言の葉 -1-

 一人分の食器を小さくまとめ、シンクの中におく。水を出して、手のひらでさっと濯いでから洗剤で洗い始める。
 かちゃかちゃと食器の重なる音は切なさを感じさせる。耳が拾う小さな音は、キッチンに立つ自分に独りきりの寂しさをまとわりつかせているように思えて仕方がない。
――― なんなんだ、もう…
 そうじゃないだろうと花形は考える。
 もう、こんなことは珍しくもなんともない。慣れているはずだ。そう、独りには慣れている。
 洗い終えた食器を籠に移しながら、キッチンとそれに続く居間とを見渡した。
 4人掛けのテーブルがあって、その向こうにセンターラグが敷かれている。奥には小さなテレビが置いてあって、暮らし始めた頃には、二人揃ってよく見ていたものだ。あの頃は楽しかった。笑ってもいた。今は、ひっそりと佇んでいるようにしかみえない。
 朝は早くに出かけ、夜はバイトで遅くなる。帰ってからも自室に篭ってばかりで、テレビなんて、どれらい見ていないだろう。
 まあ、良い。それも今更だ。
 視線をシンクに落とし、布巾を洗って。これで今夜のキッチンでの仕事は終わる。
 冷蔵庫の中のものを確かめて、明日の朝ごはんの支度を考えてしまうと、次は洗面所の明かりをつけて一通り見渡す。乾燥機つき洗濯機はこんな生活を送っている自分達にはとても便利で、スイッチひとつで朝までほったらかし。さあ、後は僅かな時間を潰して眠るだけだ。
 藤真の部屋の前を通って―――今夜も出かけているのか、気配がない―――自室のドアを開けて中に滑り込む。


 今夜はすぐにやらなければいけないような勉強はない。卒論のテーマも大体は決めてあるから、まだ取り掛かる必要もない。だから、何もないこんな夜はいつも日記をつけることにしている。これと言って特別に書きたいことがある訳じゃないけれど、それでも時間つぶしで始めた日記を途中で止めてしまうような性格ではなかったから、案外続いている。
 ペンを持ち。
 ふと思い立ち、ぱらぱらと捲って半年ほど前のものを読み返してみる。

『桜―藤真―まだ帰ってこない』

 また捲ってみると、やはり同じことを書いている。違うのは季節だけで、そこには雪と書いている。
 自嘲的な笑みを浮かべ少し癖のある自分の字に指を這わせ、あの頃の心のうちを思い出してみる。何を思っていただろうか。揺れていなかったか。寂しいとか、寒いとか。独りきりだとか、そんな事を考えてはいなかったろうか。ざわざわと粟立って落ち着かない夜を過ごしていなかったか。藤真は一人でいるのか、誰かと一緒なのか、そんな事を思いながら過ごした夜。ともすれば震えてしまいそうになる身体を保つため、妙に肩に力が入りすぎて拳をつくってしまったり。、ふぅ〜と息を吐いては天井を見上げるなんて事をよくしていた様に思う。
 今はどうだろう。とても静かな気持ちでいられる事が不思議に思えるほど、落ち着いている。肩にも力が入っていない。

――― 多分…慣れたんだろうな…


 藤真の外泊が多くなっていったのは、半年くらい前からだ。
 まだ時折雪もちらつく頃に、帰ってこない想い人を待って、まんじりともせずに朝まで起きていたっけ。それまでは、どんなに遅くなっても、極端なことを言えば夜明けまでには帰ってきていたのに。やっと帰ってきたかと思えば、大学へ行く支度をしている自分とちらっと視線を合わせただけで、すぐに部屋に入っていってしまって。結局は何も聞くことができなかった。
 何も聞けない。問いただすことさえしない。小さな疑問や心配が少しづつ積み重なって、だんだん大きくなっていっているはずなのに、何も声をかけることをしない。会話と言えばありきたりな日常のものだけで。
 珍しいことじゃない。藤真と関係を持つようになって、プライベートの時間を共有するようになってから、それはずっと続いていることなのだ。
 まだ翔陽に居た頃、バスケ部の主将と副主将の立場では、それこそいろいろな話をしていた。そうして築かれた二人の間に存在する信頼という、まるで空気のように当たり前のものになっていったものに、どこか支配されていて何もできなくなっているような気がする。
 他にも理由を挙げるとすれば、それは自身の性格もあると思う。黙って見守り、待つ事だけしかしてこなかった。
 プライドがそうさせるのかは判らない。ただ、自分が何かを言うことで、二人の関係が壊れてしまうのが怖かった。大切に思っている。大事にしたい。真実、そう思っているからこそ、外泊が増えていく藤真に、誰かと会っているような素振りを隠そうとしなくなっていく藤真に、何も言えないのだ。

