記念日には花を買って





 この週末はできたら早く帰ってきてほしい



 壁に凭れ、真行寺から言われていた事を思い出した。
 言われるまでもなく、ここのところ忙しかった事もあり、三洲は週末くらいは定時上がりをするつもりでいた。エレベーターから降りながら、真行寺は何故わざわざそう言う事を言ったのだろうと不思議に思った。お互いの仕事には干渉しあわない約束である。それとも、体調を気遣ってのことだろうか。祠堂にいた頃に過労で倒れた事がある三洲には、忙しすぎて体調を気遣われると、あの頃を思い出して、どうにもくすぐったくなってしまう。
 もう随分前の事なのに、自分がどんなに真行寺を必要としているかを思い知らされたあの時。忘れる事はない。

――― なんだかなぁ…

 ひとつため息を落として、ドアを開ける。

「お帰り、アラタさん!」
「ただいま」

 キッチンから顔を出した真行寺がやけに嬉しそうにしている。

「俺がお願いしたから、早く帰ってきてくれたんだ」
「それは違うな。言われなくても早く帰る予定にしてたから」

 がくっと肩を落としても、しかし、そんな事でめげる真行寺ではない。

「それでも良いよ。予定通りだし」
「?」
「いいからいいから。もうすぐ支度できるから、先に風呂に入って」
「…わかった」

 返事を聞いた真行寺は、またキッチンに戻って行った。
 三洲は部屋で着替えると、言われたとおりに風呂に入ることにした。今夜は真行寺の言うとおりにした方が良いようだ。
 そして、洗面所のドアを開け、ほんの少しの違和感に気づく。洗面台の端っこに一輪挿しが一つ。二本の花が挿してある。男二人が住む部屋には似合わないそれを、真行寺はどこかで買ってきたのであろう。
 ふと思い立ってトイレに行ってみた。

――― ここにも置いたのか…

 洗面所にあるものと同じものが置いてあった。
 首を傾げつつ、何となく腑に落ちないものを感じながらも風呂に入った。
 今夜はカラスの行水よろしく早く出てくると、真行寺がせっせと食事の支度を整えているところだった。しかも、いつものキッチン横のテーブルではなく、居間のローテーブルに用意をしている。
 良く見ると、そのテーブルにも同じ一輪挿しがあった。

「アラタさん、お疲れ様。用意できたから、座って座って」
「ああ…」

 真行寺も座り、早速ビールを開けている。二つのグラスに注いで、一つを三洲に渡した。

「乾杯しよ」
「いいけど、何に?」
「アラタさん…」
「と言うか、真行寺、花とかどうしたんだ?お前、何か隠してるのか?」
「アラタさん、忘れてる?」
「何を?」

 真行寺はグラスをテーブルに置くと、少し姿勢を正した。
 つい三洲も、背筋を伸ばしてしまう。

「そんなに、気を使わないでよ」
「何だよ」
「アラタさん、忘れてるみたいだから言うけど、再会してやっと一年だよね、俺達…」
「あ…」

 真行寺と一緒に生活をするようになって、三洲には毎日が本当に充実している。忘れていた訳ではないけれど、辛く切なく痛みを伴う思い出は、まるでなかったかのように錯覚してしまっていたのだ。
 離れていたあの気の遠くなるような時間があったからこそ、今が満たされて幸せでいられることが、きっと当たり前になっていたのかもしれない。

「じゃあ、あの花は?」
「うん、記念にと思って買ったんだ」
「そか…」
「花束とかなんかにしようかとも思ったんだけど、それってらしくない気がして。でね、花屋さんに小さな一輪挿しがあって、それなら良いかなぁとおもってさ。小さく纏めてみました。たまには良いでしょ?」

 最後は胸を張って言う真行寺に三洲は色々な事が頭を過り、どうしようもなく堪らなくなってしまう。まともに顔を見る事ができず、真行寺の肩に頭を乗せた。こうして寄り掛かれるところにいてくれる事に、どんなに言葉を尽くしても、想い全てを伝えられないような気がした。
 真行寺の手が肩を抱き寄せてくれる。力強い手。

――― こいつには…

「アラタさん…」
「ん?」
「怒った?」
「どうして?」
「だって…、なんにも言ってくれないから」
「言えないくらいに…」
「言えないくらいに?」

 三洲の唇が真行寺と呼ぶと同時に、手が頬に添えられて唇が重なり合う。
 触れて重ねるだけのくちづけ等、今までだって何度もしている。なのに、今の三洲はそれだけで胸が熱くなってくる。
 そっと離れた真行寺の唇が伝えてきた言葉に、笑みが浮かぶ。

「今夜はアラタさんのベッドで寝て良い?」
「いつも寝てるじゃないか、お前」
「そうなんだけど…、今夜はアラタさんのベッドが良いなと」
「良いよ」
「やたー」
 息のかかるこんな間近でガッツポーズをする真行寺が、愛おしくて堪らない。三洲は言葉ではなく、真行寺の頬にキスを落とし、そうしてその逞しい身体を抱きしめた。

「アラタさん…」
「黙ってろ」
「うん…、そうしたいんだけど…」
「なんだよ…」
「このままアラタさんを抱きたいのは山々なんだけど、腹が空いて…」

 そう言えば、まだ夕食前だった。ビールにさえ口をつけていないのだ。
 名残惜しげに三洲は真行寺から離れた。

「相変わらず、お前は食い意地はってるな」
「アラタさんがね、食べなさすぎなの」
「少しくらい待てばいいのに」
「いいじゃんよぉ、食べようよぉ」
「はいはい、じゃ、仕切りなおしだな」

 もう一度グラスをもった二人は、改めて乾杯をした。
 コツンと合わせた時の小さな音を、きっと忘れる事はない。


『優しい嘘』の後日談です。再会から一年を記念して。
サイト開設一年も記念して(笑)
6月13日