早春



 三洲が大路と二人で生徒会室で、卒業式関連の仕事をしていた時だった。
 前生徒会長の広田透が、三月の卒業式後に行われる謝恩会への抗議のために、突然入ってきた。
 三洲は彼特有の余裕の笑みでもって対応をすませる。
 大路には、嵐の前触れのような一陣の風のような広田を相手に、三洲が楽しげに遊んでいるように見えた。
 三洲の人当たりの良さだけでない笑みを、良く見るようになった。一年の頃よりも。
 
「広田先輩は、相変わらず賑やかだな」
「そうだな、それがあの人らしいて言うか」
「三洲は…」
「なに?」
「いや、楽しそうだなと思って」
「広田先輩の白雪姫は興味があるしね」


 本当に?
 それだけか?


 そう言いそうになるのを堪えて、大路はう〜んと伸びをした。

「なんだ、大路は疲れたのかい?」
「いや…まあ、そんなとこかな。ちょっと窓を開けるけど、いいか?」
「ああ」

 大路は肩を叩く仕草をしながらゆっくりと窓を開けた。
 薄闇の冷気が部屋の中に入ってくる。気がつかなかった空気の淀みを知らされる。

「外の空気はやっぱりいいな…」
「デスクワークよりも外の仕事が好きなんだな、大路は」
「まさか。三洲の補佐の方が楽しいよ」

 大路の言葉は三洲には留まらずに、通り過ぎていく。

「運動部も終わったみたいだな。ぞろぞろ帰ってる」
「もう、そんな時間なんだ。今日も早くには終われなかったな」

 大路は窓を閉めると、また席に戻り、仕事の続きにとりかかった。
 もうすぐやってくる。
 さっきの広田透のようにドアを開け、煩いほど元気な声で挨拶をしながら。しかも、どんなに冷たい目で見ようとお構いなしなのだ。
 もうすぐ、あの一年がやってくる。

 が、今日は、元気な声がいつまでたってもやってこなかった。
 大路は、しかし、あえて気にしないようにした。
 目の前で書類に目を通している三洲に、何の変化もなかったから。


 三洲は書類に目を通しながら、耳を澄ませ、遠くに聞こえてくるだろう足音を探していた。
 今日は一度も顔をみていない。
 学年が違うのだ。教室も寮内だって階が違う。偶然が頻繁に起こる訳ではないのだから、どちらかが努力をしない事には会うことはない。
 と言う事は、今日は真行寺は積極的に会う事をしなかったことになる。
 何故だろうか。あんなに、煩いくらいに付き纏ってきていたのに。
 そこまで考えて、何故か違和感を覚えた。
 今までだって、互いの用事で会わない日があったというのに、どうして今日は気になるのだろう。
 どうして、今日に限って気になるのだろう。

 諦めた?

 そんな言葉が頭をよぎった時、胸の中を羽音のようなものがざわざわし始める。
 三洲は見ていた書類から顔をあげ、窓を見つめた。
 来るな、とか、いない方が良い、とか。色んな事を冷たく言ったっけ。
 あの熱い情熱が、そんな事くらいで治まるとは到底思えないけれど。

「三洲?」
「ん?」

 大路を見ると、不思議そうな顔をしている。

「何?」
「三洲が、なにか気になる事があったのかと思って」
「いや、そうじゃない」

 いつもの柔和な笑みで。

「そろそろ一段落したから、今日は終わりにしようか、それか、次のに取り掛かろうか考えてたんだよ」
「なら、いいんだ。で、どうする?」
「これ以上は効率も悪くなりそうだから、今日はここまでで終わろう」
「だな」

 てきぱきと後片付けをすませると、三洲は大路と生徒会室を後にした。
 いつもなら、一緒に歩くのは真行寺とだ。
 真行寺は、今、何をしているのだろう。


 次の日も三洲は、真行寺と会わなかった。会えなかった。


 その次の日は、三洲は敢えて真行寺と出会いやすい場所や階段を使うようにした。
 会いたいからじゃない。心配しているからでもない。昨日も一昨日もどうしたのか聞くだけだ。
 そんな言い訳が胸の中で燻っていて、三洲を落ち着かなくさせる。たったの二日間なのに。
 しかし、放課後になっても真行寺とは会えなかった。

 いつものように生徒会室での用事をこなす。
 評議委員会と卒業式後の謝恩会について、詰めの作業にもとりかかった。
 年度末なのだから忙しい。
 だから、真行寺と会えたとしても声を掛ける暇さえないかもしれない。そう思うのに、気になってしまう。
 どうしたものだろうか。
 明日も会えないようだったら、一度は思い切って部屋に訪ねていった方がいいかもしれない。所在さえ確認できれば、きっと心のうちの違和感は消えるだろう。


 三洲は会わなくなって四日目で、初めて真行寺の部屋を訪ねた。
 去年、真行寺が入学してからと言うもの、自分から動いたことなんてなかったのに。
 ドアをノックすると、多分同室の者だろう。

