小さな子供達が帰っていく。
あしたも見に来るね。手を振りながら、そう言って。
みんなが帰った後、ホールの中を見回るのが私の仕事。
珈琲の香りが満ちてくる。
受付をしてくれている人が入れてくれる珈琲を飲んで、今日の一日が終わる。
「館長さんに一度お伺いしたかった事があるんです」
「なんだろう…」
「いつも考えているんです。どうしてこんな所の館長をなさっているんですか?
本当なら、もっと出世して、表舞台にいらっしゃる方でしょう?」
「そんな事は、ないよ」
ほんの少しだけ自嘲気味の笑みが浮かぶ。
すぐに、いつもの穏やかな笑みを返しながら僅かに言いよどむその裏側には、誰にも話した事のない秘密があるのかもしれない。
「なぜですか?」
「うん…」
ゆらゆらと立ち上る珈琲の湯気の向こうには、大切な箱をあけようかどうしようか、悩んでいる顔が見える。
「うん…、ここは、この天象儀は…、わたしの友人が、とても好きだったところでね。
彼が好きだったものを見ていたくて。だから、ここにいるんだよ」
今まで何度もしてきた質問は、答えてもらえる事がなく、いつも宙ぶらりのままだった。
今日はきっと、静かな夜だから。
珈琲の入ったカップを大事そうに両手で持ち、ひとつひとつの言葉を選びながら大切な思い出を話す彼。
「ご友人て?」
「もうずっと、ずっと遠い昔の、わたしの若かった頃の友人なんだよ…。何も遊びを知らなかったわたしに、いろんな事を教えてくれてね。彼がわたしを初めて連れて行ったのが、プラネタリウムだったんだよ…」
「学生さんの時なら、何か言われたりしませんでした?」
「言われたな。子供くらいしか来ないところに、大男がふたりも来たものだから…」
懐かしそうに笑う彼。
「どうしてこんな所に連れてくるんだって、ずいぶん嫌がったもんだよ、わたしは。彼は星が好きなんだと言っていた。だから一緒に見ようって誘ってくれたんだそうだ」
彼は今、とても嬉しそうに話している。
彼の話す彼がどんな人なのか、知る由もないけれど、でも、きっと、人懐っこい笑顔の人なんだろと思う。
「それが可笑しいんだよ。椅子がたおれて、いざ始まってみたら彼は寝ているんだ。星が好きなんじゃなくて、星を見ながら眠りにつくのが好きだったんだね」
そうして、ほんとうに楽しそうに笑った。
「それからどうなったんです?」
「うん……、お互いに遊びの時間が終わって、別れてしまったよ」
「何故ですか? 大事な友人の方だったんじゃありません?」
「彼は、とても勘の良い人で、わたしが困っていると思ったんじゃないかな…」
「それきり、お会いにはならなかったのですか? あの、聞いてばかりで、すみません」
「いいんだよ別に。本当のことだから。別れた後、彼と会えたのは、10年くらいしてからだった。もう、最後の時が来ていたよ、あの時は…」
「亡くなってしまわれたのです?」
「病気だった…。間に合ったのかどうかは、今でもよく分からないけれど…」
珈琲は、すっかり冷めていた。
お代わりすることを忘れるほどに彼は想っている。
「何か…言ってあげました?」
「言ったよ」
もう話しをしてくれないのかと思われるほどの、長い長い沈黙の後。
「いつも追いかけてくれていたから、今度はわたしが追いかけてやるって。だから、安心して先に行っていいからって、ね」
「返事は、お聞きになられたんですか?」
「どうなんだろう。彼は、もう、ほとんど意識がなかったからなぁ。聞こえてくれていてほしいけれど。分からないな、こればかりは…」
分からないと言っているけれど、きっとそれは違う。
この天象儀の管理をしているのは、確かに伝わったと信じているから。
冷めたまま少しだけ残っている珈琲を飲み干す。
すでに帰る時間は過ぎている。
「ああ、すまない。もうこんな時間になってる。今日は、これでお開きにしよう」
「あ、ありがとうございました」
すでに日が落ちて、暗くなった外に出て、鍵をしめる。
見上げた空には、星が瞬いている。
「やぁ、今日は星がきれいだ」
「ほんとにそうですね。これなら、明日は晴れますね」
「そうだね。こんな夜は冷えるから、気をつけて帰りなさい」
「はい。では、館長さん、おやすみなさい」
「おやすみ、気をつけて」
ひだりとみぎに別れて、帰っていく。
立ち止まり、彼を振りかえってみた。
いつも大きく感じていた背中は、今日は小さく見える。
今日は俺に付き合ってくださいね
俺ね 星を見るのが好きなんです 覚えておいて下さいね
あれから ずいぶん長い間生きてきたけれど
覚えているよ、今でも、こんなに
おまえは しあわせだったか?