてしまった。
 すでに時計の針は6時を回っていると言うのに、外はまだ昼間の熱さが残っている。
 身体に纏わりつくような湿気も、まだ健在だ。
 帰ったところでやりたい事がある訳ではなかったけれど、少しでも早く涼しい部屋へ入り、ゆっくりしたかった。

 アパートへ帰りつき、シャワーを浴びた仙道は、テーブルの上に出してある夏休みの宿題の束を広げてみた。
 当たり前と言ってしまえばそれまでなのだが、夏休みに入っても殆ど手をつけなかったそれらは、この時期としてはかなりな量として目の前にある。結構な量だ。残り少ない期間で仕上がるかどうか、微妙といったところだろうか。
(仕方ない…よな。なんにもしなかったんだから…)
 今は何も考えずに、目の前にあるのものに没頭しようと思う。

 テーブルの前へ座った時にインターホンが鳴った。
(こんな時間に、誰だろ…)
「どうぞ〜、開いてますよ〜〜〜」
 立ち上がらずに、玄関に向かって声だけをかける。 しかし、それはなかなか鳴り止んではくれなかった。
 焦れた仙道は仕方なく玄関に向かうことにした。
「開いてるってのにーーー。はいはい、今開けますから…」
 多少苛つきながら勢いよく開けられたドアは、前に居た人を驚かせてしまったらしい。
「っとと、危ないだろ、そんなに思いきり開けたら…」
(え……)
 顔を上げ、目の前の人を見止めた時、思考が停止した。
「久しぶりだな、仙道…」
「牧…さん」

 真っ白になるって、きっと、こう言う時の事を言うんだと思う。
 他人事のような言葉が頭の中を駆け巡っている。
 久しぶりに会う牧は、あの頃と変わりなく目の前に居る。 柔らかく深みのある声。 その声に呼ばれれば、未だに平気ではいられない自分がいる。

「どうしたんですか?」
 沸き上がる動揺を意志の力で押さえこみ、そうして発せられた声は、しかし必死の努力にも関わらず掠れたものになってしまった。
「会いに来た」
「誰に?」
「仙道に」
「…………」
 変な質問をしたのだと言う自覚はあった。 この状況で、牧が自分以外に誰に会いにくるというのだろう。彼は自分に会いに来ている。

「あ〜と、仙道。 中に入っても良いかな? ここじゃ目立つから…」
「あぁ、すいません。どうぞ」
 牧は中へ入り後ろ手にドアを閉め、けれど、それ以上は入ってはこなかった。
「牧さん?」
「ここで良い。玄関先で良いから」
 そう言う牧に、改めて向き直る。

 あの日の事は、自分から終わりを告げた時の事は、今でも昨日の事のように覚えている。
 牧と自分との間に他人が入ってくる事に耐えられず、関係を終わらせる言葉を聞く勇気もなく。 だから…、精一杯の強がりであったとしても、自分自身の為に、自分の足で立っている為に、自分で終わらせた。 それなのに、忘れる事もできずに、ずっと会いたかった人。

「今日は、何ですか?」
「ここへは、成田から来た」
「じゃあ、藤真さんは…」
「藤真は、花形のところに行ったよ」
「……」
「俺は、確かに藤真の事は好きだった。 それについては言い訳はしない。 本当の事だ。だが、俺は藤真の手はとれない。 とれないんだよ、俺は。 あいつが選んだのは俺じゃないから。 藤真が花形を選んだ時に、俺の方は終わった。
 その時に側にいてくれたのが仙道、お前だ。 どうしてだろうな…。 離したくなくて…、こんなのは初めてで、自分の気持ちがよく分からなくて、答えが欲しかった。 自分の事が自分でも信じられなくて、な。 それなのに、俺の我が侭で手が離せないのに、中途半端なままで辛い想いをさせてしまって…。悪かった…」

 一つ一つの言葉を慎重に選びながら話す牧を見ている自分は、今、何を考えている?