――― 惚れた弱みって、こんなものなのかな…

 よく判らない。どうしたらいいのか、どうすればよかったのか。この関係が、このままずっと続いていくのかも。
 そっと目を閉じる。一人きりの部屋の中に時計の針の動く音だけが響いている。心の底の奥深くには、その音だけが届いている。
 ふと気が付くと、雨の音が聞こえてきた。
 天気予報では夜半から雨だと言っていた。藤真は。
「傘…持ってるのかな…」
 心配し始めてざわつきだした心の中のものを、静かに静かに落ち着かせる。そうして、何も感じない奥底へと終いこむ。





 何か音がする。
 窓を開けてみると、雨が降っていた。
「なんだ、雨か…」
 シャツに腕を通していた時だった。今日くらいは家に帰ろうかと思っていたのに、何だか気がそがれた感じだ。
 爪を噛んでいると、ドアが開いて、
「ああ、もう帰るのか」
 片腕にシャツを通しただけの姿で振り向いて、シャワーを浴びできた牧に向き、
「雨降ってる。なんか、帰る気なくなった」
「おまえらしいな。ま、どっちでも良いがな」
「ふん…」
「俺は明日が早いからもう寝る。お前は好きにしたら良い」
 そう言ってローブを脱いでベッドにさっさと横になった牧を見た後また窓に向き直り、帰ろうかどうしようか。
 どうしたものだろうか。けれど。
「ばからし」
 ベッド脇のライトの明りを落として、牧の寝ている横へ背中を向けて寝ることにした。明日の朝、始発で帰ればいい。
 
 どれくらいの時間が過ぎたろうか。隣からは規則正しい寝息と、外からは細かな雨音だけが聞こえている。
 そっと目を開けて、目の前で手を広げ、一本づつの指を閉じていく。ぎゅっと握り締めて、また開いて。
 花形はもう寝付いているだろうか。連絡もなしに外泊をして、起きて心配してくれているだろうか。
――― まさか、な…
 今夜のように連絡を入れずに外泊するなんて、この頃では珍しくもなんともない事だ。なぜなら、花形は一度だってその事で自分を責めたことがないからだ。
 何も言わない。何をしてきたのか聞こうともせずに、ただ普通の顔をして、ご飯は食べたのか、何か作ろうか。なんて、そんな事しか言ってこない。心の内に苦いものが込み上がるのを我慢できずに、そっぽを向いて、そんな花形に何も返事すらせずに部屋に篭ってしまう。そんな事ばかりを、最近は繰り返している。

 罪悪感は、もうずっと前から心の内を支配している。良心がちくちくと痛む事だってあるのに、それらに押し潰されないで今こうしていられるのは、多分慣れたのだろうと思う。
 花形の想いに気づき、自分にも同じ想いがあることを理解した頃には、すでに牧とは身体の関係になっていた。バスケでは勝てない自分の、唯一コンプレックスを感じないでいられる関係がこれだったから。抱かせてやっているだけ。そのためだけに身体を開いている。それは牧も理解しているはず。なのに、たまに執拗にキスをねだられる。ほんとうに身体だけの関係しか持たないと一線を引いていたから、どんなに求められても応えた事はない。牧とはキスは絶対にしない。
 身体は開いているくせに唇には触れさせない。それは、特別な意味を持つものだからだ。
 あの日。
 まだ翔陽の三年の秋。部室だった。窓から差し込む夕焼けが、やけに目に焼きついている。その部室の中で、二人きりの時花形の想いを知らされた。
 頬に当てられた手のひらが、大きくて優しかった。メガネの奥の瞳は穏やかで、汚れてしまっている自身を見透かされたくなくて思わず目を閉じた。
 その時そっと唇に触れてくるものがあって。すぐに離れていったそれを確かめたくて目を開けると、首を傾げて小さく微笑む口元が見えた。そうして瞳は切ないほどに穏やかな光を湛えていた。
 身体が触れられると感じる本能的な芯が痺れるようなものではなく、胸のうちに広がる何ともいえない熱いものに、気が付いたら涙していた。
『ずっと側にいる』
『離れるなよ』
 短い言葉のやり取りだったけれど、それだけで充分な程に心は満たされていた。

 互いに真摯な気持ちでいた頃もあったというのに、今はどうだ。
 ふたりして見たくないものに蓋をして、当たり障りのない会話だけしかしなくなった。言ってほしいことがあるのに何も言ってくれない花形に居た堪れなくて、身体を熱くしてくれる関係に逃げている。心はいつも冷えたままだ。
 いつから、どこからこんな風になったしまったのか。

 花形…ずっと好きなのに…



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