夏の気まぐれ-1-



 恋の女神だって夏バテしてしまいそうな、そんな夏のある日の事。


 本当は、そんな事言うつもりなんてなかった。
 以前から調子の悪かったエアコンが、たまたま、その日の朝にぶっ壊れてしまっていたから、いつもより不快指数が100%を超えるくらいに高かっただけで。
 マンションで過ごす夏は、エアコンがなければ、そりゃ蒸し風呂状態に近いものがあるんだから、少しくらい機嫌が悪くなっても仕方がないと思ってくれても良いと思うけれど。夏休みの最初って事で、張りきって夏練に突入していて疲れてもいたし、おまけに、二人分の汗でベタベタしてしまった身体が、かなり気持悪かったってこともあったのだから。
 確かに、悪かったと思ってる。本当に思ってるよ。ついつい不機嫌丸出しの声で花形を傷つけてしまったのだから。でも、だからと言って、本気だった訳じゃないのに、そこまで怒るほどのことだったか。
 花形なら、そこのところ判ってくれるものと思っていたけど、甘かったのかな、オレは。
 ただ、どんなに悪かった、申し訳なかったと思っても、相手に届いてくれない事には、どうにもならないって事を思い知らされたよ。

 いつもなら、重なり合っていた熱の余韻をもう少し味わっていたいと思うのだけど、今日はそんな気分にはなれなかった。練習後の疲れた身にはかなり堪えてしまっていて、身体中から悲鳴が聞こえてきそうなくらいに、珍しく、辛い、なんて思ってしまって。
 だから、つい――
「しつこいったら、どけよ。いい加減、うんざりだよ、もう…」
 花形の身体を押し退けるように離しながら、不機嫌を絵に描いたような声でそんな事を言ってしまった。
 そのせいもあったからだろうか、ベッド下に散らかっている服の中から、適当に羽織れるものを探している背中に、やけに冷たい声が聞こえてきた。
「藤真、それは、ないんじゃないか」
「あ?」
 振り向いてみれば、静かに落ち着いた瞳で見つめてくる花形と目が合った。その雰囲気は、いつもの花形とは違っているように見える。
 しかし、生粋の意地っ張りに、蒸し暑さと疲れと身体の痛みと言う状況が、さらに拍車をかけていたようで、自分でも可笑しくなるくらいに素直に謝ることができなかった。だいたい、タイミングが悪すぎるんだ。

 おかげで、いつもの甘い雰囲気は何処へやら。少々ややこしい方向へと話しは進んでいく。

「ベタベタの汗が気持悪くてさ、花形は楽でいいだろうけど、こっちはすっげー痛くってさ。つってもわかんないだろうけどさ。ほんっとにヘタなんだから…」
「ヘ…ヘタって…。悪かったよ、ヘタで。じゃあ聞くけど、それって、藤真なら上手いって事か。それか、誰かと比べてってか?」
「はぁ? 何それ? 誰が誰と誰を比べてるって?」
「藤真がオレを誰かとだよ…」
 カチンときた。花形が誰のことを言っているのか、察しがついたからだ。あまりにもバカバカし過ぎて、頭の中がが沸騰しそうだ。

 もう、止まらない。

「ハッキリ言えよっ。そんな、奥歯にモノの挟まったみたいな言い方、するなよな」
「それじゃ言わせてもらうけど。藤真に負担を強いてるとは思う。それはいつも悪いと思ってるよ。だけど、誰かと比べられるのは本意じゃない。オレはオレだから。オレ以外の誰にもなれない。ヘタだろうがなんだろうが、それがオレなんだから仕方ないだろ。そんなに嫌なら、無理に付き合ってくれなくて良いよ、オレは…」
 花形も相当頭に来ているらしく、熱くなってきているのが分かる。いつもより、かなり饒舌になっているのがその証拠だ。
「だから、その誰かって、誰なんだよ」
「――― 牧と比べてるんだろ、藤真は」

