夏の気まぐれ-3-



 店内の奥まったところにあるテーブルに落ち着いた後、藤真も仙道も注文したアイスコーヒーが運ばれてくるまで、口を開かなかった。藤真が、仙道からすぐに視線を外し、少しだけ見える窓の外をぼんやりとみているからだ。仙道の誘いを断ることもなく付き合うと言ったものの、話しをする気まではないらしい。
 グラスの中のコーヒーをストローでかき混ぜては氷と遊んでいる藤真の、何も言いたくないらしいその中身が、仙道には何となく判るような気がした。

「花形さんと喧嘩…」
 その言葉でようやく仙道の方を見た藤真は、しばらく見つめ合った後、ふっと笑って、
「わかる? ってか、わかるよな、お前なら」
「そうでもないすけどね。でも、他に思い当たる事ってないじゃないですか、藤真さんが元気なくなる理由って。でしょ?」
 苦笑いを浮かべ、そうかもしれないとため息とともに囁くように吐き出す藤真は、仙道が知っているいつもの藤真とは程遠いところにいるように思われた。沈着冷静な高校生らしからぬ監督ぶりなど、巷では色々と言われているこの人でも、こんな風になってしまう時があるのか思うと、不思議で仕方がなかった。
「理由、聞いて良いですか?」
「理由っつったってなぁ…、そんなに大したもんじゃないんだ。すっげー、つまんない事でさ。ほんとにつまらないから…」
 自嘲気味な笑みを浮かべ、コップの中の氷に視線を落とす藤真に、
「そんな事、わかんないですよ。ひょっとしたら、すごーく大事な事かもしれないし。花形さんに、ほんとは女の子でもいたんですか?」
「まさか」
 顔を上げて即答する藤真に仙道は、いつもの冗談のような表情はみせず、
「オレ、聞き上手だから安心していいですよ」
 ひどく穏やかな声でそんな事を言われ、すると、今まで張りつめまくっていた意地とかが剥がれていくようで、不思議な事に、肩からも力が抜けていってくれているような感じがしてくる。
「お前、ほんと、聞き上手みたいだな」

 ほおぅっと一息吐いた後、昨日から今日にかけての事を、全部を言っては花形の名誉を傷つけてしまう恐れもあるので、かいつまんで話をした。
 仙道は、藤真の話を茶化したりする事なく最後まで黙って聞いてくれた。
「オレも反省はしてるんだ。暑いからって、イライラしまくって。だから……仙道?」
 藤真の話が終わってしばらくすると、今度は仙道が、少しぼんやりと考え事をするようになっていた。
 少しの間、二人の間に沈黙が下りた後、最初に口を開いたのは仙道のほうだった。

「藤真さんも花形さんも、羨ましいなって思って…」
「そうか…」
「だって、そうじゃないですか、喧嘩できるくらい仲が良いんですよ。それからね、喧嘩ができるのは、仲直りできる距離にいるからですよ。それだけ近くにいるって事です」
「そうかなぁ…」
「そうですよー。オレと牧さんなんて、多分、藤真さん達より先に付き合ってると思いますけど、喧嘩のけの字もありませんよ。喧嘩したくても、あの人、遠いですからね。おまけに、手を出してこないから、喧嘩のしようもないですし」
 最後の方は、かなり牧に対して怒りの気持ちが篭っているような仙道だったけれど、
「そうかあ? お前ら、凄く仲良さそうに見えるよ。オレなんて、いっつも当てられっぱなしでさ、肩身の狭い思いをどれだけさせられたと思って…、って、なんで、お前と牧の事を誉めてんだ。ひょっとして、惚気を聞かされた訳か、オレは…」
「そんな事ないですよ〜、オレは真剣に悩んでんです」

 だんだん気持もほぐれてきた藤真は、いつもの調子を戻しつつあった。
 仙道は、そんな藤真を見ていて、何を思ったか、身を乗り出し、ほんの目の前まで近づいてきた。先ほどまでの穏やかな笑顔をやめ、冷ややかな眼差しで見つめてくる。
 頬杖をついたままその眼差しを受け止めるが、藤真には、仙道が次ぎにどのような行動に出るのか予想がつかず、けれど、身構える事はしない。
「藤真さん、オレと遊んでみません?」
「……」
「誰にもばれやしませんから」
 そう言って、藤真の顎に指を添えてくる仙道を、いつのまにか冷たい印象を与える瞳に戻っていた藤真は、何も言わずに見つめ返すだけだった。
「少しくらい驚いてくれてもいいのになぁ。面白くないなぁ。でも、拒まれてもいないから、いきますよ」
 すーっと近づいてくる仙道の息遣いが自分に触れるところまできていても、藤真は動こうともせず、ただ、じっと―――。
「あのね、藤真さん。キスする時は、目を閉じてくださいね」
 それでも、目を閉じず、すぐ目の前の仙道をじっと見つめている。仙道の好きなようにさせているように見えても、最後の一線は越えさせないと言う、藤真の意思の強さが見え隠れしているようである。

