残像-1-



 視界の端にふと捉えた色に、考えるより先に声が出ていた。
「ふじ…」
 しかし、振り向いた先にいた飴色の髪の人は瞬間に浮かんだその人ではなかった。

「あ…すいませんでした…」
 軽く頭を下げ、見ればカウンターの上には咥えかけていたいた煙草が落ちていた。
 摘もうとする指先が微かに震え、胸の鼓動もやけに騒がしい。
 口元に浮かぶのは苦い笑い。
 身体の反応は思考よりもずいぶん素直だと思った。

 記憶を手繰り寄せれば、そこにあるのは淡い想い。初恋と言えるものだったのかもしれない。
 信頼しあえる仲間だったはずの気持ちの変化に気付いた時にはもうすでに遅く。想いは驚くほどに強く。
 様々なしがらみや重荷の中にいた藤真が、時折自分だけにみせる無邪気な笑顔を失いたくなくて。だから、心の奥深くに仕舞い込んで理性で閉じ込めた。
 気付かないふりをして。そうしていけば何時かそんな想いに慣れて、きっと何も感じないで済む時が来ると。ひたすらに無視し続けた。
 最後の日に藤真の想いを聞かされても、一度葬ってしまった想いをまた引き出してきて通わせることはできなかった。
 10代の幼い考えは、今になってみれば何て不器用だったのかを思い知る。

「花形が好きだ」

 真っ直ぐで真摯な藤真の意志を持った瞳も心も。嘘偽りのない想いが、だからすっと心に届いた。
 ただ、届いたとしても藤真の気持ちを受け入れるには、オレは自身が思っている以上に臆病だったのかもしれない。
 藤真は凛とした硬質な美しさをその身に湛えていた。
 同じ想いでいる事が判ったとしても、その手を取ってしまえばオレはきっと壊してしまう。藤真を穢してしまう。
 抱きしめてしまいたい両手に力を込めて、想いを封じ込めた眼差しは、多分に藤真には冷たく見えただろうと思う。

「くだらないな」

 それでも怯まずにお前が好きだと、瞳は語っていた。
 卒業式後の部室は、季節外れの雪のせいで酷く冷えていた。藤真の手も指先もきっと冷たかっただろうに。
 あの時抱きしめていたら。互いの体温で温め合えていたなら。二人はどんな時間を過ごしていっただろうか。


 もう何年会っていない?
 10年だ。
 翔陽を卒業してから、一度も藤真と会わずに過ごしてきた10年という時間。
 時が過ぎ、いつか藤真への想いが仲間としてだけのものになってくれればと願い過ごしてきた時間の中で判った事は、結局は抗う事など始めからできないという事だった。
 いつだって、どんな時でも、どんなささやかな事にでも。たとえば、視界の端に捉えた色にさえ反応してしまう。
 反応した後に瞼に浮かぶそれは、鮮やかな色を湛えながらオレを飲み込んでいく。どうしようもない後悔と切ない痛みを伴って。
 囚われていたのは。今でも囚われているのは、藤真ではなくオレ自身なのだ。

 煙草に火をつけて、肺を煙でいっぱいにする。
 吐き出されていく紫煙をぼんやり眺めて、目を閉じる。


 会いたい
 藤真に会いたい
 声が聞きたい
 もう一度
 あの声で名前を呼ばれたい


「オレは…救いようがないな…」
 自嘲気味に吐き出された言葉に、苦い笑いしか浮かばない。
「藤真…どうしているだろ…」



 その夜、一通の封筒が届いていた。藤真からだった。
 中には手紙ではなくチケットが一枚入っているだけだった。
 関東実業団リーグ戦の、初戦のチケット。

――― オレに会いに来いというのか…

 10年前、オレから止めた時間を動かせというのか。




 それから数日後、関東実業団リーグは開幕を迎えた。


 藤真はウォーミングアップの為にコートに出ていく。
 ボールをバウンドさせながら小走りになり、そうしていつもシーズンの最初に必ずするようになったスリーポイント・シュートを打つ。
 ボールは綺麗な弧を描きながらゴールポストに吸いこまれていく。
 良い感じだ。手の感触も悪くない。
「今年もいけそうだな…」
 自分に言い聞かせるようにぽつりと囁いた。

