ただひとつの願い事




 七月七日の七夕に、短冊に書く願い事があるとしたなら、いったい何を書こうか。




 先日、寮のホールに設置された大笹を見ながら、そんな事をふと思った。らしくないと思うものの、否定する気にもなれず、苦笑いだけを浮かべた。


 最近の寝不足も相まって、随分と疲れている自覚はある。疲れているから、普段は思いもしない事が頭に浮かぶのだ。

 音楽祭を目前にしているのだから、今が忙しさのピークで、それも仕方がない。ましてや、他の役員達もみな頑張っている。自分が小さな疲労で弱音を吐く等と、そんな事をプライドが許す訳もなく。かといって、自分の関わる全てが順調という事もないところに、どうしても満たされないものがあるのが、今の現状だった。

 以前なら特に気にもならなかった事が、ちくちくと、喉に刺さった小骨のような感覚で、気に留めてしまう。


――― あいつが近づいてこないから…


 音楽祭の準備を、まだ本格的には始めてなかった頃までは、いつもの日常を送れていた。

 呼び止められ、纏わりつかれ、適度にあしらい。余裕を持って。

 楽しみにしていたつもりはないけれど、それが普通だった。

 少しづつ、少しづつ。気がつけば、いつのまにか遠くになって行っていた。それでも、留まる術はなかった。


 溜息を、ひとつ零した。


 感傷的になった自分を、頭を振ることで追いだして、早めの朝食をとるために食堂へ向かった。食欲はなかったが、食べない訳にも行かなくて、どちらかと言うと仕方なくと言ったところか。


 食堂には、他にも早めの朝食をとる生徒が来ていた。多分、運動部の早朝練習に行く生徒達だと思う。

 と、一瞬足が止まったが、気を取り直してカウンターまでトレイを取りに行く。

 一人で食べている真行寺が、窓際の席にいるところを見つけてしまったのだ。まだ、自分には気がついていないようだ。

 トレイを受け取り、振り向いて見ても、真行寺は気がつかずに、時折、窓の外に目を向けながら食事をしている。



 離れていても判るものがある。


 口にご飯を運ぶ、箸を持つ指。

 節くれだって細くはないあの指の、武骨だが優しい、忙しないように見えてしなやかで、どんな熱を灯らせてくれるかを知っている。

 彼がくぐもった声を零す時、あの指がどんな力で自分の身体を掻き抱くかを知っている。

 頬を摩り、顎を持ちあげられる時の柔らかさを知っている。

 他の誰も知らないだろう真行寺を、知っている。

 知っていると言うだけで灯る熱がある身体の奥に、なのに、さわさわと泡立つ羽音のようなものも感じてしまう。素直な気持ちを押しとどめる、この感情の正体は何なのだろうか。



 真行寺が、やっと気がついたようだ。

 少し箸が止まり、そのままで軽く頭を下げてきた。自分は、まだ見ているだけだ。

 真行寺は、そのままではいけないと思ったのだろう。箸をおいて立ち上がり、「おはようございます」と声を掛けてきた。

 声を聞けたことで、ようやく近くの席に座る。背を向けて。


 朝の、まだ生徒が少ない食堂は静かで、小さな音が聞こえてくる。それは、箸が茶碗に当たる音だったり、湯呑みを置く音だったりする。

 そんな静かな食堂の中、真行寺が食事を終えた事が判る音が聞こえてきた。きっと彼は、この席の横を通ってカウンターまで食器を戻すはず。

 その予感は当たって。


「おはようございます、アラタさん」


 横を通る時に真行寺は、また声をかけてきた。


「ああ、おはよう」


 すぐには顔を上げなかった。いや、上げられなかったと言うのが正しいだろう。

 顔を上げて、目に飛び込んできたのは真行寺の背中だった。彼は、いつものように元気な声で、煩いくらいに纏わりつくのではなく、普通の声で挨拶だけを残して行ったのだ。

 その背中に、声をかけられなかった。


 距離を、置かれているのだと思った。

 確かに、真行寺とは話もできないくらいに忙しかった。以前のような関わりは、少なくなったかもしれない。


――― どうして…


 そこまで考えて、やめた。

 忙しかったなんて、ただの言い訳だ。音楽祭の準備の忙しさだけではない、真行寺と関わる事を躊躇させるものが、確かにあったのだ。

 それまでも時々あった国際電話。この頃では、もっと頻繁にやり取りをしていた。それが多くなっていくと同時に、真行寺との関わりが少なくなっていった。

 電話で話すだけなのに、後ろめたさを感じていた。


――― 本当に欲しいものって…



 真行寺は、こちらを振り向くことなく、トレイを戻すと、そのまま食堂を出ていった。

 後ろ姿が視界から消えると、食欲がなくなった。元より、そんなになかったけれど、少しでも口に入れようと思う気持ちさえもなくなった。

 身体の重さが増したのか、軽くなったのか判らないような感覚になる。


 朝食をとるのをやめて立ち上がり、頭を少し振った。すっきりさせたかった。

 もう生徒会室へ行こうと、食堂を出てホールを横切った。あの大笹が目に留まる。


――― 願い事なんて…


 浮かんだ言葉を飲み込んんで、下駄箱へと向かった。




 短冊に書く願い事があるとした、ただひとつだけ

 もう一度 その腕で抱きしめて…

 



お題『結び目五題』より「05 ただひとつの願い事」
pixivにて、7月からアップしていたものです。
サブタイトルは「pure週間に寄せて  すれ違いの7月がはじまります」
8月13日