残像-2-



  花形が体育館に着いた時にはすでに後半戦が始まっていた。
 ロビーからS席へ向かう通路を歩いていても聞こえる歓声に、心が刺激される。
 観客席の中央入口に立ち、館内に立ち込める人いきれと応援の声と、それらに掻き消されてしまいそうなコート上からの音に思わず立ち竦んでしまう。
 会わないでいた10年という時間がどんな藤真を見せてくれるのか、期待や不安、いろいろな想いが交差しすぎていて、本音を言えば見るのが怖かった。
 軽い眩暈を覚え、それがおさまるのを待って花形はようやくコートの中を所狭しと走る選手達に目を向けた。

「藤真…」

 170pは超えていてもバスケ選手としては小柄な藤真は、滑らかなフォームで一人を抜き様に味方に指示を出している。そして、相手の僅かな隙をついて回り込みながらのシュートは、さすがだと思わせる。
 軽やかな身のこなしで、ボールを自在に操る藤真。

「さすが…」

 花形は席にはつかず、壁に凭れたまま藤真を見続けた。
 懐かしさや恋しさと共に眩しさとが身体中を駆け巡り、胸の切ない痛みをそこかしこに残していく。10年なんて、なんて無意味なんだろう。

 幼い想いは、それ故に無垢な感情だと思っていた。身の内から湧き上がるどうしようもない欲望も潜んでいたことを思い知らされた時、封じ込める方を選んだ。
 平気で拒めた訳じゃない。
 忘れていたんじゃない。
 思い出さなかったんじゃない。
 心の奥底に仕舞い込んだ面影は、ふと瞬間に浮かぶ時の未だ落ち付いてくれない胸の痛みを残されて。何度悩まされてきたか。その度に。何度も何度も。もう忘れてしまいたいと願ったところで、そんな事できる訳がなかった。

「まだ、まだ遅くないのか…藤真…」



 審判の笛が試合終了を告げる。
 僅差で藤真のいるチームが初戦をものにしたのだろう、歓声が一際高かった。。

 両チームの選手がコート中央で握手を交わす。
 藤真は軽く握手を交わしただけで、さっさとベンチに戻っていった。
 その後ろ姿をじっと見つめていた時、藤真は戻りながら観客席に目をやっている。

 誰かを探している?
 もしかしてオレの事を?

 見つけてほしい?
 見つけないでほしい?
 ここにいる。見つけて…。






 藤真はベンチに戻りながら観客席に花形を探した。
 S席のどこにいるのか、もしかしたら来ていないのかも。いや、花形ならきっと来ているはず。
 逸る動悸に喉が渇く。試合が終わったばかりが原因じゃない。
 ぐるっと見渡して後ろを向いた時、通路の出入り口に立つ長身を見つけた。
 瞬間に胸がトクンと跳ねる。

 あの背の高さは…、花形!

 藤真は見間違いではないと確信し足早にベンチに戻ると、チームの誰よりも急いでロッカールームに入って行った。
 ジャージに着替えロビーに出てきたはいいけれど、帰る人達で花形がどこに居るのか判らない。
 ずっと会いたかった。
 ずっとずっと。
 あの声で名前を呼んで欲しいと、どれだけ願ったろう。
 けれど、翔陽を卒業する時、花形だけが連絡先を教えてくれなかった。それの意味するところはおぼろげではあったが判っていた。互いの存在がかけがえのないものであったから、それ程の三年間だったから、花形は二人の間にあるものを断ち切りたかったのだと思う。

 人波を避けながら、花形が出てくるだろうと思われる出入り口を目指すものの、中々辿り着けない。時間の流れが自分だけが止まっているような錯覚を起こさせる。胸打つ鼓動になんだか苦しい。頭もズキズキと痛い。
 ようやく会えると思えたとたんに、切ない想いが後から後から溢れてくるから。鼻の奥までがツンとしてきて。
「居た…」
 花形は、ロビーへ降りてきた階段脇の少し奥まったところに立っていた。
 そこは帰る人波からは離れている。
 ああもう、っと心が急くのか、時に人と肩がぶつかっては謝りながら、ポツンと立って待ってくれている花形に近づいていく。

