夏合宿協奏曲 -1-



 ここは保健室。
 その中で、おとなしく椅子に座り、時たま、眉間に皺を寄せてみたりして、突き指の治療をしてもらっているのは、バスケ部の主将兼鬼監督の藤真だった。
 確かに、バスケットもボール競技であるから、突き指もする時があるだろう。しかし、藤真に限って言えば、ここ数年突き指なんぞしたことがない、そんなものとは一番縁遠い人間のはずである。
 そんな藤真が、何かに気をとられていたとは言え、飛んできたボールを受け損ねて突き指をしてしまったものだから、今頃体育館では、練習そっちのけで、この話題で持ちきりだろう事は簡単に想像できる。それが藤真には面白くなくて、養護教諭の変わりに治療をしてくれている花形につい冷たい眼差しを送ってしまう。
 だいたい花形が原因なんだからと、心の中でぶつくさ言っている藤真だった。

「何だって余所見なんかしてたんだ。らしくないなぁ…」
「オレだって、好き好んでしてた訳じゃな、あっいいいっ、痛っ、花形、きつく締めすぎてるよ〜」
「すまんすまん、しっかりしとかなきゃって思ったら少しきつく締め過ぎたかもな。ちょっと緩めるから、もう少し待ってくれ」
 もう一度包帯を巻き直しながら上目遣いでちらと藤真を見ると、その視線に気づいた途端にぷいっと横を向く藤真に、花形には、どうして今日の藤真はこんなに機嫌が悪いのか、虫の居所が悪いのか、皆目見当がつかなかった。
 オレは、また何かをやらかして、藤真を怒らせてしまったのだろうか。だけど、思い当たる事と言っても何も浮かんではきてくれず、花形にはさっぱり訳が判らなかった。

 包帯を巻き終わって、「はい、お疲れさん」と、藤真の手の甲をポンと叩くと、突然、藤真が手を握り締めてきた。花形はちょっとびっくりしてしまったけれど、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、
「どうした? いったい何があったんだ? いくら考えても、オレ判らないから、そろそろ言ってくれないと…」
 ぶすったれていた藤真も、流石にいつまでも膨れていてはいけないと思ったのか、花形にぽつりぽつりとその理由を話し始めた。
「花形、お前ってさ…」
「ん?」
「花形って、下の学年の奴等からもの凄く信頼されてると言うか、みんな、お前との方が話し易いと思ってんだろうな。直接オレに言いにくれば良いものを、みんな、最初は必ず花形のところに行くんだぜ。知ってた? そんで、そういう奴等に対して、花形は優しいんだ。凄くね。それ見てたら、なんて言うのか…沸々と沸いてくるんだよ。なんつうか、こう…どろどろしてそうなイヤ〜な感じのものがさ。伊藤の時なんか、特にそうなんだよ。花形の前だと凄く安心しきって喋ってやんの、あいつ。オレが目かけてやってるってのにな。それに、後、ほら……」
 まだまだ延々と続きそうな藤真の愚痴を途中で遮って花形は、思い切って聞いてみた。
「もしかして藤真、妬いてるのか?」
 花形からそう指摘された藤真は、途端にかぁーーーーーと茹で蛸のように真っ赤かかになり、目は泳ぎ始め、話もしどろもどろになってしまい、
「ばはばばばか、お前。オレが妬いてるって? だ、誰にさ? 年下の奴にか? まして、伊藤にってか? ばからしい事考えんなよ。あほらしくて、頭ン中空っぽになっちまいそうだ…」
 花形の指摘に畳み掛けるように勝手に喋っている藤真ではあったが、その頬はほんのり紅くなっている。図星だったようだ。
 なんだか、嬉しい気持ちが込み上げてくる花形だった。
「そうかぁ、藤真に妬いてもらえるようになったんだな。オレも出世したもんだ」
「勝手に言ってろ、バカ」
 花形の尻でも蹴飛ばしそうな勢いで、ふんっと言って横を向いてしまった藤真に、花形は口元に笑みを浮かべながら、保健室の日誌を広げた。突き指の治療について書いておかなければいけないからだ。

