それは海の深さにも似て -2-

 やっと期末テストが終わった。やれやれ、これで躓いたらみんなに何と言われるやら…。

  今日は牧の部屋へは来るつもりではなかったのだが、試験最終日の午後に予定されていた部活が中止になり、予定外の時間があいた。少しでも時間があるのなら牧との為に使いたい。
 これから、IH関係や夏合宿等で逢えない日が続く。
 付き合い始めて、まだ四ヶ月足らず。自分達には、まだまだ時間が必要なのだと思う。

 確か、牧はこの時間なら部屋に居るはず。
 何時ものように自分で鍵を開け、中へ入る。玄関へ入ったところには、何時ものように牧のドラムバッグが置いてある。
「牧さーん。仙道です。居ます?」
 大声で呼びかけるが返事はない。もう昼になると言うのに、まだ寝ていると言う事は、昨夜は飲み会でもあって酔いつぶれているのかもしれない。
 勝手知ったる何とやらで、牧の返事はないが、そのまま上がっていく。
 キッチンで手を洗ったついでに、少し水を飲む。
「牧さーん、仙道です。まだ、寝てるんですか? もう、昼ですよ」
 なかなか起きてこない牧に焦れて、声をかけながら寝室のドアを開ける。
「牧さん、もう、昼です…よ」
 カーテンを引いてあるため少し薄暗い部屋だけれど、それでも、牧が寝ているのが見えた。
 ただ、一人ではなかった。
「まき…さん、誰…と…」
 隣に寝ているのは…。頭だけが見える。茶色の髪…。
 ―――あの色の髪の人をひとりだけ知っている。
「藤真……さん…」
 何故、ここに藤真がいる?
 身体の中を何か冷たいものがすーっと落ちていく気がした。思考が停止する。

 気配を察して牧がやっと目を覚ました。ドアのところに立っている仙道をみとめ、
「あぁ、仙道か。今日はどうした……」
 声をかけるが返事がない。立ちすくんでいる仙道が見ている先を自分も目で追うと、
「あ…と、仙道。 昨日、藤真と飲みすぎちまって……」
 その声に弾かれるように仙道が飛び出して行く。牧は、慌ててベッドから起き出し、靴を履くのに手間取っている仙道に何とか追いつき、肩を掴み声をかけた。
 いや、正確には声をかけようとしただけだ。振り向きざまに一発仙道に殴られてしまった。
 仙道は、蹲った牧を見ることなく出ていってしまった。
「ってぇ〜。仙道の奴、手加減なしで殴りやがったな……」
「誰?仙道って? ひょっとして…」
 蹲っている牧のすぐ後ろには、騒ぎに目を覚ました藤真が起きてきていた。
「そうだ。仙道だ」
「なに? おまえら、付き合ってンの?」
「…そうだ」
「そりゃ、悪かったな。追いかけなくて良いのか?あいつ、誤解してんじゃないか」
「いや、いいんだ。今から走っても、もう追いつかん」
「…ふ〜ん。ま、いいけど。それより、牧、シャワー借りれるか?」
「ああ、そこだ。タオルとかは、そこら辺にあるヤツを使ってくれ」
 藤真が洗面所の方へ入っていく気配を背中で感じ、起き上がった牧は口を濯ぐためにキッチンに入った。
 仙道は……、仙道は、自分が藤真の事が好きだった事を知っている。
 もう、何もない、関係はないと言っても、あんなところを見せてしまっては、誤解をするなと言う方が無理かもしれない。
 ショックだったろうな。悪い事をした…。

 昨日、大学の方へ突然訪ねてきた藤真と、久しぶりという事もあって、少し羽目を外してしまい、二人ともかなり飲みすぎてしまった。 酔いつぶれて帰れなくなった藤真を仕方なく自分の部屋へ連れてきたのだが、藤真をベッドへ寝かせた後、そのまま自分も寝てしまったのが悪かった。

「なあ、牧…」
 何時の間にかシャワーを使い終えていた藤真が側にきていた。
「あ…、なんだ?」
「しばらく、泊めてくれないか?」
「それは良いが…。おまえ、花形に連絡してないだろ? いいのか?」
「なんで?」
「なんでって…、今一緒に住んでるって、昨日、言ったの忘れたのか?」
「あ…、それならいいんだ。それより、悪いけど、もう少し寝かせてもらうな」
「あぁ」
 昨日から感じている事。 久しぶりに会って、懐かしさも手伝ってかよく飲んで色んな事を話したが、何となくひっかかるものがある。 花形の名前が出た時の一瞬に見せるぎこちなさは、あれは一体なんなのだろうか。 ケンカでもして飛び出してきたのか…。
 しかし、それよりも気になるのは仙道の事だ。 タイミングが悪すぎた。
 ため息をつくしかない牧だった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 牧の部屋を飛び出した仙道は、陵南高校まで戻ってきていた。
 自分の部屋の方へ戻る気になれず、学校まできてしまったが、何時もなら時間があけば何処かでボールを触っているはずなのに、今日は、そんな気も起こらなかった。
 近くの公園まで足を伸ばし、木陰を見つけ、少し休む事にした。

 牧の部屋での事を思い出してみる。
 ベッドに寝ている藤真を見つけた。 ただ、その後はよく覚えていない。 気がついた時には、玄関を目指して走っていて…。 肩を掴まれたのは覚えているが、あれは誰だったのだろう。
 しかし、相当に頭に血が昇っていたのか、殆ど何も覚えていない自分に笑いが込み上げてくる。
 ひょっとしたら、牧の部屋で見た事は夢だったのかもしれない。
 そう思いたかったが、肩を掴まれた手を払いのけ様として、振り向きざまに殴った感触が手にまだ残っている。
 その後は……。気がついたら学校まで戻ってきていた。