「花形…」
 声の届くところまで、ようやく。ここに辿り着くために、どれだけの時を過ごしてきたか。
 どれだけ会いたかったか。
 もし会えたなら一発殴ってやろうとか、そんな事ばかりを考えていたのに。
「久しぶり、藤真…」
「花形…」
「なんて顔してるんだよ…」
 しかたないじゃないか。
 声にならない言葉と一緒に、花形の胸に額をコツンとあてた藤真が小さく鼻をすすった。思わず懐かしい匂いのするシャツを握りしめる。
 大きな、藤真にはこれ以上ないくらい頼もしい大きな手で、あの頃何時もそうしてくれていたように髪をくしゃと撫でられる。
 それだけで何かが溶けていくのが感じられる。伝わる柔らかな感触と一緒に、身体の中に広がっていく。

 花形を見上げて、
「今日はこっちに泊ってくんだろ?時間、あるんだよな?」
「藤真は、だけど…」
「今日は外泊許可取ってある。ミーティングは明日なんだ。今夜は予定、何もいれてないから」
「そうなんだ」
 花形は何か言いづらそうに遠慮している。
「試合みたら、帰るつもりだったんだ?」
「うん…」
「オレは花形と居たい。せめて今日だけでも。京都に帰るの明日にしてほしい」

 見上げてくる瞳が揺れている。
 先ほどの試合の時の藤真ではなく、よく知る藤真ではなく、どうしてそんなに切ない瞳の色をしているのだろう。
 そんな顔をさせたいんじゃないのに。
 髪を撫でていた手は、藤真のまだ汗の渇ききっていない頬を撫で、肩に下ろされる。

「判った。今夜は一緒にいよう」

 藤真は頷くように瞼を閉じて。
 口元には笑みが、ようやく浮かんだ。




 
 
「あ〜さっぱりしたぁ」
「ほら藤真」
 花形がミネラルウォーターを投げてよこす。が、腰にバスタオルを巻いただけの格好だったから、受け止めた時に胸にあたって、なんて冷たかったことか。
「つっめた」
 花形を睨むが、楽しそうに笑っている。



 長い間会わずに、言葉も声も手紙のやり取りさえなく。そんな二人がこれから一緒に過ごす一晩という時間をどんなふうに使えるのか、正直、藤真には想像ができなかった。
 気まずいかもしれない。話が進まず、互いに言いたいことも聞きたいことも言えずに過ぎていくかもしれない。
 会えたなら、最初に聞きたいと思っていたことも。
 期待と不安がごちゃ混ぜになったような感覚に飲み込まれそうになる。
 それでも。
 ロッカールームに戻り、急いで帰り支度をして花形の待つ体育館入口までとにかく走って行った。

 待っていてくれた花形が、まだ息が弾む自分に「お疲れさま」と。よく知る優しい声で。
 その声が笑顔が、それまで散々悩んで考えていたものを、頭の中からすっぽりと抜き去ってくれた。
 ホテルまでの道すがら、交わした言葉は本当に少なかったけれど、



「先にシャワー使わせてくれてありがとう。花形も入ってくれば」
「ああ…」
 ベッドに腰かけていた花形が立ち上がってバスルームに向かう。途中、ツインをとったとは言え狭い部屋の中、すれ違いざま肩が触れる。
「あ、ごめん」
「や、オレも…」
 花形の声があまりに近くで聞こえたから、思わず二人して見つめあってしまったから。
 もうずっと長い間押さえていた気持ちが堰を切ったように溢れだしてきた。
 多分、ふたり同時に。
 