「あ〜、つまんないなぁ、藤真さんは〜、もう〜〜〜」
 観念したらしい仙道は、大きなため息を大業につきながら、藤真から離れていった。
「バーーーカ。十年、早いんだよ」
 堪えきれずにくすくす笑う藤真だった。
 緊張していたのは仙道の方だったらしく、喉を潤すのに必死のようで、アイスコーヒーの残りを飲み干していた。
 頬杖をついたまま、結局、先ほどの姿勢から何も変えないままの藤真に、ふすったれた顔で仙道は聞いてくる。
「そんなに花形さんの方が良いですか?」
「そうかも。ぜんぜんドキドキしなかったな」
 そう言って藤真は、何かを思い出したように笑みを浮かべ、視線を窓の外に向けた。
「思い出し笑いはスケベな証拠って、知ってましたか?」
 先ほどまでの負け惜しみな気持ちはもう消えてしまったのか、いつもの仙道に戻ってくれたようで、言葉の端々に嫌味が混ざってきているのが判る。

「オレ、そろそろ帰る事にするわ。花形、心配してると思うし」
「でしようねぇ。すげー心配かけたみたいですからね。早く帰って、可愛がってもらってください」
「せ…仙道っ!!!」
「はいはいはいはい、もう良いですから、さっさと帰ってください。あ、自分のコーヒー代は置いていって下さいね」
「判ってるよ、失礼な。後輩に、そこまでさせるかよ」
「それじゃ、藤真さん、気を付けて。悪い虫にも気をつけて。後日談、絶対に聞かせてくださいよ」

 いつまでも話を聞いていては帰られないと思った藤真は、適当に返事をしては手を振りながら、喫茶店前で仙道と強引に別れた。


 歩きながら、無性に花形に会いたくなってきた藤真だった。仙道に、変に挑発されたからだろうか。
 夕方のラッシュに揉まれながら、早く帰りたくて、うずうずしてしまう藤真は、こんなことになるのなら、せめてもう少し、近くに逃避行すれば良かったと思ってしまうほどだった。

 早く帰ろう。帰ったら、真っ先に花形に電話をかけよう。昨日の事は、とにかく謝って、今日の事も謝って。疑われてしまった事は…、きっと本意じゃなかったろうから、花形の言い分があれば、きちんと聞いて。
 オレも、ずいぶん甘いかも…。
 それから、それからは…、それからは―――。
 早く会って……。



 その頃、花形はマンションのドアの前で、いつ帰るともしれない藤真を待っていた。
 通り過ぎる人がいれば、
「彼ですね、今日学校を休みまして、心配で見に来たんですが、まだ留守らしくて…」
と、聞かれもしないのに言ってみたり。
 早く、とにかく早く帰ってきて欲しい。早く藤真の無事な顔が見たいと、切に思う花形だった。


《6》


 今夜もこの暑さでは熱帯夜になっているのかもしれないが、自然と小走りとなり、汗まみれになってしまっている藤真にはあまり気にはならなかった。
 夏の夜は、せめてもう少し涼しくなって欲しいと、子供心に何度願ったか判らない。いや、今は、そんな事はどうでも良かった。とにかく、早く家に帰りたかった。早く帰って、花形に電話をするのだ、自分から。

 マンションに辿り着き、何とかエレベーターの中へ入り込んだ後、少し震える手でボタンを押した時には、よろけそうになる身体を壁に凭せ掛けるだけで精一杯だった。
 やっと帰ってきたからなのか、それとも、吹き出す汗のせいか、目の前が霞むような気がする。目指す階に着くまで、弾む息を何とか整える。
 制服のポケットから部屋の鍵を取り出しながら廊下を歩いていると、ドアの前で、誰かが立ちあがるのが見えた。
 ドアの高さいっぱいまでのあの背の高さには見覚えがある。その人の顔が、自分の中ではっきりとした形になる前に、藤真はすでに走り出していた。

「花形…」
「おかえり…。良かった、帰ってきてくれて。…ずいぶん心配したよ」

 藤真が帰ってきたら、散々心配をかけたのだから、雷の一発でも落としてやろうか、とか、そんな事も考えていたけれど、一日出ずっぱりだったと思われるような疲れきった顔をして戻ってきた藤真が、自分の顔を見るなり、嬉しそうに、満面の笑顔になるのを見てしまったら、用意していた言葉を何処かへ飛ばしてしまった花形だった。