 口をポカンと開けたまま、一瞬、目の前が真っ白になり、め…眩暈が―――

 あほらしくて、情けなくて、それ以上に、何とも言い様のない気持ちがせり上がってくる。よりによって、牧ぃ???
 しかし、これだけははっきりと言える。オレは傷ついた。
「何、それ。どう言うことだよ。まさかとは思うけれど、もしかして、ずっと疑ってたのか?」
 花形としては、本当にそう思っていた訳ではなく、たまたま、成り行きで牧の名前を出してしまったただけなのだが、すっかり頭に血が上ってしまっていて、思考回路のどこかでショートでも起こしているのか、すでに自分が何を言っているのか判断ができていない状態になっていた。藤真を傷つけてしまった事も、悲しいかな、気づかないのである。
 普段ならば決してこんな風な言い合いをする二人ではないのに、暑さと疲れで頭が少しイカれてしまっていて、お互いに堪えが効かず、売り言葉に買い言葉の応酬をしているうちに、すっかり引くに引けないところまできてしまっていた。

「比べられたんじゃ、立場がないね」
「そんなこと有り得ないのに、バカか、花形は。信じられないんなら、帰れよっ!!!」
 花形の顔色が変わった。最後の理性の糸が切れたのかもしれない。
「ああ、帰らせてもらうさ」
 そう言うなり花形は、ベッドからさっさと降りてしまい、脱ぎ散らかした服を拾い集め始めた。
 その様子を最後まで大人しく見届けているのもムカツクので、藤真は花形には目もくれず、シャワーを浴びるために、さっさと風呂場へ向かっていった。

 頭にきているこんな時は、冷たい水をいっぱいにかぶるに限る。熱くなった頭も身体も冷やしてしまうのが一番良い。
 コックを捻り、勢い良く出てくる冷たい水に、カッカしている身体を晒し、ムシャクシャついでに、スポンジにボディーソープをたっぷりつけて、ごしごしと洗い始める。首筋から腕を、最後は、足の指先まで、それはそれは丁寧に洗っていく。

 泡まみれになった全身をシャワーで洗い流し終え、ようやく落ち着きを取り戻した藤真は、バスタオルで髪を拭きながら、居間まで戻ってきた。
 静まり返っている寝室に目を向けるが、人の気配はない。
 あんな後だから、すでに花形はいないだろう。それでも、わずかな希望と一抹の不安を抱えながら寝室を覗きこむが、誰もいない部屋は、やけに広く感じられ、自然とため息が零れる。
 ベッドの上を見ると、二人分の汗で汚れてしまったシーツが丸く纏められて置かれている。あんな状態であっても、最後の片付けだけはきちんとやっていった花形に、苦笑いが浮かんでくる。
 彼は、自分がいない間、どんな気持でシーツをぐるぐる巻きに纏めていたのだろうか。今ごろは、陽が傾き始めているとはいえ、まだまだ炎天下並に暑いはず。その中を、どんな気持で帰って行ってるのだろうか。
 お互いが、恋愛事には全くの初めてで、そのために慣れないが故の辛さも確かに無かった訳ではないけれど、でも、その事を嫌だと思った事は一度だってなかったし、あんな風に思った事もないのだ。ただただ、今日に限って虫の居所が悪かっただけで。

 ベッドの端に腰をかけて、ふぅっと天井を見上げた時、足元に何かがあるのに気が付いた。見れば、エアコンのコントローラーだ。
 元はと言えば、エアコンが壊れていた事が原因で、花形と喧嘩をしてしまったようなものだ。そう思うと、直接の関係はないはずなのに、コントローラーに八つ当たりしたくなってしまう藤真であった。
 手にとって、これ以上壊れてしまわないようにバシバシと叩いていると、何かの拍子にピピッと音がしたかと思うと、壊れていたはずのエアコンが作動し始めるではないか。
 なんだ…、ただの接触不良だったのか…。このやろう、まったく…
 もう、何だか怒る気力も失せてしまった藤真は、そのままベッドに横になった。
 花形に電話でもかければ良いのだろうけれど、まだ、家には着いてはいないだろう。もう少し時間が経たなければ電話も掛けられないと思うと、段々と億劫にもなってくる。