「中途半端なままで、悪かった。だけど、もう終わらせてきたから。ちゃんとケリはつけてきた。本当だ。だから…」
「だか…ら?」
「だから…、俺と、もう一度やり直してはもらえないか? 俺は、仙道、お前に側に居て欲しい。嘘じゃない。 正直な気持ちだ」
「牧さん…」
「ダメ…か? って、こんな事、すぐに返事なんてできないな…。今すぐでなくて、いいから…」

 何時もの憎らしい程の自信に満ちた表情はそこになく、圧倒的な強さでその存在感を示す牧の、普段の彼が見せる姿の裏側にある弱さや優しさ、不器用な程に素直で真っ直ぐな想いがあるだけだ。
 この人は、どうして何時もこんなに真っ直ぐにぶつかって来るんだろう。
 こんな風に真っ直ぐに向かってこられたら、逃げられない…。逃げ切れない。
 いつからだろう、人の顔色をうかがい、かわし、衝突しないように逃げて、駆け引きばかりを覚え、真っ直ぐにぶつかる事をしなくなったのは。
 牧に惹かれたのは……、今でもこんなに惹かれるのは……。

 牧が、手に何かを持っている事に気がついた。
「何ですか、それ? 牧さん」
「ああ、これか。 ここに来る途中のコンビニに寄って買ってきたものだ」
 ほら、と差し出された物を受け取り、中を覗いて――笑ってしまった。
「牧さん…、こんなんで俺の事、懐柔できると思ったんですか?」
「好きだろ?」
「確かに好きですけど…、何で知ってるんです? これが好きだって事……」
「俺は買わないから、仙道しかいないだろう、冷蔵庫に入れていたのは…」
「そうですけど…。でも、あれは、四月の始めで…」
「そんな前だったか」
 その袋に入っていたのは、ハーゲンダッツのミニカップ・アイスだった。 抹茶、チョコ・クッキーが2個ずつ。
 牧のマンションに行き始めた頃、好きだった事もあって、退屈凌ぎの為に途中にあるコンビニで買っては持って行っていた。余ったものは冷蔵庫へ入れて。
 牧が知っていても不思議ではないのに、覚えていてくれた事が、こんな小さな事が嬉しいと思っている自分がいる。 こんなに小さな事なのに、嬉しくて、可笑しくて笑いが止まらない。

「どう…して…」
「仙道…?」 
 おずおずと差し出されれた手が頬に触れてくる。
 触れられたそこから伝わる温もりに、まだ、こんなにもこの人が好きなんだと、震えるほどの想いが込み上げてくる。
「牧さんには…、参ってしまう。 いつもストレートに俺の欲しいものをくれて、欲しい言葉を…くれる。 ほんとに、俺の弱いところばかりをついてくる。 真っ直ぐに。 なんで……」
「仙道…」
「そんなにストレートに来られたら、俺は逃げられない。 こんなに…好きな…」
 伝えたい言葉は、抱きしめられ、重ねられてきた牧の唇の中に吸い込まれてしまった。 




 離れていた時間を埋めるように、お互いに貪る程に相手を求めた。
 高みを目指しては上り詰め、尚も静まらない熱にまた突き動かされ、解放を迎える。

 何度か愛し合った後、仙道が意識を飛ばしたことで終わらせた牧は、仙道をベッドへ運び、そっと寝かせてやった。

 まだ汗の引ききらない額を拭いてやっているときに、腰に廻されていた仙道の腕に少しだけ力が込められてくる。
「まきさん、どこへもいかないで…。 おれの…そばにいて…くだ…さい…」
「ここに居るから。 それより、なぁ、仙道。 ベッドじゃ狭いから、下に布団敷いた方が…」
「もう…おれ…うごけない…、この…ままで……」
 そう言って、そのまますーっと眠ってしまった仙道の寝顔を見ていると、知らずに笑みが零れてくる。
「何処へも行かないで、って、それは俺のセリフだろ…。 お前の方こそ、何処へも行くな。俺の側に居ろ。 分かったな、仙道……」
 すでに寝ついてしまっている仙道に聞こえる事はなかったけれど、それでも伝えたくて。
「好きなんだよ、仙道…」


 しばらくその幼い寝顔を眺めていた牧だが、諦めて寝る事にした。
 仙道の部屋にあるのはシングルベッドで、いつもなら、こんな狭いところはダメだ、と言っているはずなのだが、今日だけは仕方がなかった。
 鼻の先に小さなキスをして、
「おやすみ」
「ん……」
 そっとかけた言葉に仙道が少しだけ頷いたように見えたのは、気のせいだったろうか…。