いちばんの気持ちをあげるね




 すっかり日の暮れた外をちらっと見やると、ガラスに映る自分と、その向こうにはゆっくりと歩いている人達が見えた。
 簡単な食事を済ませ、何となく歩いていた時に見つけたカフェは居心地は悪くないのだが、向かいの席に座る相楽の話す声が、何故だか遠くに感じる。
 それとは知られないように頷きながら隣の席に目をやると、そこにはカップルが座っていた。小さな包みをそっとはにかむような笑みと一緒に渡すのを、見つめた。

――― ああ、そうか…、あしたは…

「…でな、三洲」
「…はい」

 ふと思い出した事に気をとられ、返事が遅れた。

「何か考え事か?」
「いえ…」

 何も、という言葉はカップに口をつけ、紅茶と一緒に飲み込む。

「三洲」
「はい…」

 今夜はよく名前を呼ばれる日だなと、そんな他愛無い事を思った。
 そして、こんな夜にはきっと。

「明日は休みなんだろ?」
「ええ、久しぶりなんで、大学の用事は入れませんでした」
「どうだ?これから、俺の部屋で飲み直さないか?」
「ん…、でも、今夜はやめておきます」
「明日の予定はないんだろ?なら、オールになっても構わないじゃないか?」
「久しぶりに祖母に会いに行こうかと思ってます」
「そっかぁ、お祖母さん、確か―――」
「伊豆なんです」
「一人で行くのか?」
「いえ、多分、叔母たちと一緒になると思います」
「そうかぁ、今日は実家帰りなんだな。残念だな。今夜はゆっくりできると思ってたんだよ」
「すいません、せっかく誘って下さったのに」
「また、そんな他人行儀な言い方をして」

 相楽の口元に苦笑が浮かんだ。

 身体を重ねた事は何度もあった。誘われるたびに抱かれる訳ではなく、今夜のようにさらりと交わしたり、断る事も多くある。それでも、肌を合わせた事があると言う事が、相楽にとって特別だと思わせているのだと思うと、時に重たく感じられる時があった。

 今は一人なのかと問われ、そうですと答えたら、付き合おうと言われた。心に中にあった躊躇する気持ちは表には出さずに首を縦に振ったのは、きっと、忘れたかったからだと思う。
 
 卒業と同時に真行寺とは別れた。
 今でも思い出すのは、彼のあの時の瞳の色だ。静かだった。熱情も落胆もなく、ただただ静かに自分の言葉を聞いていた真行寺。
 あの時の瞳の色を忘れたい。眩しい笑顔が似合う彼にそんな瞳の色にさせてしまった事を、今でも後悔する時がある。
 会えない辛さよりも大きいその後悔を忘れたい。

 ただ、どうなんだろう。抱かれていても、未だに真行寺の面影が浮かんでくる。
 手を。
 吐息を。
 声を。
 思い出しては、手繰り寄せそうになってしまう。
 溺れる事が出来たならどんなに楽だろうと、事が終わった後の隣で眠る相楽を見つめながらいつも思う。できないくらいに、今でも真行寺に執着し、想っている自分が嫌になるが、最近はそんな自分を受け入れようと思い始めている。

 忘れられないのなら、忘れずに想っていようと。
 抗う事を止めて、真行寺を想う気持ちを受け止めた。
 自分でも止められない想いだったから。
 今更、忘れられる訳もなかったのだからと。
 



 カフェを出た後、地下鉄へ向かう途中で相楽と別れた。今夜は無理強いせずに帰してくれた事にほっとする。
 駅の構内はまだ人が多く、車内でも座れずに、ドア近くで立っていた。揺られながら考える事もなく、明日の予定も本当は何もなく、せめて今夜は一人になりたかったなんて、そんな自分に笑ってしまう。

 乗り継ぎの電車が来るまでの待ち時間に、ふと、カフェで見た隣の席での事を思い出すと、時折、顔を出してくる気まぐれが、売店を見かけたことで、やはり現れてきた。
 こんな駅の構内の売店にも売っている。明日が2月14日だから。種類は少なく、大きさも小さな物ばかりだけれど。

「これを下さい」

 気がついた時には、もう支払いを済ませていたなんて。
 それをコートのポケットに入れて、ちょうど発車時刻になった電車に飛び乗った。
 自宅近くまで数駅の間に地上に出る電車には、空いている席もあったが、座る気にはなれずにドアの側に立つ。
 ポケットに入れていた小さな包みのチョコレートを手に持ってみた。透明な小さな袋には、小さなリボンがついている。その中の、キューブの形をした小さなチョコレート。
 小さくても甘さはきっと一人前だと思われる、そんな苦手なものを自分のために買った訳ではなく。今ではもう渡せない彼への、真行寺への想いを込めて買ったのだ。


――― お前は今、どうしてる?


 今でも一人でいるだろうか。
 この時期に、出会った頃からそうしていたように、今年もチョコレートを買っただろうか。

 窓の外を見ると、通り過ぎる街明かりが見えて、どこかに真行寺が居そうな気がしてくる。今頃は受験で、彼も実家に戻っているはずだから。



 おまえに…
 また会いたいな…
 真行寺…


 
 


『優しい嘘』の番外編になります。
真行寺と別れて相楽先輩と付き合ってる三洲が、バレンタインデー間近になって真行寺を思い出すと言うお話で、超短いです^^;

タイトルは、お題サイト「Kiss To Cry」様からお借りしました。
『バレンタイン五題』より

2016年2月14日