 さくさくと書き終え、さあ体育館へ戻ろうかと藤真に声をかけようとして振り返ると、どこにも藤真はいなかった。
 どこへ行ったのかと、そんなに広くはない保健室の中を見回すと、簡易ベッドを仕切っているカーテンの隙間から藤真のものと思しき手が、こちらへ来いと手招きしているのが見える。
 やれやれ、今度は何を考えているのやら。
 手招きに応じるためではなく、藤真を引っ張り出すためにカーテンに近づいた花形は、
「遊んでないで、早く戻らない…わぁっ!!!」
 胸倉を掴まれたかと思うと、カーテンの中へ引きづり込まれ、そのままベッドへ押し倒されてしまい、おまけに、藤真が馬乗りに乗ってくるではないか。
「バカっ!! 何考えてんだよ、こんなとこで。人が来たらどうすんだよ。早く退け、戻るぞ」
 珍しく真剣に怒る花形に、藤真もまた真剣な眼差しで、
「ごめん、ちょっとだけ。なっ、花形。ちょっとだけだから。時間かかからないからさ」
「あのなぁ…」
 少し切なげな表情をされて頼まれてしまうと、花形には藤真を跳ね退ける事はできなかった。藤真にはとことん甘いと、他の三年生連中から言われる所以である。
「少しだけだからな」
 その言葉に顔を明るくさせた藤真は、それでも暫くは何も言わずにじっと花形の顔を見下ろしているだけだった。
 そんな藤真の頬を両手で支えるようにして自分の顔に近づけた花形は、藤真の言いたいことは大体は判っていたけれど、
「ほら、早く言わないと、先生戻ってくるぞ」
「うん…」
「ほらほら…」
「あのな、花形…。もし、オレ以外の奴と浮気なんてしたら、オレ絶対に許さないから」
「へ? 浮気って、お前…」
 何を言い出すのかと思えばそんなくだらないことを、と脱力してしまう花形だった。つまりこれは、信頼されていない事の裏返しではないかと思えてしまうからだ。
「オレって、そんなに信用できない?」
 少し悲しそうな声でそう言ってくる花形に、
「あああ、そうじゃなくて、つまり、オレ以外の奴には意識を奪われるなと言いたいだけで…」
「要するに、藤真だけ好きでいろって事?」
「まあ、そういう事」
「はいはい」
 花形は、藤真の性格が筋金入りの意地っ張りである事は重々知ってはいたが、もっと素直に言えば良いのにと思う一方で、そういうところも藤真らしく、ある意味可愛いとも思えてしまい、少々複雑な心境になってしまうのだった。
「なぁ、明日から合宿に入るだろ。そうしたらオレ達、しばらくは禁欲生活だよな。最近、ずっと親父が家にいて、落ち着いてゆっくりできなかったのに合宿だろ。何だかつまらなくて…」
「つまらないって、藤真、仕方ないだろ。少しの間だけの辛抱だし、第一、合宿中にそんな気が起こるほど、お前の組んだ練習メニューは柔じゃなかったぞ」
 さすが鬼監督と言われる藤真だけあって、合宿用の練習メニューのハードさはいつものに比べて郡を抜いていた事を思い出し、花形はぞっとした。
「だから、当分お預けだろ、だからさ…」
「まさか、ここでやろうってのか。ダメ。いつ、誰が入ってくるか判らないのに、絶対にダメっ」
「先走んなよ。そうじゃなくて…」
「ん?」
「花形、キス、して良い?」
 それくらいならと、少し安心した花形は、紅くなっている藤真の唇に指を当てて、どうぞと言うように目を閉じた。
「ありがと」
 藤真は花形のメガネを外し、丁寧にたたんで大事そうに手に持った。それからゆっくりと顔を下ろし、大人しく待っていてくれる花形の唇に自分のそれそっと重ねた。触れ合った瞬間、身体の奥がじんと痺れると同時に、背中を震えが駆け抜けていく。
「んん…」
 唇を少し離し、閉じられている花形の唇を舌先で軽くノックすると、招き入れてくれるように少し開いてくれた中へ舌を差し入れていく。お互いの舌を絡み合わせながら軽く吸い上げたり、強く吸い上げているうちに、ふたりの若い身体は素直な反応を示し始めた。
 キスだけのはずが、その先へと意識が向かおうとしたその時―――。


 突然、立て付けが古いせいもあってかギシギシと音を立てながら、保健室のドアが開いた。
「や〜、留守にしてすまんすまん。って、誰もいないか?」
 やっと戻ってきた養護教諭は、そう言いながら中へ入り、留守をした後必ずそうするように、誰もいない部屋の中をぐるっと見回した。
簡易ベッドのカーテンが少し空いていたので、具合でも悪くなった生徒が寝ていると思い、
「誰か寝てるのか?」
 カーテンを開けると、ひとりの生徒が横になっているもう一人の生徒の頭に手を置いていた。
「え〜と、バスケ部の藤真と…、寝てるのは花形か。どうした、お前たち?」
 藤真は立ち上がり、
「すいません、花形が日射病らしくて、具合が悪くなったのでベッドで休ませてました。自分は付き添いです」
「珍しいな、バスケ部が。それより、藤真の手、それはどうした?」
「あ、はい、これは突き指で、花形に巻いてもらいました」
「具合の悪い奴にそんな事させたらダメだろ。そういう時は、職員室まで―――藤真も日射病みたいだな。顔が赤い。お前も少し休んでいけ」
「あ、大丈夫です、慣れてますから。椅子に座ってたら治まりますから」
「無理するなよ、明日から合宿だろ。気をつけなきゃ、お前らふたりが倒れたら、後の奴らが大変だからな」
「はい、気をつけます」

 優等生らしい応対をしながら、誰か先生を呼びにこないか、さっさと何処かへ用事で行ってくれないかと、そればかりを願う藤真だった。タオルケットを無理やりに被せられた花形も同じ気持ちであった事は言うまでもなかった。


 こうして、燻り始めた熱を持て余したまま、三年生最後の夏合宿が始まろうとしていた。