270号室は、ノートの上を走るシャープペンシルの音や参考書を捲る音だけが聞こえるような、静かな中にあった。
葉山託生は明日提出用の課題が後少しのところで手を休め、ほうとため息をついた。
少し伸びをした後、向こうにいる三洲に意識を向けると、彼はまだ途中のようだった。
振り返り三洲に休憩の言葉をかけようとして。
「あ…」
三洲が振り向き、人差し指を唇にあてた。
しかし、そんな事をした当の本人がクスクスと笑っている。
「大丈夫だ、良く寝てるから。話声くらいじゃ起きないよ」
「真行寺くんが来てたの、忘れてたよ」
三洲と託生が受験勉強とともに宿題に向かっている時、真行寺が久しぶりに270号室に来たのだ。
遠慮しながら「絶対に邪魔しませんから」と言う言葉を信じた訳でもないけれど。真行寺が三洲のベッドに横になって静かにマンガを読み始めて、暫く立つ頃には気にならなくなっていた。
「葉山は、もう終わったのか?」
「ううん、後少し残ってるんだけど…」
「俺は終わってるが、ちょっと休憩でもいれる?」
「なんかね、コーヒーでも飲みたい気分」
「じゃ、お湯を貰ってくるから、葉山はカップとか用意を頼むよ」
「ありがとう、三洲くん」
ポットを抱いて部屋を出ていく三洲の後ろ姿を見て思う。
普段は人当たりの良い三洲であるが、真行寺が絡む時だけは彼は常に辛辣であった。機嫌の良い時がないかのように、ピリピリしていたり苛々していたり。他の誰にも柔和な笑みを絶やさない三洲を見せる為の反動なのだろうと、そう理解するようになっても、真行寺にばかり肩入れしてしまうほどに。そんな三洲が、人当たりの良い笑みは健在なのに、この頃は柔らかみが含まれてきていると感じるようになった。
秋休みの終わった後に、真行寺からこっそり聞かされた話でようやく三洲の変化の元が分かったのだ。
真行寺と一緒にいることで、三洲は三洲らしく変わっていっている。
三洲が部屋を出ていった後、寝ている真行寺を見た。
いつだったか、三洲が言っていた”寝穢い真行寺”の言葉を思い出して、思わず小さな笑いが出てしまう。
童話の絵本の王子様のようなルックスの持ち主だと一年生の時から騒がれている真行寺の寝顔は、本当に端正な顔立ちをしている。
託生は、二年連続で文化祭の舞台に立った真行寺が、祠堂の中や麓の女の子達からもかなり騒がれているとの噂を思いだした。明るく人懐っこい性格で、誰とでも直ぐに打ち解ける真行寺なら、それも仕方がないだろうと思った。
――― 三洲くん、心配だろうね…
思わず笑みが零れる。
こうして三洲のベッドで寝ている事にあまり違和感を感じさせないのは、ようやく両想いになった安心感が真行寺から醸しだされているからだろう。
先だって運動部では、三年生が引退し二年生を主体にしての体制になったと聞く。その中で、剣道部では真行寺が部長に選ばれたとか。ますます表舞台に出ていくようになるだろう真行寺は、これから、もっと騒がれていくと思われる。
――― 三洲くん、また胃痛がぶりかえさないかなぁ…
そんな事を想いながら託生は、自分達の事に置き換えて考えてみた。モテる恋人を持つのは、気苦労ばかりで大変である。
「葉山、そんなに見つめてどうした?」
「三洲くん!いつの間に戻ってたの?」
振り向くと、ポットを持ったまま閉められたドアのところに立つ三洲は、口元は笑っているが目は笑っていない。怒っている証拠だ。
暇つぶしに真行寺を見ていただけで、慌てる必要もないはずなのに、三洲を前にするとどうしても焦ってしまう。思わず、胸の前で両手を振って。
「や、見つめてって。見てただけだよ。や、やだなぁ、三洲くん…」
「真行寺がいい男だからって、鞍替えするなよ」
「み、三洲くん!」
怒っているのか不機嫌なのか、単に遊ばれているだけなのか。それでも、くすくす笑いながらではあるが、コーヒーを入れてセットしてくれる。三洲と言う人はやっぱり分からない。
