Jealousy



 牧がいる。


 少し遠出をした書店で、思いがけない人を見かけた。まさか、こんなところで会えるなんて、思ってもみなかった。
 ここは、商店街の中にあるような小さな店ではなく、一階に一般書籍、二階は専門書、三階は文具関係、四階にはCDやビデオ関係のものを揃えている大型書店だ。海南と関係のある人とは顔をあわせずにすむところをと思い、数駅先にあるここまで来た。
 階段を使って三階まで駆けのぼり、いつものようにフロアを見渡した。
 陳列棚の向こう側に牧の顔を見とめた時は、ひとりで来て正解だったかも、なんて、信長にはとても言えない事をふと考えてしまった。

 あの辺りだと、ボールペンか何かの試し書きでもしているのだろうか。すぐに声をかける事はせずに、しばらく様子を眺めることにした。

 牧の自宅や大学の場所から考えると、ここの書店は方向が違うんじゃないか。こんな生活範囲内ではないところまで出かけて来る人だったろうか? いや、違う…と思う。
 バスケに関する事ならフットワークは軽かったけれど、バスケ以外の事では積極的に外へ向かって出ていくようなタイプではなかったと思う。側から見えている彼が、彼の全てではなかっただろうけれど、それでも、他のものに特別に興味を示しているようには見えなかった。実際、バスケ以外での噂は聞いた事がない。校内でも、牧を探すなら体育館か教室か図書室だけを当たればいいと言われていたくらいだから。
 それとも、自分達が気がつかなかっただけだろうか…。


 それにしても、と思う。相変わらず、声のかけ難さだけは変わっていない。
 二年間も側に居て慣れているはずなのに、未だに近寄る事を躊躇わせる雰囲気が牧にはある。
 海南大付属にあって自他ともに認める大黒柱だった牧。いつのまにか目標とされるような選手になっていき、回りからは一線を引かれてしまうような存在にならざるをえなかったのだろう。簡単には近寄らせない壁は、自分で作っていったと言うよりは、回りから作られたものだったのかもしれない。その事を牧が望んでいたかどうかは分からないけれど。

 独りぼっちだったのかも

 後何ヶ月かすれば、また先輩後輩になる牧と、海南にいた頃のような関係が続くんだろうか。それとも、少しは違うものになっていくんだろうか。

 神はやっとフロアに足を踏み入れ、牧に声をかけることにした。 
「牧さん…」
 名前を呼ばれ振り向いた牧は、神を見止め少し驚いていたようだが、
「どうした、こんな時間に…。ひょっとして、さぼりか?」
 いつもの憎らしい程に落ちついた不適な笑みではなく、牧のそれは柔らかい印象を与えるものだった。

 あれ?

「違いますよ。それより、先日はありがとうございました」
 牧は、試し書きをしていたボールペンを棚へ戻しながら、
「別に良いさ。時間が空いたから覗いただけだから」
「でも、信長なんかは喜んでましたよ。牧さんが来てくれたって」
「清田か。あいつは? いつも一緒にいるのに、今日はひとりか?」
「今日は自主早退です。受験の方は心配はないんですが、一応、何か探そうかと思って」
「推薦なんだから、この時期はゆっくりしていればいいんだよ」 
「そう、ですね」

 なんだろう、この感じ…。牧さんは、変わった?

 平日の、人があまりいない時間に学内ではないところにいる事に、軽い後ろめたさのようなものを感じながらも、牧の後についてフロアの中をのんびりと回る。
 牧は、神の話すバスケ部の事や部員達の事、清田の近況に適当に相槌をうち、時々立ち止まっては手近にある物を手にするだけ。特別に何かを探しているようには見えない。そんな何でもないような事が、何故か可笑しくて仕方がなかった。
「牧さんて、以外ですね」
「ん?」
「文具を見て楽しむ趣味なんて、持っていたんですか?」
「そういう訳でもないさ。足りない物がなかったかどうか、確かめてるだけだ」
「なんだか、可笑しいです。バッシュ見てるんだったら分かりますけど…」
「おまえ…。俺だってバスケ以外の事はしてるさ」
「そうですね」
「ったく…」
 クスクスと楽しそうに笑っている神に、牧はやれやれといった顔をするだけで、また目の前にある物を物色している。
 牧がまだ海南にいた頃は、こんな風に普通の生活の中で二人きりでいた事はなかった。バスケ部の先輩と後輩と言う関係でしかなかったからだ。牧が変わったのではなく、単に自分が知らなかっただけなんだと、そう思った。近寄り難い雰囲気を醸し出していながら、その中へ入ってしまえば、そこはきっと柔らかく居心地のいいところなのかもしれない。



