それは海の深さにも似て -1-

 窓を叩く雨の音で目が覚めた。
 隣には…まだ夢の中にいるんだろうな、花形が気持ちよさそうに寝ている。
 ベッドを降りて、雨の降っている街を見るために窓際に立つ。
 まだ、ふたつの季節しか過ごしていない街だけれど、それでも、想い出はできていく。
 想い出に縋って生きていくなんて、そんな事するつもりはないけれど、でも、一つでも多く欲しいと思うのは、やはり未練があるからなのか。

 ベッドに戻って、まだ寝ている花形の寝顔を眺めてみる。
 夜を一緒に過ごすようになっても、花形の寝顔を見る事は殆どなかった。 いつも、彼のほうが早起きだったから。 ただ、この頃は、眠りが浅いのか、自分の方が早起きになったのか、花形の寝顔を見ることが多くなった。
 寝ている彼に触れるだけのキスをする。
 彼とのキスが好き。触れるだけのキスが好き。唇から伝わってくる彼の柔らかさが好き。 抱きしめられて、身体から伝わってくる彼の暖かさが好き。 彼の優しさに包まれて眠るのが好き。
 彼の、花形の何もかもが好きだと気がついたのは、あれは何時の事だったろう。

 時計を確かめれば、朝食の用意をしなければいけない時間になっていた。
 花形が殆ど用意していた食事の支度を、最近になって自分がやり始めた事にどんな理由があるのか、彼はまだ気づいてはいない。気づいて欲しいと思っているのかどうかなんて、この頃では、もうどうでもよくなった。彼からしてもらった事を、少しでも自分もしたいと、返したいと思っている。
 それだけで充分だ。
 ご飯を炊いて、味噌汁を作る。花形は、少し濃い目が好きだけれど、薄味で作ってやる。

 キッチンでの音で目が覚めたのか、花形がやっと起きてきた。
「おはよう、藤真…。 なに? もう用意してんの?」
「おはよ。うん、早く目が覚めたからな。 顔、洗ってくれば。 もう、用意できたから」
「すまん、すぐ手伝うから」
 そう言ってパタパタと洗面所へ向かい朝の支度を始める花形の後ろ姿を見ていると、これから自分がしようとしている事を、つい言ってしまいそうになる。

 ずっと一人で生きてきた。
 一人で居る淋しさに何も感じなくなった頃に、花形と出会った。
 これから先の自分の人生を彼と一緒にと願うほどに、彼に溺れた。
 自分に捨てるものは何もない。選ぶ事は簡単だ。
 では、彼は?花形は?
 花形に自分を選ばせたら、彼に捨てさせなければならないものがでてくる。
 それだけは……、それだけは、できない。
 できないから。
 だから……
 だから、離れる事に決めた。
 これ以上、縛り付けてしまわないように。
 自分のものでない彼の人生を、彼に返すために。
 …解放する。


「おいしい?」
「ああ、おいしいよ。ありがとう」
 いつもいつも、そう言って自分を安心させてくれる花形の声を聞くのは……。
「どうした?」
「ん? なんで?」
「なんか、ボンヤリしてるみたいだったから。俺の顔に何かついてる?」
「いンや、なんにも。目と鼻と口がついてるだけだ」
「はいはい」なんて空返事をしながら、それでも楽しそうに食事をしている花形を見るのは…。

 ゆっくり食事をした為にその後の片付けができないと謝る花形を玄関へと急かす。
 どうして、こんなに急かせる必要がある?
 もう少し、もう少し一緒に居たって何にも変わらないのに、どうして?

「あ、今日な、かなり忙しいんだよ。泊まりになると思う。一人になるけど、大丈夫か?」
「あのな、花形。誰に言ってンだよ、そんな事。大丈夫に決まってるだろ」
 ひょっとして、分かったのだろうか…。気がついたのだろうか…。
 違うよな、花形 そのまま出て行こうとする花形の腕を思わず掴んでしまった。
「なに?」
「あ…あの、ほら、これ、忘れてないか?」
 人差し指で自分の唇を指差す。
「そうだった。ごめん」
 笑った花形の指が自分の顎を少しあげ、柔らかくキスをおとしてくれる。
 花形……
 すぐに離れようとする花形の顔を両手で挟み込み、もう少しだけのキスをねだる。
 花形…花形……

「じゃ、行くから」
 花形がドアの向こうに消えていく。
 追いかけてしまわない様に、指が食いこむほどに両手を思いきり握り締める。
 急いで窓際へ行く。
 駅へ向かう彼の後姿が見える。
 小さくなっていく彼に、花形に。

 雨は、もうやんでいた。


 さよなら  花形




next  novels