 いきなり花形に抱きすくめられ、口づけられた。
 戸惑っていたのは最初だけで、すぐにそれに応えるように互いに互いの唇を貪り合った。
 差し入れられた舌先にきつく吸われ度に腰のあたりがじんと痺れてしまう。
 何度も角度を変えながら口づけを交わし、つと離れ間近に花形の目を見つめる。
 瞳に自分が映っているのが見えて、はじめて花形が眼鏡を外していたことを知る。

「いつ眼鏡外したんだよ…」
「シャワー浴びるから…」
 
 そうだった。
 だけど、もうそんなことはどうでも良かった。
 何も考えたくない。今は。

「抱きしめて…」
「藤真…」

 そのままベッドに押し倒されて、さらに深く深く口づけあった。
 やっと解放され、荒い息のもとで髪をそっと梳かれた。
 そっと触れてみる、酷く敏感な指先で。唇に、頬に、髪に。

「やっぱり…凄く好きだ…」
 花形が鼻先にちゅっとキスをくれる。
「ずっと好きだったよ、藤真…」
 そう言って首筋に顔を埋めて口づけられ、軽く吸われながら、花形の唇は鎖骨の辺りから少しずつ下に降りてくる。
 胸の疼きも腰のあたりの痺れるような疼きも、甘い感覚に酔わされて行くように全身を覆い尽くしていく。
 このまま酔わされて、花形の手で翻弄されて、すべてのしがらみから解放されたい。
 一心にそれだけを願う。
「だから…」
「なに?」
 すでに下肢のあたりを丹念に舐めている花形のくぐもった声に、
「ずっと…オレの事だけ…愛して…」
 その瞬間、花形に咥えられた。
「あ…んん…」
 何か、なにか考えようとしたけれど、目を開けているのか閉じているのかさえ判らない意識の中で見えたのは、眩しい光だった。

 ゆるゆると力が抜けていく身体が、まだふんわりと痺れているようだ。
 下肢の辺りにあった頭が上がってきて、薄ぼんやりしている頬にキスをくれた。
「オレ、イったんだ…」
「気持ちよかった?」
 青臭い匂いが鼻につく。
「もしかして、飲んだ?」
「ああ。なんか嬉しかったから」
 花形の口元が綻んでいるのが見える。
 今、どんな顔をしているのだろう。
「オレも。花形にシてもらって、ほんと夢見てるみたい…」
 もう一度頬にキスをくれて、
「急いでシャワー浴びてくるから」
「うん…」
 少しだけ握りしめた花形の手が離れていく。


 目を閉じる。
 まだ余韻の残る身体は気だるさが心地良い。
 静かに息をしながら、聞こえてくるシャワーの湯音が酷く切なくて、なぜだか泣けてきた。
 いつの間にか芽生えた恋心は、本当に幼い想いだった。なんの打算もない純粋な想い。
 だから、出口を見つけてやりたいと切に思い卒業式の日を選んだ。
 同じ想いで居ることは判ったのに、それ以上にはならなかったことを悔やまなかったと言ったら、それは嘘になる。
 迷いも確かにあったから。
 あれから。初めて告白をしてから10年を数えた。
 長い時間だったと思う。
 けれど、二人が別々の時間を過ごしてきた事を、無駄な時間ではなかったと信じたい。きっと、あの頃の二人には互いの想いは抱えきれないくらいに大きかったのだ。
 明日にはまた違う時間を二人は過ごしていく。互いの生活がやっぱりあるから。

 聞こえていた湯音が静かになった。
 バスルームに目をやると、花形が身体を拭きながら歩いてくる。たった数メートルをゆっくりと。
 花形の視線がまっすぐに向けられている。近づいてくるその視線を受けて。
 もう迷わない。
 ゆっくりと覆いかぶさってくる花形の背中に両手を回して抱き締めた。
 ずっと欲しかった体温を、今、この身体に刻みつけるために。



 大好きだよ
 今も変わらずに
 これからもずっと