 さてと、明日はどんな顔をして花形に会えば良いかなぁ…





「まいったなぁ…」とぽそっと呟いてはため息をつき、その合間に、から揚げを一つ抓んで口の中へ放りこむ。咀嚼は簡単にすませて、さくさくと飲みこんでいく。

 藤真と喧嘩をしてきた花形は、普段ならば楽しいはずの家族との夕食も、ひとりだけ箸がすすまない。
 そんな兄が気になって仕方がない弟と妹は、兄の皿に残っているから揚げを少しづつつまみ食いをしながら、兄の反応を覗っている。
 親は呑気な方で、こう暑ければ食欲のない日もあるだろうと、長男にあまり構わないでいる方なのであるが…。

「ごちそうさまでした」
 そう言ってさっさと自分の部屋へ引っ込んでしまった花形が残していった皿を見て、流石に親も気になったのか、
「お兄ちゃん、どうしちゃったのかしら、こんなに食べ残して。珍しいわね。部活で何かあったのかしら?」
「さぁ。あ、でも、帰って来てからずっとあんな調子だったから、何かあったのかもね」
「俺が思うのには、藤真さんと喧嘩でもしたんじゃない?」
「まさか、透兄ちゃんが喧嘩するところなんて想像できないよ〜。まして、藤真さんと?」
「たまには、喧嘩くらいするだろ。兄さん、副だからさ、意見の衝突とか…」
「だけどさ、今まであんなに落ち込んで帰って来た事なんてなかったじゃない? 初めてだもんね」
「じゃあ、別口で、何か他の事が原因なのかな」
「兄ちゃん、それじゃ、何にもわからないよ」
「お前達、静かに食事しなさいっ」
「は〜い」



 家族に余計な心配を掛けている事など全く思いも寄らない花形は、一人きりの部屋の中、ベッドに横になって、天井を見つめていた。
「オレって、どうしようもないバカヤローだよなぁ」 
 藤真からの「帰れ」の言葉ですっかりキレてしまい、そのまま帰ってきた花形だったが、時間が経つにつれ、頭が冷えてくる変わりに、後悔が怒涛のように押し寄せてきてしまい、奈落の底へと落ち込み真っ最中だった。

 確かに、藤真の部屋は、文句のつけようがないくらいに暑かった。
 エアコンが壊れているからと扇風機を持ち出してきてくれたけれど、これが、また、さっぱり役に立っていないばかりか、返って暑さを盛り上げてさえいたような有様の中で、どちらも疲れていたせいもあり、理性やら我慢やらのネジが緩んでいたか外れていたかのどちらかで、どうにもならなかったのだろう。
 だからと言って、あんな事で―――今にして思えば、実にくだらない理由で―――藤真に対して怒りを向けてしまうなんて、自分の浅はかさを呪ってしまう。
 今更かもしれないが、藤真は、あの言葉を発した時、酷く傷ついた目をしていた。それはそうだろうと思う、ずっと疑っていましたと言ったも同じなのだから。

「ほんとに、オレって…。なんでまた、あんな事を言ってしまったんだろう。思ってもない事を…」

 思ってもいなかったこと……。
 本当に、本当にそうなのだろうか。自分は本当に藤真を心底信じていたのだろうか? ほんの少しでも、心の何処かで疑う気持があったのではないか。だから、ああ言う状況で、ポロと口にしてしまったんじゃないだろうか。
 どう考えても、藤真は牧とは何もなかったはずだ。そんな事、自分が一番よく判っているはずなのに。それなのに、信じていると言いながら、裏では疑う気持があったなんて。
 なんだか、そんな自分が、すごく嫌になりそうだ。
 県代表などで知り合う機会が多かった二人なのだから、学校を超えた付き合いがある事も承知していたはずだ。藤真と付き合う前は、少しは嫉妬心でやりきれない気持にもなった事はあったけれど、今は、何のわだかまりもないはずである。
 けれど、自分では気づかないだけで、今でも、嫉妬しているんだろうか。それが、疑うなんて事にまでなってしまったのだろうか。

 花形は、どうにも判らなくなってきていた。些細な事を気にしすぎているようにも思えるし、酷く大切な事を見落としてもいるようにも思える。
 それ以上に気になるのは、藤真の事だ。多分、風呂場にでも行ってしまっていただろう藤真に、声をかけることもせずに帰ってきてしまったのだ。
 明日も練習があるというのに、どんな顔をして会えば良いというのだろうか。


 まずは、謝るしかないだろうな。聞いてくれるかどうかは判らないけれど…。