「三洲先輩!」
「部屋で寛いでいるところをすまないね」
「ああああ、いやっ、大丈夫です!」
「剣道部の事で真行寺に聞きたい事があるんだが、いるだろうか?」
「あー、あの…」
「何?」
「あの、もし剣道部の事でしたら、今は駒沢の方がいいかと…」
「ん?」
「あ、あの、真行寺。あいつ、この間から風邪こじらせて熱だして寝込んでるんです。結構高くて…。今日も、中山先生のところで点滴してもらってるはずです」
「そうだったんだ。ありがとう」

 三洲は軽く礼を言って、踵を返した。急いで寮をでて、教員棟へ向かった。
 真行寺が風邪をこじらせている。
 その原因は、恐らく自分にある。
 もう六日程前になるだろうか。真行寺からの煩いほどの誘いに、夕方の短い時間だけとの断りをいれて、逢瀬の約束をした。しかも、待ち合わせは、雑木林の中。まだ夕方の、人の目のある時刻を指定したから仕方なかった。
 あの日の事は良く覚えている。
 放課後からの生徒会関係の仕事が押してしまい、そのあとの会議にまで影響がでた。約束をしたけれど、だから、結局は行けなかったのだ。
 その内に雨が降り始めていて、これなら真行寺も、そんなに待たずに帰ったと思っていた。今までも、約束はしても会えない時もあったから。
 そこまで考えて、ふと。

 そういえば、あいつはあの日、部活はどうしたんだろう…

 自分との約束を優先させたのだろう。そんな事をすれば、黙ってなどいない事は真行寺が一番よくしっているだろうに。どうして…。
 大事な剣道よりも、短い逢瀬を選んだ真行寺。
 三洲は、何故かきゅっと胸が締め付けられる感覚が湧きあがり、そんな自分に驚いてしまう。

 まさか…あるわけない…

 そう否定しても、今、急いで教員棟に向かい、保健室まで行こうとしているのは何故なのか。
 会えないでいた間に胸の内に広がった違和感に急きたてられて、今日、真行寺の部屋まで行ったのは何故なのか。
 胸の中を浸食していく羽音のようなざわざわした感覚は何なのか。
 突然、気がついてしまった。
 無意識のうちに抱いていた想いに、こんな事でもなければ気がつかないほど、自分はのめり込んでいたのだろうか。
 色々な事が頭の中を駆け巡り始める。


 保健室は、まだ明かりがついていた。
 ノックして、扉を静かに開けると、中山先生は席を外しているのか、今はいなかった。
 カーテンで仕切られているベッドの一つを覗きこむと、真行寺が点滴を受けていた。
 そっと、側によって椅子に座った。
 真行寺はまだ熱があるのか、頬が幾分紅い。
 額に手の平を乗せてみた。熱はあるが、そんなに高くない。

 峠は越えたんだな…よかった…

 手の平の冷たさに気がついたのか、真行寺が目を覚ました。

「アラタ…さん…?」
「ああ、俺だよ」
「なんで…」
「部屋に行ったんだ。そうしたら、ここだって教えて貰った」
「ごめんね…」

 すまなそうに力なく言うと、真行寺はまた目を閉じた。
 何か言ってやりたいが、上手く言葉がでてこない。
 それなのに、どうしてこんなに胸が痛むんだろう。
 ようやく自覚した想いが痛みになって、さらに全身を覆い尽くし切なくさせる。
 
「真行寺…」

 やっと声をかけると、薄眼を開けて。

「アラタさん…俺さ…」
「なんだ?」
「あの日、部活休んだんだ…」
「知ってるよ」
「怒んないで…俺…会いたくて…」
「判ってるさ」
「アラタさん…」

 額に乗せていた手で頬をそっと撫でてやると、真行寺は本当に嬉しそうに微笑んだ。

「へへ…寝込んでて良かった、かも…」
「馬鹿言うな。早く元気になれ」
「…うん…」
「お前が元気じゃないと…」
「うん…」

 自分まで元気がなくなってしまう。
 そんな言葉が口をついて出てしまいそうになって、慌ててしまう。
 優しい言葉なんて、かけてやらない。そんな柄じゃない。
 
 お前だけだ、身体を開くのは。
 真行寺、忘れるな。
 お前だけなんだ、心に住み着いたのは。

「早く、元気になれ…」
「うん…。忙しいのにごめんね。もう少し、いてくれる?」
「出血大サービスな」

 安心して目を閉じる真行寺が、酷く幼く見える。心もとなくて、側にいてやりたくなる。
 こんなのは俺じゃない。
 頭の隅で聞こえる声を、判ってはいても聞こえないふりをする。理性では止められない想いだから。

 三洲は、もう一度、真行寺の額に手を置いた。
 温かく切ない想いだから。

三洲が二年、真行寺が一年の二月ごろのお話です。
1月28日