まだ眠っている真行寺に三洲は目をやりながら、ゆっくりカップに口をつける。託生もやっと落ち着いて椅子に座った。
「ねえ、真行寺くん、そろそろ起こさないとヤバくない?」
「そうだな。しかし、真行寺はほんとに良く寝るな。感心するよ」
「寝る子は育つって、アレ、本当だね」
「まったく。こんなに無防備でどうする」
「ん?無防備でって、なにかあったの?」
「いや、なんにも。それより、葉山はどうして「無防備」にそんなに反応する?気になる事でも?」
「え?そう?ん〜別に…特に理由はない、から」
「誰かさんが無防備に寝ていて、寝込みを襲われたとか?」
「みみ、三洲くん!…なんで、分かったの…」
「崎は寝込みを襲われたんだ」
可笑しそうに笑う三洲に、ちょっとむっとしてしまう。
「悪い悪い。葉山のせいじゃないし、寝ていたら分からないしな。不可抗力だよ」
「ん…まあねぇ…そうなんだけど…分かってるんだけど」
「だけど、気をつけて欲しいって気持ちはあるんだろ?やたらな所では寝るなって」
「うん…やっぱりね…」
「好きな奴がモテるって、お互いに気が休まらないな」
「そうだね…」
不穏な空気になりそうだった先程とは違って、静かな部屋の中で話が弾んだ。そのせいか、託生は三洲が自然と口にした言葉に驚かずにはいられなかった。
あの半端ない屈折率の持ち主と言われた三洲である。変化は確実に起こっていると分かっていてもだ。
「三洲くん、変ったね…」
「そうか?」
「うん、ほんとに変わったよ」
「自分では分からないな」
それからぽつっと「俺は嘘つきだから」と三洲は言う。
そんなはずはないと思う。あんなに何事にも聡い三洲なのだから。自分自身の変化にだって気が付いていても不思議ではない。互いが互いを受け入れた真摯な想いに、やわらかく包まれるように三洲は真行寺とともにいるのだから。
「今夜は僕、ゼロ番でなくてごめんね」
「そんな事、葉山は気にする必要はない」
「無理してない、三洲くん?」
「葉山のお節介が、また始まったな」
「ひどいなあ、三洲くんは…」
「真行寺も最近は忙しすぎるから、ゆっくり寝させてやらないといけないから。だから、大丈夫」
「ふふ、三洲くんも優しいね」
「おれは、嘘つきの嫌な奴だよ」
そう言う三洲の笑みが本当に満ち足りていて、彼が真行寺の事をどんなに気遣っているかが分かった。
「おい、真行寺。起きろ」
頭を叩きながら起こすところは、以前と同じだけれど。
「んあ〜…、あぁ、すいません、俺、寝ちゃったすか…」
「またお前、育ったんじゃないか。それくらい寝てたな」
「静かにしてようと思ったら、なんか…」
「真行寺くんは、寝てる方が静かだよね」
「あー、葉山さん、それは言いっこナシですー」
ぷくーと膨れつつ、ようやく起き上った真行寺は、うーーーーんと伸びをした。
なんだか、一段と背が伸びたように感じたのは気のせいだろうか。
「じゃ、おやすみなさいっす」
「おやすみ」
「ちゃんと休めよ」
真行寺が出て行ったあと、三洲も託生も話らしい話をしない中、もう少しだけコーヒーを飲んだ。
ふと三洲をみると、肩が寂しげにみえた。一瞬だけ。
何か言わないと、と託生が口を開きかけた時、就寝前の放送が寮内に流れてくる。
三洲はさっさと立ち上がって、後片付けをすませると「おやすみ」と言って、さっさとベッドの住人になってしまった。
託生は言いそびれた言葉を飲み込むしかなく、今夜はもう寝るしかない。
人の恋路は人のモノ。そうは言っても気になってしまう。大丈夫なのだろうか。二人きりでゆっくり会えない分、内に溜め込んで、また、体調を崩したりしまわないだろうか。音楽祭の頃のように。
――― どうか三洲くんの胃痛が再発しませんように
そんな託生の気づかいが杞憂で終わったことを知るのは、もう少し後の事だった。
ある夜の270号室。『見つめていたい』のちょっと前のお話です。
5月07日