 同じ方面に帰るのなら途中まで一緒にと、同じ電車に乗って帰ることにした。
 その頃になると、話題も尽きてしまい、話しをすることはなかった。何か言わなければと思っても、車両の端に立ち、窓の外に顔を向けている牧には、もう話しかけることはできなかった。電車の揺れを身体できいているしかなかった。
 牧の横顔を見ていると、どうしても沸きあがってくるものがある。
 ほんの僅かではあるけれど、牧の印象が付属にいた頃と変わってきている事に、少し違和感を感じてしまう。環境が変わったせいもあるだろう。知らなかった一面にも触れたから。そう結論付けることにしたけれど…。
 それと、もうひとつ。自宅から通うはずだった牧が家を出た訳。一度尋ねた事があるが、返ってきた答えに納得はできていない。
『一度、家を出てみたかったからだ』
 本当にそうなんだろうか…。それだけの事で動く人だったろうか…。


 牧が降りる駅に電車が滑り込んでいく。
『また、学校の方へ尋ねて欲しい』と言い、『分かった』と返事だけをもらう。そのまま振り返ることなく改札へ向かう背中を目で追う。
 同じチームにいた頃には気にもかけなかった事が、どうしてこんなにも引っかかってしまうのだろう。

 視線を牧の背中から外し、先に動き出した反対側の電車をぼんやりと眺める。
 その時、視界の端に見知った影を見つけた。

 え?

 ホームに残っている人の中に、一際背の高い特徴のある目立つ髪型をした人がいる。

 あれは――陵南の仙道…
 どうして、こんなところに? なんで…

 その時、ひとつの答えに行き当たった。
 牧は仙道とつきあってる。
 そう考えれば、気にかかっていた事に、牧が家をでた理由に答えがでるじゃないか。
『大学生になったから、社会勉強のために』
 たしかにそれもあったのかもしれない。でも、一番の理由は、仙道がいたからだ。きっと。
 飛躍しすぎているかもしれない。
 けれど…。唐突に浮かんだ答えを打ち消す言葉は見当たらなかった。

 牧は、仙道を隠している。
 この神奈川では、牧も仙道も名前も顔も知られている。それぞれに有名である。そんなふたりが並んで一緒にいれば、みんなの好奇の目に晒されるのは確実だろう。ふたりがいても不思議ではないけれど、でも、まわりはそっとはしてくれないだろう。
 だから牧は、仙道を隠した。海南や陵南のテリトリーの外に。誰の目にもとまらないところで、仙道とふたりだけで過ごす為に。


 大事なんだろうな、きっと…

 海南で一緒に過ごしたニ年間の中にいた牧は、誰にでも分け隔てなく接していたように見えても、決してそうではなかった。もちろん、自分や清田などは随分かわいがってもらった方だとは思っている。
 何かの用事で牧の教室を訪ねた時、教室の中にいた牧は、まわりの人達と楽しそうに談笑をしていたが、なんとなく、みんなと距離を持っているようにみえた。穏やかだけれど、人を安易に近づけさせない雰囲気があった。いつも一線を引いていた。
 それなのに、今日会った牧は、一線を引いている感覚は残っているものの、随分柔らかくなったような感じだった。それが、仙道との関係でそうなったと思っても間違いはないだろう。
 誰も近づけさせなかった牧が、仙道を側におき、ふたりだけの時間を持ち、変わっていく。海南で近くにいた自分達にはさせてもらえなかった、できなかったことを陵南の仙道と。

 少し、悔しいかも
 少しだけ?
 いや、少しじゃない、もの凄く悔しい…
 仙道は、海南の人間じゃない
 それなのに…
 嫉妬してる、それも、半端じゃない…

 気がついたときには、電車はすでに出発していた。そんな事にも気がつかない程に、さっき見た仙道の事で頭の中はいっぱいになっている。
 やけに喉が渇く。いつのまにか握りしめられている手には、汗が滲んでいる。
 窓ガラスにぼんやりと写っている顔は、確かに自分のものだというのに、一番嫌いな顔をしている。 
 忘れていた感情は、なくなっていた訳ではなく、今も自分の中に存在していた。いつもいつも、追いつけないと思い知らされて、手に入らないものなんだと思い知らされる。分かっているのに、どうしてこの気持ちは無くなってはくれないのだろう。
 自分の中に沸きあがってしまった感情を落ちつかせる為、ひとつ深呼吸をして、軽く頭を振った。何とかして吹っ切ってしまいたかった。自分の気持ちに折り合いをつけたかった。

 もう一つ、深呼吸をする。もう一度。
ようやくおちついた神は、愛しいと思える人に想いを馳せた。