かたちあるもの




「何か欲しい物って、あります?」


 参考書を見ながらノートへペンを走らせようとした時、ごく自然な感じで聞いてきた真行寺に、いつもなら嫌味な言葉の一つでも吐いてしまう自分にしては珍しく、つい答えてしまった。

「特にないよ」

 ベッドに横になって、約束では静かに少年チャンプを読んでいるはずの真行寺を見やると、彼は顔も上げずにさらに続けてきた。

「もうすぐ誕生日でしょ。なにが良いだろうって思って」


 生徒会役員の引き継ぎは、評議会からの懸案事項が何件も持ち込まれた事もあって、当初の予定よりも押してしまい、十月半ばまでかかった。おかげで、体調も崩してしまった。
 やっと会長職から解放され、本格的に受験勉強に取りかかって暫くが経ち、ようやく軌道にのりかかった今週くらいから、「邪魔はしませんから、静かにしてますから、少しの時間で良いですから」と言う、それを信用してしまう自分もどうかと思うが、こうして真行寺は言葉どおりに部屋の、自分のベッドに横になって静かに雑誌を読むようになっていた。

 ページを捲りながらふと顔をあげた真行寺と、目があった。
 僅かな間の沈黙に彼は思い出したように、また雑誌を読み始める。

「す、すんません。つい、話しかけてしまって…」

 思わず小さく吹いてしまった。

「アラタさん…、怒んないの?」
「怒る気も失せたよ」
「?」
「ちょうどキリが良いから、休憩するよ。悪いが、缶コーヒー買ってきてくれるか?あったかいのを」
「了解っす!」

 答えるが早いか、真行寺はさっと起き上って部屋を出ていった。

「あいつらしい…」



 十分くらいならと決めた休憩をとるために、真行寺が横になっていたベッドに腰掛ける。
 ふうっと吐くため息にベッドの軋む音が混ざりあい、何故か心地良いと思った。真行寺が横になっていたところを摩ると、ふわりと温かく、それがふわふわと手に伝わってくる。

 人の温もりとは不思議なもので、落ち着ける居場所を与えてくれる。誰の温もりでもそうなのか、それとも、特別だと意識している人だから感じる事なのか。多分、後者なのだろう。

――― 真行寺は温かいな…

 彼が自分に示す色々な気遣いを、最初の頃は煩わしいと思っていた。乱される心が自由にならなくて、どうにも持て余してしまっていたのだ。一年の頃だって、憧れの先輩の心のうちに入りきれなくて、鬱積したものをもっていて、苦しくなる事には慣れていたはずなのに。

 真行寺に出会ってからは、幾重にも優しい風に吹かれているようだった。心地良く、頬を撫でさする様に柔らかく。時に身を委ねてしまいそうにもなる自身が、思い返せば怖かったのだと思う。違う何かに変わっていくようで。変わり始めた心を止める術などないことに、気づき始めてももがいていた。

「随分、見っとも無かったかも…」

 零れた言葉には、不思議なほどに安堵感が滲んでいた。真行寺を好きだと言う心に、抗うことをやめ、認め、受け入れたからだろう。
 そうして、彼の温もりが伝わってきたからなのだと思える。



 たったひとつの変わらないものを、真行寺がくれたから。



 そんな言葉がふと過った時、真行寺が缶コーヒーを持って帰って来た。

「ただいま、アラタさん」
「お前からは、もう貰ってるから」

――― 大切なものを…

「は?」
「何でもない。ありがとう」
「休憩って、ちょっとは話しても良いっすか?」

 横に座りながら真行寺は、屈託ない明るい声で聞いてくる。

「そうだな…。少し疲れたから、お前、黙ってろ」
「ぶぅーーー」
「不貞腐れるな」
「お話しましょうーよぉー」

 プルトップを引き、コーヒーを一口飲む。

「お前は煩いから。それに、今さら何を話すんだよ」
「たとえばですよー、今日は何をしたとか…」
「授業受けた」
「だーかーらー、アラタさんねぇ。そうじゃなくて…」
「お前ねぇ、静かにする約束だろ。黙ってろ」
「はーい」

 コーヒーを飲みながら。

――― 側にいるだけで良いんだから…

「何か、言ったすか?」
「いいや」

 心の声が聞こえた訳でもあるまいに、真行寺は案外に聡い部分を持っている。

「そうだ、何かくれるのか?」
「あ、はい。もうすぐ誕生日でしょ。俺、頑張ります!」
「ん―――、じゃあ、シャープペンシルの芯と消しゴムを貰おうか」
「そんなんで良いの?」
「これから必要だからな」
「もっと他にないっすか?ほら、えーっと…」
「欲しいものをくれるんだろ?」
「そうでした。じゃあ、俺、頑張りますからね!」
「はいはい。十分経ったろ?勉強、再開するよ」
「はい。もう少しいて良い?静かにしてます」

 返事はせずに、空になった缶を捨て、また机に向かうと、同時に真行寺が、ベッドに横になった空気を感じた。消灯まで、まだ時間はある。こうして、一緒に部屋にいて、同じ空間を共有する。それが、普通になっていく。当たり前になっていく。
 もう、迷わないで良いのだ。
 物理的な距離が、もし間に横たわっても、心を通わせられる二人だから。

 かけがえのないものを真行寺がくれたから。

 たった一つの大切なものを―――。


「傍らに二十題」から”02 かたちあるもの”です。
11月8日