言の葉 -2-

 ソファーベッドの上で窮屈な寝返りを打ったところで目が覚めた。
 窓を見ればカーテンの透き間から陽が差し込んでいる。昨夜降っていた雨は、とうに止んでいることを教えてくれている。
 朝が来たのか。
 どんよりと重い頭を起こして、ベッドに座った。ここのところ寝起きはずっとこんな感じだ。
 夢は見ないのに、すっきりとした目覚めではない。こめかみを人差し指で押す。頭痛も少しある。頭の中の奥の方に鉛の塊でもあるかのようだ。
 枕の下からメガネを取ってかける。何度が瞬きをして立ち上がるが、身体全体もすっきりしない。
 カーテンをあけてみると、朝陽が眩しかった。目を眇めて雲ひとつない空を見上げると、心の中がすうーとしてくる。
 そうして不思議なのは、晴れた空が白いということだ。どうしてあんな色をしているのだろうか。他の色じゃなかったか。
 ここまで考えて、止めた。馬鹿げている、空の色なんて。

 朝食を作ろうと部屋を出てキッチンに向かった時、玄関の扉が開いた。
 花形は顔をだして藤真を確認すると、小さな笑みを作った。俯いてスニーカーを脱いでいた藤真には見えなかったろうけれど。顔を上げて目がやっと合った時には消えている。そうしている意識はないのに、藤真に向かい合うといつもの無表情なだけの顔になる。それが苛立たせる原因だと判っていても、どうしようもない。
「何だよ」
 玄関マットを踏みながら中へ入りながら、気分が悪いとでも言いた気な声音で聞いてくる。
「朝御飯どうする? いるなら今から作るから一緒につく…」
「寝る」
「ああ、判ったよ、おやすみ…」
 そのまま花形の目の前を通りすぎて、藤真は自室へと入っていった。その背中に向かって、
「食べたら、大学行くから」
 振り向くことも返事すらもせずに背中はドアの向こう側に消えていった。閉じられたドアは花形にはまるで壁のように感じられるほど堅く重々しいものに見えた。
 キッチンに戻る。冷蔵庫から卵とハムを出して手早く作り始める。
 思うまい。何も考えるまい。ふつふつと沸いてくる得体の知れない感情には目を瞑れ。逸らせ。海の底へでも沈めてしまえ。
 唇が乾いてつい舐めてしまう。最近の癖だ。
 フライパンの中で卵とハムが絡まっていくのを見ながら、もうあまりちくちくと痛まなくなってきた心の内にほっとする。

――― 良いんだ、これで…

 まだ朝だというのに、やけに流れる額の汗を手の甲で拭う。
 そこにどんな意味があったとしても、知りたくもない。



 閉めたドアに凭れて、向こう側から聞こえてくる音に耳をそばだてる。
 何をしていたのか、何故帰ってこなかったのか、夕べはどこに泊まったのか。いつだって花形は何も言ってこない。問いただす事は決してしてこないのだ。判りきった事を一言言うだけで責めることもしない。言いたいこともあるだろうに言わない。だからだろうか、こんなにも胸が痛むのは。痛くて痛くて堪らない。ひと時の快楽に逃げているのは自身の意思なのだけれど。
 花形の笑った顔も声も、もう長いこと聞いていない気がする。
 満たされない自身に気が付いたのは、あれはいつの頃だったろう。やはり今朝のように連絡を入れずに外泊をして帰ってきたときだ。そう、あの時。
 何も言われたくなくて、本当に好きな相手をほおっておいて他の誰かに抱かれてきた事で、多分無意識に逃げることを選んだ。それなのに何故か、ろくに花形の顔も見ずにシャワーのために風呂場に駆け込んだ自分に着替えを置いてくれた彼に、逃げたのに見せ付けたくて扉を開けてバスタオルを取ったと同時に背中を向け見せた。情事の痕が無数につけられているはずの背中を。
 責められたくないくせに何かを言ってほしい。裏切るようなことをしているのに、変わらずに想っていてくれていると信じたい。何をしていても、どんな事をしても嫌われていないことを確認したかったのだろうと思う。
 けれど、花形の口からは何も発せられなかった。無言で洗面所を後にした彼の後姿を振り向いて見た時、心の中で何かが折れた気がした。

