恋愛事始め-5-



 藤真と花形が翔陽へ戻ってみば―――体育館はもぬけの殻状態で、部員たちは誰もいなかった。
 いつもの部活の終了時間までには戻ってくるからと言い置いて出てきたと言うのに、監督も副主将もいないとあって、さっさと切り上げて帰ってしまったようだ。鬼のいぬ間に何とやらである

 しんと静まり返る体育館の入り口で、藤真は拳を握り締め、
「あいつらぁ〜〜〜。明日は、みっちりとしごいてやるからな〜」
 ちょっと目を離すとこれだからと、隣にいる花形を見上げて同意を求める眼差しを向けるのだが……
「……」
 いつもなら、見上げてくる藤真に少し背中を丸めるようにして答えてくれるはずの花形が何も言わない。
「花形?」
「ん? ん、ああ、みんな帰っちまってるなぁ…」
「なぁ、あいつら、オレ達がいない…」
「あぁ、オレちょっと部室に用事あるから行くけど、藤真はどうする?」
「いいよ、一緒に行くよ」
 さっさと部室に向って歩き始めた花形の後ろからついて行く。
 やっぱり変だ。
 海南を出た頃からどことなく上の空でいる花形。いつもの横顔が元気がないようにも見え、何か胸騒ぎのようなものも感じる。しかし、気にかかるのに怖くて聞けないときてるから厄介である。
 我ながらなんてじれったい…。


 部室に置いてある椅子に腰掛けながら「よっこらしょ」なんて、そんな言葉まで出てしまう。じーさんになったみたいじゃないか。
「藤真も疲れたろ? 海南まで行ったからな」
「まあね。何か忘れ物?」
「着替えたシャツとか忘れてたんだよ」
 いつものような軽快な会話も飛び出してくれない何となく気まずい雰囲気の中で藤真は、ロッカーの中をごそごそと探しものをしている花形をじっと見つめていた。
 足元に置かれている鞄の中から少しだけ見えているものは、あれは確か、花形が受け取っていた手紙ではないだろうか。
 その封筒は、女の子から貰った事が一目瞭然だと思われるような薄いピンク色をしている。
「それ…」
 そのつもりはなかったのに、僅かに痛む心と一緒に声が出てしまった。
「何?」
「いや、あの…」
 考えるより先に声を掛けてしまった事に慌ててしまう。どんな風に切り出していいのか、まだ分からないでいるのに。
「何、藤真…」
 言いよどんいると花形がもう一度聞いてくる。その声に弾かれるようにして、藤真の中で何かが切れた。

 ええいっ、もう、待つなんていやだ。聞いてやるっ!!! 当たって砕けてやるっ!!!

「花形、その手紙なんだけど…」
「ああ、これ…、この手紙の事か…」
 藤真の指し示すその手紙を取り上げながら、呑気そうに苦笑いを浮かべそんな事を言う花形に、藤真はクラクラと眩暈を起こしそうになってしまう。
 どうして、そんな呑気なんだよ〜。人がこんなに心配していると言うのに、こいつは〜〜〜
 けれど、こんなところで眩暈を起こしている暇はない。自分を奮い立たせ、花形に詰め寄る。
「それの事だけど、何で受け取ったんだよ。今まで、手紙なんて受け取ったことなかったのに、どうして今回だけ。花形、おまえ、もしかしてその子の事…」
「うん、何て言うか…」
 その先は―――その先の事は聞きたくない。本当は耳を塞いでいたい。でも、聞かなきゃいけない。けれど、一番聞きたくない事だったらどうすればいいんだろうか。
 もどかしいやらじれったいやらで、じっと椅子に座っていられなくて、花形に近づいて尚も尋ねてしまう。
「何? いったい…」
 手紙を持ったままの花形は、切なそうな顔をして言おうかどうしようか悩んでいる。
 これは、ひょっとして、そうなのか?
「好きな人ができて、それで…」
「好きな…人って…」
「好きな人ができて、無下に断れなくってな…。どうした?」
 藤真は、花形の顔をじっと凝視しているだけだった。

 ―――花形はその子の事が好きなんだ…

 その言葉がハッキリとしたカタチになって心の中に落ちてきた時、藤真は思わずその場に座り込んでしまった。
 一瞬、気が遠くなりかけたようだったけれど、天は味方をしてくれなかったようだ。身体の力は抜けているのに、意識だけはしっかりしている事が何とも恨めしい。
「藤真、大丈夫か? 具合でも悪くなった? 暑さにやられた?」
 顔を覗き込んでくる花形のメガネが、何故だか霞んできている。このまま消えてなくなってしまいそうな気がして、思わず手を伸ばしていた。
 指先が花形の頬に触れ、居てくれたことにホッとするが、それも僅かな間だけ。誰かのものになってしまった事に、少しづつ痛みが増してきている。
 もう、お終いかも…。

