恋愛事始め -4-



 床に座り込んだ花形は、弾む息を整えようと深呼吸を何度か繰り返す。

 藤真の前から二度までも逃げ出してしまった花形は、キレた藤真に追いかけられてしまっていた。
 大男なのに案外に身軽なのか、藤真はいつまでたっても追いつけない花形に声をかけてくるが、しかし、逃げている最中だ。「待てよっ!!!」と呼び止められても、いつもの習慣で振り向きそうになってしまう自分を叱咤し、止まる事をしない。
 もう、そろそろダメかと思われた時、すこっと階段下に隠れたおかげで、藤真は知らずに行き過ぎてくれて、ここなら見つかる事はないだろう。
 花形は、深いため息をついた。
 本当はこんな事はしたくない。逃げたい訳では決してないのに、自分の気持ちが落ち着いてくれない今の状況では、藤真の前に出て行くことは難しい。
 藤真の事が好き。それだけなら良いものを、あろうことか、邪な方向へ思考が行ってしまうのである。
 好きな人相手にそんな気持ちになるのは、至極当たり前のことで、なんら不思議ではないのだけれど、ようやく自分の恋心に気がついた花形には、その気持ちを受け入れるだけの余裕が、悲しいかな、まだなかった。
 昨日までは親友だと思っていた、しかも、信頼されている、その上に男同士である。そこに、認めたくはないがヤキモチっぽい気持ちもくっ付いてきていて、慣れない花形を彼らしくなくあたふたさせてしまっている。

 いつも側にいて、やんちゃをする藤真の髪をがしがしとやったり、優しく撫でたりとか…。意識をしないでいられた時は、一緒にシャワーでもフロでも入っていたのにな…。

 花形は、どうしようもなく自己嫌悪の嵐に飲み込まれてしまっていた。


 どれくらいたったろうか、階段下でじっとしていると、弾んでいた息が少しづつ落ち着いてくるのにともなって、心の中の嵐も少し穏やかになってきているのが感じられる。
「やれやれ…」
 こんな事を続けていられる訳がない。放課後になれば部活がある。後少しすれば夏休みもやってくる。選抜まで残る事にした自分達は、悠長に休んでなんかいられない。部活が待っている。藤真と顔を合わせないでいられるなんて事は、不可能なのである。
 気がついてしまった藤真への気持ちを、誰にも気づかれずに過ごしていければ一番良かったのかもしれないけれど、藤真自身がすでに花形の行動に疑問を持ってしまっているはずだ。なんと言っても、目の前から逃げ出したのが拙かった。あの藤真の事だから、下手な嘘や変な言い訳が通用するはずがない。第一、自分が藤真に嘘を言いたくない。ならば、本当の事を藤真に告げるしかない。
「覚悟…決めるしかないか…」

 もう少し、もう少しだけ時間がほしいと、花形は切実に思った。



 やっとの事で一つの結論のようなもの辿り着いた花形は、教室へ戻ってきた。あと少しで、次の授業が始まるからだ。
 階段を上がったところで、花形は立ち止まる。
 教室の前には、腕組みをしたまま絶対零度よりも冷たい視線で花形を睨んでいる藤真がいる。
(まったく…、普段が綺麗な顔立ちなもんだから、怒ると迫力が違うな)
「やっと、ご帰還か。ここで待つのが一番良いと思ったんだけど、正解だな」
 さすがに、覚悟は決めていても、藤真の冷たい視線に晒されるのは居心地が悪い。後ろめたい事があるものだから、尚更である。
 それでも、意を決して藤真に近づいた花形は、
「藤真、ちょっと話があるから」
「オレも花形に聞きたい事がある」
 二人そろって、廊下の端まで歩いていく。

「花形、おまえ、なんで逃げ出したんだよ。オレ、お前に何かした?」
「藤真、あのな」
「何だよ…」
「理由だけど、今は言えない。もう少し待って欲しい」
「は?」
「ちょっと待って欲しいんだ。必ず本当の事は言うから」
「待てって、お前っ。ふざけんなっ!!」
 思わず腕を振り上げそうになった藤真を慌てて抑え、花形は続ける。
「逃げだしたのは悪かった。すまないと思ってる。ただ、その理由は、ちゃんと話すから、待って欲しい」
「どうして?」
「まだ、自分の中で落ち着かなくて…」
「何が?」
「いろいろとあって…」
「いろいろって?」
「だから、いろいろとだよ」
「いろいろって、花形…、それじゃあ…」
「ごめんな。でも、必ず本当の事は言うから」
「花形…」
 藤真とて、花形と言い争いはしたくない。ただただ、花形の行動の意味がわからないだけだ。ごく普通の親友ならば何でもないことが、花形に対して特別な気持ちを持っているがゆえに、不安になってしまう。知らない事があるなんて、耐えられないのだ。例え、それがただの我侭だとしても。
 しかし――真摯な眼差しの花形に、こんな風に静かに告げられると、藤真は何も言えなくなってしまう。
「ほんとに、言ってくれるか?」
「ああ、必ず言うから。約束する」
 何となく理不尽な思いは消えないけれど、きっぱりと言い切る花形の事だから、約束は守ってくれるだろう、嘘も言わないだろう。その辺は、信用できる男だから…。
 先ほどまでの訳のわからない怒りが、おさまっていくのを藤真は感じた。