 お互いに昨日の事が頭を過り、少しの間、何も言い出せずにいたが、それでも顔を見合わせれば、知らず知らずのうちに笑顔になってしまう。
「あの…家には…帰らなかったのか。ひょっとして…ずっと?」
「まあね、ここで待つ方が一番良いと思ったから。それより藤真…」
「な…何…」
「そろそろ…、家の中に入れてくれる?」
「ああ、ごめん。すっかり忘れてた」
 会いたかった花形と、まさかこんな所で会えるとは思っていなかった藤真は、鍵を手にするだけで、ドアを開ける事を忘れてしまっていた。

 ようやく部屋の中に入り、二人とも早く落ち着いて話しでもと思っていても、なかなか現実はそうはさせてくれない。
「藤真、悪いけど、水くれるか? 喉が渇いて、もう、干からびそうで…」
 そういうなり、へなへなと床にへたり込む花形に、慌ててコップに水を入れに行く藤真も、そう言えば自分も喉も渇いていて空腹だった事を思い出した。

 向かい合って座り込み、もうこれ以上は飲めません、と言うくらいに喉を潤せた時には、生き返ったような気分になり、思わずほお〜と漏れるため息に、顔を見合わせて笑いあってばかりだ。
 それでも、やはり言わなければいけないのだからと、
「藤真に会ったら、最初に言おうと思ってた事があったのに、水飲んだら、何だか気が抜けて…」
「なになに、何? オレも花形に話があるんだけどさ、先に聞かせて…」
「うん…」
 手に持ったコップに視線を落とした花形は、ポツポツと話しはじめる。
「昨日の事なんだけどな。あんな事言って、疑ってるような事言って、ほんっとに、すまんっ!!!」
 頭を下げて素直に誤ってくる花形を見ながら、藤真は考える。

 あの時、少しだけれど傷ついた事を、一度はきちんと言っておいた方が良いと思う。
 その為には、どうすればいいだろう。何を言えば良いだろうか。
 何か良い案はないかと考えに考えた末、ぽんと浮かんだ言葉に、これくらいの事は言っても罰は当たらないだろうと思った。
 それだけ、ショックだったんだよ、花形…。

 藤真は、背筋を伸ばし、その場の空気をピンと張り詰めさせると、
「オレはね、傷ついたよ。疑われてたなんて考えた事もなかったからな。花形のこと信じてたから、凄くショックだった」
 頭の上から落ちてくる冷ややかな声に、ますます頭を下げていく花形は、とにかく、自分の気持を伝えるためには、精一杯の誠意を見せるしかないと思い、必死に謝るしかなかった。
「ほんとに、すまない。でも、ほんとに疑ってたとか、そういう訳じゃないんだ。言い訳にしか聞こえないだろうけど、そう言うんじゃなくて、何て言うか、とにかく、すまん、藤真…」
「お前のおかげで石になったオレの心を見せてやるよ。顔、上げろよ、花形」
 絶対零度の如く冷たい藤真の言葉に、背中を冷や汗が流れていく。何とも嫌な汗だ。
 それでも、見届けなくてはいけないと、意を決して顔を上げた花形がそこで見たものは―――。
「ふ…藤真?」

 にかっと笑って、ピースサインをしている藤真だった。

「ごめん…、許してくれるのか?」
「うん…。最初はショックだったけど、花形見てたら、もう良いかなと思って。それより、オレの方こそ、あんな酷い事言って、すいませんでした。許してくれる?」
 素直に頭を下げる藤真に、ぶんぶん頭を振りながら、
「許すも許さないも何もないよ、良いって、良いんだって。まぁ、多分、ほんとの事だと思うし…」
 その言葉に、笑いを堪えるのに必死の藤真だった。
「ありがと、花形。だけど、自覚あるんだ、ヘタって」
「うッ…。ま、まぁ…、まだ慣れてないから。頑張るよ」

 ありふれた日常の馴れ合いの中で生まれた、ほんの少しの思いやりのなさのために起こった諍いにも満たないような喧嘩のおかげで、藤真は、今まで、当たり前に存在していると思っていたものが、実は、とても恵まれたものなんだと言う事に、今更に思い知らされた気がした。
 きっと、仙道が言っていたのは、この事だったのだろう。

「なあ、花形…」
「何?」
 いつもの柔らかな雰囲気に戻ってくれて、ほぉっと一安心した花形は、藤真の呼びかけに、いつものように静かにその先を待った。
 藤真は、花形のメガネを外して丁寧にたたみ、自分のシャツのポケットに入れ、そうして、花形の首に両腕を巻きつけてくる。
 花形は、藤真の腰に腕を回し、少し引き寄せて、
「先に、シャワー使わなくて良い? 藤真、お前、朝から出ずっぱりだっただろ、汗びっしょりだよ」
「良いんだ。風呂に入るのは、後にしよう。今は、こっちの方が先に欲しい…」
 藤真は、花形のキスを待った。もちろん、目を閉じて。


 仲直りのキスは、少しだけ汗の味がした。