「花形は、その子の事が好きなんだ…」
「オレが? 誰のこと?」
「手紙をくれた子。さっき、言ってただろ…」
「好きな人はいるけど、手紙をくれた女の子じゃない。何か勘違いしてるな」
「え…」
「オレが好きなのは…、遅かったけど、藤真、おまえだよ」
 普段よりもさらに大きく見開いた眼で、それこそ穴の開くほど花形を見つめる。
 え〜と、花形はなんて言ったんだろう…。
「なん…」
「ん…、ほんとは言うつもりはなかったんだけどな。オレが好きなのは、おまえだから」
「嘘だ…ろ」
「ほんとだ」
「だって…」
 何処でどう違ったのか、自分の思っていた展開とは違う方向の話に、藤真の思考はなかなか追いついてくれない。
 花形は女の子の事が好きだと思っていたが、そうではないらしい。好きなのは藤真だと、自分だと言ったように、思う。たしかにそう聞こえたと思う。
 担がれているのだろうか。それとも、願望が過ぎてしまい、幻聴でも聞こえるようになったとか…。まさか、ね。
 これは、確かめなくてはいけない。
「花形、もう一度…」
「藤真が好きだよ」
「もう一回、言って」
「好きだよ」
「ほんとに?」
「ああ」
 今度こそしっかりと耳に届いた言葉に、藤真の思考はオーバーヒート寸前、今まで溜めて溜めて溜め込んでいた気持ちが溢れ出てしまいそうである。
「どうしよう、花形。オレ、どうしたらいいんだろ。どうにかなってしまいそうだ…」
「どうした。さっきから何かおかしいぞ…」
「…きなんだよ」
「え?」
「好きなんだよ、花形…」
 そう言って藤真は、我慢できずに花形に抱きついていった。
 驚いたのは花形も同じ事。今の今まで、藤真は牧と関係があるのだと、付き合っているのだと思っていたのだから。
「嘘だろ」
 それでも、おずおずと自分に抱きついている背に両手を回し、その身体を感じた時、半信半疑だった花形もようやく藤真の言葉を信じる事ができたのである。

 内に溜め込んでいたものを吐き出すように、お互いに自分の気持ちを言い合った。知らない間に両思いになっていた事に、その間の気の遠くなるような悩んだ時間を思い出して、二人とも笑うしかないって感じだ。
 花形が手紙を受け取ったのは、自分にも好きな人ができて、そういう女の子達の気持ちが少しは分かるようになったおかげで、無下には断れなかったそうだ。牧との事も、友達関係であることをようやく理解してくれた。
 どんなに近くにいても、確かめ合わないと分かり合えないものがある事を、言葉を出し惜しみしてはいけない事を、今回の事で充分に身にしみて思い知らされた。

「なんか、バッカみてぇ〜。ずっと悩んでたのに…」
「オレも、少しだけだけど悩んだんだからな」
「さっさと言えば良いのに、花形はさ」
「それは藤真も…、あ〜悪かったよ、もう…」
「へへ、もう良いよ。花形に言ってもらったし……って、良くないっ!!」
「良くないって、何が?」
 花形からの告白を受けてすっかり忘れていたけれど、どうしても知りたい事があった。もう一つだけ、大事な事だ。
「花形、おまえがオレの前から逃げ出した理由、まだ聞いてなかった」
「う…」
「教えてくれるよな?」
 絶句している花形の顔が、パァ〜と赤くなっていく。
「花形…」
「いや、あの、だから、その…、つまりは、あれだ…」
 期待の眼差しを一身にうけ、これ以上は黙っていることはできないと観念したのか、ようやく話す気になってくれたらしく、
「つまり…つまりだよ、藤真にキスがしたいと、そう思ったんだよ。そう言う事だよ。笑うなよ…」
 照れ隠しのためか投げやりな感じの告白ではあったが、藤真にとってはこれ以上ない申し出に不満などなかった。断るつもりなんて、さらさらなかったからである。

 藤真は花形のメガネをとり、「どうぞ」と言うように眼を閉じた。


 真夏真っ盛りの中、一学期最後の授業を受けながら長谷川は、隣の席に座っている花形にチラッと視線を向けた。
 なんだかんだと騒いでいた事がまるでなかったかのように、いつもの相変わらずな花形と藤真に戻っている。
 しかし、長谷川はとても察しの良い男である。
 見た目はいつもどおりの花形と藤真ではあるのだけれど、僅かな変化を、ほんの少しだけ変わったその部分を見逃すようなドジはしなかった。
 藤真が花形のクラスに遊びにくることが減り、その代わりに花形がいなくなる事が増えたと言うのがそれで、こっそりと校内デートを楽しんでいるらしい。藤真が、やけに蚊に刺される事が多くなったのもそうだと思われる。
 今はまだ、他の誰も気がついてはいないようだけれど、それも時間の問題だろう。
 やれやれ、また大変だろな…。
 花形に知られないように、そっとため息をつく長谷川だった。


 それぞれにとって色々な意味で楽しい夏休みが、もう目の前に迫っていた。