言の葉 -5-

 人波に押し出されるように改札を出ると、前のほうに花形を見つけた。
 口元が軽く綻んでいるのが判り、それが嬉しい。こんな距離なのにメガネの奥の瞳の柔らかさが見て取れるようで、そんな事も嬉しい。
 走り出したい気持ちを抑えて殊更にゆっくりと近づいていく。
――― 良いな、こんな感じ…
 人がいるところではしてくれないけれど、両手を広げられて迎えてもらえるような、そんな雰囲気を醸し出している笑みが良い。

「ただいま」
「おかえり、疲れた顔してるね」
「いや、そんな事ないって」
「そか。帰ろうか。ご飯の支度できてるから」

 並んで歩き出すと、花形が今夜はカレーだからとすまなそうに話すのが可笑しくて少しだけ笑ってしまった。手抜きなんだよ、と苦笑いしているから。
 ただ―――。
 そんな小さな事で申し訳ないような顔をするなんて。取るに足らない事じゃないか。
 胸の奥がちくちく痛む。
 自分はもっと酷いことをしてきた。笑って済ませられるようなものでなく、今、隣で歩く彼を失ってしまっても仕方がないほどの事をしてきたのだ。
 何度謝ろうとも済まされることでもないだろうに、花形はあの夜以来、一切その事に触れようとはしてこない。優しく抱きしめて包み込んでくれる温もりが、だから一層辛くにもなってくる。
 こんな気持ち、終わりにしたい。大切だと思うから。心から思うから。

「今日…さ…」
「ん?」
「牧に―――ちゃんと言ってきた。もう会わないって。終わりにするって」
「そか…」
 横を歩いている花形を見上げると、目が合った。くすっと笑う口元に、何だか気が抜けてくる。知らずに気が張り詰めていたのか。肩からも力が抜けていく。
「いいんだよ藤真。俺は、もうおまえをちゃんと信じてるから」
「うん…」
 それから髪をくしゃくしゃとしてくれる大きな手があった。その腕を取り、また見上げると穏やかな瞳に見つめられる。本当に優しい瞳をしている。
 ずっと欲しかった言葉があった。けれど、それ以上に欲しかったものは、言葉にならない言葉だったのかもしれない。
 自分は、もう赦されていると思ってもいいのだろうか。




 夜は一緒に風呂に入って、上がると二人してバスタオルでガシガシ拭きあった。以前はよくやっていたのだ。あの頃を思い出す。
 花形はバスタオルごと頬を包み込んで、額にチュッとキスをくれる。すこしだけくすぐったのは、多分照れているんだよね。
 手を繋いだままでベッドまでくるなんて、初めてじゃないだろうか。それから。
 火照った身体をシーツの上に横たえると、冷たさに少しだけ震えた。それを感じ取って、そっと自分の上に重なってきた花形の大きな手が頬を撫でてくれる。
「あったかいね。俺よりずっと暖かい。なんで?」
「心が冷たいからだろ。ほら、よく言うだろ。心が温かいと手が冷たいって。その反対だよ」
 くすりと笑って、冗談なのかそうでないのか判らないような笑みを浮かべているのは、どう思っているからなのか。
「花形が冷たいなんて、あるわけない」
「そう言ってもらえると嬉しい」
 ちゅっと触れるだけの口づけをして、唇が離れていく。
 もどかしいなんて、口が裂けても言えないから、明るい部屋の居心地の悪さを訴えてみる。
「あのさ、電気…消して欲しい」
 髪を梳かれて、心地よさにうっとりしていると、
「今日はね、今日は…藤真を見ていたいから、このままでしたい…」
「花形…」
 メガネをかけていない花形はの瞳は真摯で、だから、明りの下ですべてを見られてしまうことへの羞恥心も耐えられるかもしれない。
 唇をかみ締めていると、
「そんなに紅くなるなよ」
「ばか…恥ずかしくて死にそうなのに」
「今更だろ。藤真も俺のすべてを知ってるじゃないか」
「…そうだけどさ」
 その瞳を見つめながら、これ以上は話なんてしていられない。逃げ出したくなってしまう前に花形の背に腕を回して抱きついた。

 頬にキスをされて、それだけでは足りなくて、唇を求めて口づけしていく。
 少しかさついている唇に、いつもの花形だと感じられて、ただ触れているだけなのに身体が震えた。
 花形が唇を離したのでそっと目を開けてみると、少し驚いている瞳と、すぐに意地悪く笑う顔が見えて。とたんにカァッと顔が熱くなって、苦し紛れに腕を振り上げたけれど、簡単に捕まってしまう。
 花形の前では、なんて無力になってしまうのだろう。

「花形…花形…」
 囁きながら、また唇を求めた。応えてくれる様に、強く押し当てられて、唇を舌先でなぞられる。舌を招きいれたくて舌先でツンツンとつつくとゆっくりと滑り込んでくる。殊更にゆっくりと絡みつかれて吸われると、頭の芯が痺れてくる。尚も強く吸われると、頭の中が花形でいっぱいになってくる。キスだけで達きそうになってしまう。
 どうしてこんなに好きなのに、この手に縋らずに他を求めることができたのだろう。
 確かに愛されていると言う見える形での様なものがほしかった。
 何をしても愛想はつかれない、それだけ愛されていると言う確証がほしかった。
 自分が想うと同じくらいに想っていて欲しかった。
 そのつもりはなかったけれど、辛い想いをさせて、深く思いつめるまで追い詰めてしまって。
 すべては花形恋しさでの気持ちから出たことだったのだ。
 ただ、ひたすらに大きな手が好き。唇が好き。見つめてくれる瞳が好き。すべてが恋しくて好き。
 ああ、この気持ちをどうやって伝えたらいいのだろう。恋しさに焦がれて焼きつきそうな胸のうちを。

――― 花形…花形…

 キスをしながら背中に回した腕に力を込めた。この想いが伝わるように。少しでも後悔の気持ちが伝わってくれますように。

 唇が離れて、瞼にキスをされて、頬にもまた唇にも軽くキスをされる。
 頭を抱いている花形の手が髪を梳きながら、静かにぽつぽつ話し出した。
「ねぇ藤真、初めてキスした時のこと覚えてる?」
「え…」
「部室、だったよね」
「うん…」
「俺が告白したんだ、ずっと好きだったって」
「うん…嬉しかった…」
「嬉しかったのは俺もだよ。藤真の側にいて、色んな事を思ったりした時もあったけれど、良かったなって思えた」
「……」
「あのさ、変わっていくだろ俺達も、年齢とかさ。あの頃のままじゃなくなってくるけれど、変わらないものもきっとあって、忘れないでいられたらずっと一緒にいられる」
「花形…」
「うまく言えないけど、何ていうか……」
 額と額をくっつけて、何かを考えている。必死に。伝わってくるから、それが嬉しい。
「俺は藤真が好きだ。それだけは変わらない」
「信じる…。俺も花形が…」
 好きと言いたかったのに、後の言葉は花形の唇に塞がれて声にはならなかった。

 互いに裸のままで抱きしめあって、言葉ににすればそれはとても陳腐なものにしかならない想いを、伝え合った。





 
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