 玄関のドアの閉まる音で気づく。花形が出かけたのだ。
 ドアを開けて、一人きりになった居間やキッチンに出てみる。キッチンのテーブルには布巾をかけられているものがあって。とって見ると朝御飯の用意がしてあった。側には紙切れがあり、花形の彼らしい癖のある字で、
『朝御飯は食べたほうが良いから』
 唇をかみ締める。
 なんて心が痛いんだろう。
 去年の暮れ辺りくらいから、二人の間には目に見えない壁のようなものができている。最初は低かったのに。手を伸ばせばまだ花形に届いたはずだったのに。手を伸ばさずにそのままにしていたら、壁はどんどん高くなっていって。今では、どんなに近くに居ても手も伸ばせない。感じたい温もりがそこにあるのに、なんて遠いのか。
 心が触れ合わなくなって、もうどれくらいだろう。
 互いに自身の身の内を傷つけながら、相手も傷つけている。どんなに血が流れても、なおも傷つけあっている。そんな感じがする。

 居た堪れなくなって、気が付けば受話器を取っていた。
 指先が少し震えていたって気になんかするもんか。
 数コールして聞こえてきた声に、
「あ、今日、時間空いたらこっちに来いよ。絶対な。牧、待ってるから」

 心はどこにいこうとしているのだろう…。
 






 花形は腕時計を確かめて、もう少しで午前の講義の終わりを確認した。
 小さなため息をつく。
 講師が講義の終わりを告げて、ようやく解放された安堵感で背もたれに深く腰をかけなおした。と、その時。
「よっ、花形」
 後ろから肩を叩かれて、振り向くと午前の講義に遅れてきていたらしい村上が何やら含み笑いをしている。
「何、村上。用があるんなら、飯でも食いながらにしてくれ。腹ペコなんだよ」
「うんうん、良いんだよ花形。それより頼みがあってさ」
 村上は、受ける講義がいつも一緒で、いつの間にか食事や飲みに出かけたりするくらいに仲良くなった友達の一人だ。
「何だよ頼みって。恐いな」
「それがさあ、今日合コンがあるんだけどさ、男がひとりドタキャンで足りなくなって。頼む花形。合コンは好きじゃないってしってるけど、誰もいなくて。数あわせだけなんだけど、何とか出てくれないかな」
 早口で目の前で手を合わせながら頼む村上の子供っぽさに、ここのところ気分が晴れないことが多かったからなのか、気が付いたら頭を縦に振っていた。
「サンキュサンキュ、花形。持つべきものは、やっぱし友だよな」
「良いよそんな事。それより時間は?」
「うん、六時から。駅前の居酒屋でまず飲んで。それからうまくいけばカラオケかな」
「了解、それまで時間潰しとくよ」
「ほんとにサンキュな。ほんじゃ後で」

 軽く手を振って離れていく村上に花形も手を振ってやった。
 さて、これからどうやって時間を潰そう。夕方の六時からと言うのは、今の花形にはバイトの事を考えると中途半端になる。仕方なく学内のカフェの入り口にある公衆電話までやってきて、バイト先に電話を入れた。
『あ、すいません花形です。今日のバイトですが、これから行きますので夕方で帰らせてもらって良いですか? はい、はい、無理言ってすいません』
 受話器を置いて、藤真にも連絡をと考えたが、止めた。それよりも、さっさと昼飯を食べるべく学内食堂へ向かう。
 足取りは重いのか軽いのか判らない。ただ、ただ―――。
 なんだろうなこの感じ。
 どうせ家に帰っても藤真が帰ってきている保障はない。また、あの真っ暗な部屋に自分で電気のスイッチを点けなければならないのかと思うと、帰りたくない気持ちが頭を擡げてきたのだ。もう嫌だ、と思った。いい加減にしてくれとも。ぐぅうっと握り拳を胸の前で震わせながら耐えるのは、今日はできない。
 一緒に暮らし始めてから、藤真から連絡をして来ないのはもう当たり前のようになっていても、自分がしないのは初めてのことになる。ちくりと痛みのようなものを感じるが、どうでもよかった。
 目の前に楽しめそうなものがあるのだから。それを手に取ったとしても、誰に咎められるわけではないはずだ。
――― 藤真だって、そうだろ…