「じゃあ、待つよ」
「すまん、藤真…」
「そう思うんだったら、今言えば?」
「あ〜、ちょっと整理してからでないと…」
「怪しいな、お前…。それより、いつ言ってくれるんだよ」
「近いうちに」
「そうかぁ…、わかったよ」

 その時、授業開始のベルが鳴り響いた。


「さっさと告白すりゃあ良いのに…、変な奴ら…」
 教室の中からこそっと二人を見ていた長谷川は、そう独り言を言って、誰にも気づかれないようにそっとため息をついたのだった。



 翌日…

「外、暑そうだな」
「ほんとに…」
「今ごろ体育館なんてさ、蒸し風呂状態なんじゃないかなぁ。あいつら、大丈夫かな…」
「…なぁ…」

 今日も眩しい太陽の下、藤真と花形は、海南へ向う電車の中にいた。
 練習試合の話をするために、他の部員は翔陽に残して出てきた二人だけれど、なんとなく気のない返事をする藤真に、何かあったのだろうかと多少引っ掛かりを感じる花形であるが、自分の方も何もない訳ではないので、結局は何も言い出せないでいた。
 何を考えてるんだろうか、藤真は…。海南にいる誰かの事とか…。なんてな…、こんな事ばかり、俺はまったく……。
 何となく気まずい花形だった。。


 そんな花形の思惑をよそに、藤真は、まったく別の、あさっての方向へ意識を飛ばしていた。

 二人で学校を出る直前の事だ。花形はいつも見かける女の子と校門の外で話をしていた。じっと見ているつもりはなかったのに、足が動いてくれず、仕方なく見る羽目に…。
 花形は手紙と差し入れを受け取っていた。
 男子校である翔陽では、近場にある女子高の生徒達から手紙やら何やらを差し入れてもらう事は日常茶飯事な事で、別段、珍しい事ではない。普段から良くある事だったから、藤真としてもさして気にとめる事はなかった。花形は、いつも断っていたからだ。そう、全て断っていたのに…。
 藤真の目の前で手紙を受け取り、一言二言、言葉を交わしている。良い雰囲気の中で、楽しそうに微笑みながら…。

 ――――――あ……

 頭の中がまっ白になると言う経験を、きっと初めてしたと思う。足元から力が抜けていき、気がついた時には電車の中だった。そんな感じだった。
 思い返せば、花形もまんざらでもなさそうな顔をしていたような気がする。優しそうな感じの、いつも応援をしてくれている女の子だ。
 そう言えば何時だったか、皆で好きな女のタイプで盛り上がっていた時、花形が話してくれていたではないか。大人しそうで、優しそうな感じの子が好いと。

 どうして今まで気がつかなかったんだろう。花形が、他の誰かを好きになってしまう可能性があるってことに。
 恥ずかしいからとか何とかばかり言って、ずっと意思表示の一つもしてこなかった。自分から告白する前に花形から、なんて事をちらっと考えた事もあったし、何より、いつか言える日が来るまで、花形はずっと待っていてくれるものと思っていた。
 自分のあまりな安易な思考回路に、ため息吐息である。
 自分が誰を好きになろうと自由なように、花形が誰を好きになっても自由なのだ。こんな当たり前の事に気がつかなかったなんて…。
 オレってバカじゃん。いっちばん簡単なことに気づかなかったなんてさ…。どうしたらいいんだろ……。はぁ〜〜〜


 そんなこんなを考えていたら、何時の間にか海南へ着いていて、目の前には牧と二年の神がいる。気がつけば、体育館横の部室兼会議室へと通されている。
 学校を出て、気がついたら電車の中で、次に気がつけば海南か。こりゃ、オレも相当だな…。花形の事は、今はどうにもなる訳でもないから、後回しにするしかないだろう…。
 花形の事は一先ず横において、目の前の牧を見つめる事にする。