「おーい、藤真。ボーとしてないで、ボール回すぞ」
「はいっ!」
 チームメイトの声に促されて走り出す。

――― 今年はどんなシーズンになるのだろう…




「藤真は初戦に彼女でも呼んだのか?」
「はい?」
 バスケ部の寮で遅い晩御飯を食べながら、隣の一年先輩の村上が聞いてきた。
 飲みかけていた味噌汁の椀を持ったまま、
「どうしてですか?」
「いやさ、藤真はじめてだろ、リーグ戦の初戦のチケット頼んだの?」
「あ、あれは…。でも、なんで知ってるんです?」
 向かいの席で食べていたやはり一年先輩の斎藤も箸を止めて、総務からの風の便りでと言って。
「珍しいってゆうかさ、ほら、初めてだから。みんな、気になってたぜ」
 いつもだったら電話で知らせていたじゃないか、村上は唐揚げを口の中に放り込みついでに言う。
「や…、電話の代わりですよ」
「そうかぁ?」
「チケット手配してもらうって、藤真しないんじゃ?」
「そうだったんですか、藤真さん?」
 隣のテーブルで食べていた後輩の市川がまだ食べかけの食器をのせたトレイを持って、藤真たちのテーブルに移動してくる。
 藤真は内心ため息をついて、

――― みんな、目聡いんだから…こんなことなら、外で買えばよかった…

 しかし、シーズン前は練習が今年はいつもよりも忙しく、なかなか時間が取れなかったのだ。
 だから、社内で購入するしかなく。その際は、遠まわしにではあるが口外しないように一言伝えていたのに。

「で、藤真、どんな彼女なんだ?」
「違います、彼女なんかじゃありません。友達です」
「へへ、きっと綺麗な友達なんだろうなぁ…」
「村上さん…」
「脚はすらっと長く、腰はきゅっと括れた友達なんだろうね」
「斎藤さんも…」
「そうなんですか、藤真さん!」
 この後輩の市川は藤真と同じガードの選手である。
 入社してきてからずっと目をかけている。まだまだレギュラーの座は明け渡しはしないが、自分の後は市川にと思っているのだ。
「市川、おまえ、そんなにワイドショーネタが好きか?」
 藤真が睨む。
 その整った顔立ちは時に冷たい印象を与えてしまうせいか、目を細めて睨む眼差しに後輩はちょっと怖気づいてしまう。
「いえいえ、そんな藤真さん…」
 藤真はため息をついて、
「だからですね、高校の時の友達ですって。同じバスケ部だった奴ですよ」
「な〜んだ、つまらん」
 村上と斎藤は、そう言いながらも藤真の言葉には納得していないようだった。



 藤真は、先日の寮での会話を思い出していた。
 他の選手と時にパスを出したりしながらの軽いアップの合間に。
 彼女なんかではない。
 推薦で大学に進学した後、それなりに遊んだりもしたが、結局はどの人とも長続きしたためしがなかった。
 何時も相手から別れを切り出され。その理由は大抵が同じようなものだった。
『私の事、ちゃんと見てないよね』
 藤真にそのつもりがなくても、相手にはそうらしい。
 だから、いつか遊びも遠のいていき、藤真はバスケをしているか男友達とたまにつるんでいるかくらいしかしなくなっていった。
 それは社会人になってからも同じで、恋愛事に関しては遠いところに自分を置いていた。

 でも、本当は判っている。
 忘れたくて忘れたくて、本当に忘れたくて。けれど、どんなに忘れようとしても忘れられない。
 今でも鮮やかに思い出せるほどに、心の奥に居座っている想い。
 密かな想いは決して表に出すことはなく。あいつは何時だって側にいたから、きっと出す必要がなかったのだ。
 思い返してみれば、進路が違うと聞かされてから焦り始めたのだと思う。

 このまま何も伝えないで終わるのか?
 それで良いのか?
 後悔しないか?

 何度、自分に問いかけただろう。
 このまま心の中で燻らせたままで、伝えないままで終わってしまったら、花形を好きな自分を否定してしまうようで。
 伝えなくても伝えても後悔するのなら、伝えて後悔したほうがましだ。
 最後の日にと、だから決めた。

「くだらないな」

 花形の声も言葉も自分の想いを受け止めてはくれなかった。
 けれど、見つめあったままのきっと僅かだった時間は、それまでの悩み続けたどんな時間よりも心に残っている。
 眼鏡の奥の瞳には、思いすごしでない自分と同じ想いがあった。
 だから忘れられない。
 今でも確かに心の中にある。消えることなく。忘れられることもなく。あの時に止まったままで。


――― オレ達は変わった?


 もう一度区切りをつけるため。いや、確かめるためだ。
 会いたいんだ、花形。
 



 アップが終わりベンチに戻るとき、振り返り観客席を今日初めて見渡した。
 送ったのは指定席ではなく普通のS席のチケット。前から数列だけだたから、来ていれば見つけられるはず。
 期待は、少しの落胆に変わる。

「ちょっと緊張してきたかも…」
 
 試合が終わるまでに。
 来ていてほしい。
 見つけるから。