「花形さんは背が高いですね。何かスポーツされていたんですか」
「うん、高校の時にバスケ部だった。今はやってないけど。だから無駄に背が高いだけだよ、今は」
「そんな事ないのに…」
 ショートカットの髪が揺れて、小気味良い笑い声がした。

 合コンは男4人に女4人の8人で、良い酒だったこともあって、久しぶりに花形は笑えた。
 この良い雰囲気のままに次はカラオケに行こうと言い出された時には、やはり苦手意識もあって辞退させてもらった。その時、女性のうちの一人がやはりこれで帰るというので、必然的に花形が送る事になってしまったのだ。
 駅までで良いと言われ、風に当たりながらふたり並んで歩く。時折話しかけてくる言葉には女性特有の優しさが含まれていて、それは嫌ではなかった。
 田村と言うその人は、初めて会った人なのに、花形との距離の取り方がとても心地よくて、また屈託なくよく笑う人でもあったので、久しぶりに和やかな気持ちになれた。

「田村…さんださっけ。何かしてるの、スポーツとか」
「私は何もしてませんね。たまにサークルに参加させてもらって、バドミントンするくらいかな。運動音痴なんです」
「そんな風には見えないけど…」
「どうもです」
 笑みを湛えたまま頭をちょっと下げる彼女の髪がまた揺れて。つい見とれてしまう。思い出してしまう。
――― 藤真の髪も、こんな風に揺れてたっけ…
 思わずぶるっと震えてしまった。胸がチクと痛む。
 何故痛くなるのだろう。藤真を少し思い出しただけじゃないか。何でもないことなのに。
 頭を振って浮かぶ面影を払った。

「どうかされました?」
「ああ、いや、ちょっと飲みすぎたかなと思って…」
「花形さんは、お酒には強いように見えましたけど、そんな風でもないみたいですね」
「ほら、今日は楽しかったから、ついね」
「判ります。――― あ、私、ここから地下鉄に乗りますので、ここで良いです」
「家まで送れないけど、大丈夫かなぁ」
「任せてください。駅に着いたらタクシーにお世話になりますから」
 笑みを浮かべる彼女に、つられて口元が綻んでしまった。
「あの……」
「何?」
「花形さんの連絡先、教えてもらっても良いですか?」
 遠慮気味に話す彼女の目を見つめ、どうしたものかと考えた。
 電話番号くらいなら何でもないのではないか。後ろめたいことは何もないのだから。躊躇する必要もないだろう。
「良いよ」
 鞄からメモを取り出して電話番号を書き、田村に渡した。
 ただ、彼女のその先に見え隠れする気持ちには気が付かない振りをした。

 手を振って別れ、花形は駅までの道を急いだ。終電には何とか間に合いそうだ。
 急いで帰ろう。藤真が帰っていても帰っていなかったとしても。自分の家に帰ろう。帰ったらシャワーをまず浴びて、それからいつものように日記を書こう。ずっと、心晴れることのなかった毎日を過ごしていたけれど、今日は少しだけ楽しかったと。
 夜空を見上げると星がよく見えた。明日も晴れそうだ。

 アパートに帰り着くと明りがついているのが見えた。藤真が居る。なんだかほっとする。
 何かに急かされるように背中を押され、ドアの前に立ち鍵を開ける。
 そうしてドアを開けたとき、玄関には藤真のスニーカーと見知らぬ靴があった。
 


 
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