「すまんな、こんなところまで来させてしまって。忙しくて、今出られなくてな」
「いいよ、こっちからの申し込みだから」
「あ、藤真…、後で少しだけ時間良いか? ちょっと、話があるんだよ…」
 いつもと、ほんの少し口調の違う牧である。きっと仙道の事についてだろう。また、ノロケを聞かされるのかと思うとうんざりしないでもないのだが、乗りかかった船とでも言うのか、自分にしか仙道の事を話す相手がいないのだと思えば、多少は我慢はしてやろうかとも思うのである。
 やれやれ。オレは、それどころじゃないって言うのになぁ…。
「ああ、いいよ」

 その瞬間、花形の目が何やら光ったようだが、メガネをかけているせいか誰も気がつくことはなかった。


「それじゃ、そう言う事で、よろしく頼む」
「分かった。こっちこそ、海南も忙しい時なのに、時間をとらせてすまなかったと思ってるよ。頑張ってくれよ、インハイでは」
「ありがとう。藤真、じゃ、ちょっと、良いかな?」
「ああ」
 それじゃあ、と皆で立ち上がった後、牧から声をかけられた藤真は、花形に少し待っていてくれるように頼み、体育館横まで歩いていった。

 花形は歩いていく藤真の後姿を、なんとも言いようのない眼差しで見つめているしかない。
 他校の、しかも、藤真にとって海南の牧との間には、ライバルと友人と言う関係しか存在しないと思っていた。それ以外の関係もあるのかもしれないなんて、考えたこともなかった。
 何を話しているのか、花形のところまでは聞こえてこない。けれど、遠めに見ても楽しそうに笑っている事は理解できる。いつものピリピリとした緊張感はなく、リラックスしているように見える。

 もやもやもやもやもやもやもやもや…。

 空には夏の太陽がでんと構えて晴れわたっていると言うのに、心の中はどんよりと曇ってくるではないか。もうすぐ、夕立でもやってきそうだ。
 藤真に対して友達以上の気持ちを自覚してしまったための、ただのヤキモチなんだろうけれど。
 しかし、彼らの間がもし本物なら、自分はどうしたら良いんだろうか。割ってはいるか…。いや、できない。何も知らなかったならできたろうけれど、今となっては…。
「ふぅ〜」
 これから、この気持ちをどうしようか。どうやって始末をつけようかなぁ…。
 足元に転がる石ころを蹴って、肩を落してため息をつく花形だった。


 そんな花形の様子に気づく事もなく、藤真は藤真でどんよりとした思いを引きずっていた。
「何かあったのか?」
「何でもないよ。それより、何? 仙道のことだろ?」
「まぁな…。実は、そうなんだよ」
 相変わらず楽しそうに仙道の事をノロける牧の話が、流石に今日は耳に入ってこない。
 いつもの藤真とは少し様子が違う事に、ようやく気がついて、
「やっぱりおかしい。どうした?」
「別に何も…」
「別にって顔じゃなさそうだ。お前、もしかして振られたのか?」
 蹴りの一発でもお見舞いされそうなセリフを吐いても、藤真からは何のリアクションもない。。
「何かあったろ?」
「何にもないって。それに言っとくけど、付き合ってもないんだから、振られる訳ないだろ」
 何だか、自分で言った言葉なのに、ひどく落ち込みそうになってしまう藤真だった。
「花形に他に好きなヤツでもできたのか?」
「う…ん、そうなのかなぁ…」
「自分の気持ちは何にも伝えてないんだろ?」
 まったくもって図星である。悔しいけれど、反論の余地がない。
「…」
「充分引きずってきたんだから、ここらで一度ちゃんと言ってみろ」
「そうなんだけどさ…」
「当たって砕けてみるのも、良いかもしれないぜ」
 人事だと思って言いたい事を言う牧に面白くない気持ちがないこともないけれど、どうにもこうにも行き詰まっている藤真にとって、少し背中を押してくれているのも事実だった。
「なんとか頑張ってみる。じゃ、これで帰るよ」
「健闘を祈ってるよ」


 牧と別れた藤真は、花形を待たせている校門へと急いだ。

「花形、遅くなってごめん」
「あ…ああ…藤真。もう終わったのか」
 花形は、何か考え事でもしていたのか、藤真が近づいても気づかず、ぼんやりとしていた。声をかけられて、やっと気がつくといった感じだった。
「何かあった?」
「何でもないよ。帰ろうか」


 お互いに言いたい事、聞きたい事、知りたい事があるのに何も言い出せず、もどかしい気持ちを抱えたまま帰路につく藤真と花形だった。

 空には夕立の予感いっぱいの入道雲が広がってきていた。