 牧が藤真の事を好きだった事は知っている。けじめはつけていても、まだ心に残る想いがある事も承知している。 それでも牧は自分を選んだはずだ。 だから、牧の手の中へ入ってこれた。 牧と付き合い始めた頃は、確かに藤真のことは意識はしていたが、何時の間にか忘れてしまっていた。 それ程に、牧との関わりをもった毎日は充実していた。
 今頃になって、藤真に会うとは…。

 何処をどう歩いたのか覚えていないくらい歩き回り、夜も9時を回ろうとした頃にやっと自分の部屋に戻ってきた。ここ何ヶ月の中で、最悪な気分での帰宅になる。
 部屋の鍵を開ける。何でもない作業なのに、今日はやけに時間がかかってしまう。
 ふぅ〜、やれやれ…。シャワーでも浴びてさっぱりしたい。
 シャワーを使おうとした時、電話がなった。
 多分、牧からだと思う。 あんな風に飛び出してきたんだ。心配はしてくれてはいるだろう。
 迷ったが、電話の音をやり過ごす事はできなかった。
「はい、仙道ですが…」
『仙道か…。 やれやれ、やっと捕まった』
 電話の向こうで、ほっとしている牧の顔が浮かぶ。 その声で、ほっとしている自分がいるのも笑えるが。
「あの…、すいませんでした」
『あ〜と、今日の事はオレが悪かった。 それより、仙道、おまえ明日からは忙しいな?』
「ええ」
『明日、そっちへ行く。 いいか?』
「ええ、構わないですけど…、なんでです?」
『…藤真が…しばらく泊まるんだよ』
「……はい、分かりました。じゃ、明日待ってますから…」


 ベッドに横になって、ずっと天井を眺めている。 頭の中は、牧と藤真の事ばかりだ。
 藤真が現れた。どのくらいか分からないが牧の側にいると言う。
 彼は、牧は、藤真が側に居て心が揺れたりはしないのだろうか…。
 牧と自分との間には、何があっても揺らぐ事のない信頼関係が築かれていただろうか…。
 身体を繋げる関係であることに安心しきって、大事な事を忘れてきてはいなかったか…。
 今更に、二人の関係が大丈夫だと言いきれない程に不安定なところにある事を、思い知らされる。


 牧の本気は、どこにあるのだろう……


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 彼が、自分の部屋を訪ねてくるのは、自分に会いたいからなのだろうか?
 彼から逃げ出すために、自分のところへ来ているだけなんだろうか?
 信じていたものが、信じられなくなってきている



「まだ、いらしたんですか?」
「悪いと思ってるよ」

 藤真が居ると分かっているところに、本当は来たくはなかった。
 以前、この部屋へ来た時の忘れ物があるために仕方がなかっただけだ。これから、合宿やIH関係で留守が多くなる。 時間のある時にと思い、牧が居ない事は分かってはいるけれども訪ねるしかなく。
 しかし、牧の部屋で藤真に迎えられるのは、承知しているとは言え、気分の良いものではない。
「忘れ物を取りに来ただけですから」
「オレは、留守番してるだけだから」
 さっさと用事を済ませるべく、寝室へ入る。 目的のものは、すぐに見つける事ができた。
「仙道ぉー、コーヒー入れたから、飲んでけよ」
 本当は、用事さえ済めばさっさと帰ってしまいたかった。 藤真と一緒には居たくはないのに、どうして断れなかったのだろう。
 今の自分の状態が、あまり歓迎されるものではない事くらいは分かるのに。

 キッチンの横で、藤真の入れてくれたコーヒーを飲む。 二人とも、立ったままだ。
「しかし、驚いたな。 牧と仙道が付き合ってたなんて」
「そう…ですか」
「仙道、驚いたろ? あんなとこ、見てさ」
 あの日、まさか牧の寝室で藤真を見つけるとは、思ってもみなかった。しかも……。
 何もなかった、ある訳がないと、牧から聞いている。理解している。分かっているのに…。
 何処か遠くで危険信号が鳴っている。
「安心しろ。 牧とは何にもないぜ。 あの時は…」
「知ってます」
「あぁ、牧から聞いた? ふ〜ん…そっか」
 遠かった危険信号が、すぐ近くで鳴り始めている。
 どうしようもない程にせり上がって来るものを――何とか押さえる。
「なんですか、藤真さん。 随分、意味深ですね、その言い方」
「ほら、牧が帰ってこない夜があるだろ。 悪いと思ってるよ、ホントに」

 お互いに生活の一部になっているバスケを通しては、藤真は尊敬できる選手だ。その実力は認めている。ただ、牧を挟んだ時、それら全ての事は何も意味をなさない。
 牧が欲しくて、牧の側に居たくて、時間をかけて自分の居場所を作っている。それなのに、藤真は、いとも簡単に牧の側に居る。自分と同じ場所で。
 牧と藤真の間にある、同じ時間を共有してきた者だけが得られる絆を、今ほど羨ましく、妬ましく思った事はなかった。二人が、牧と藤真が、何もなくても通じ合える関係だから。
 牧にとって、自分が一番ではない事、一番にはなりえない事を見せ付けられている気がする。
 気が変になりそうだ……。

「仙道?」
 藤真の声に、我に返った。
 声をかけられなかったら、気がつかなかったら、暴走していたかも…しれない。
「あ……、大丈夫です。え〜と、オレ、帰ります」
 飛び出すように、牧の部屋から出ていく。
 もう、一秒だって藤真とは一緒に居たくはなかった。自分が何をしでかすかわからない…。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 仙道が帰った後、一人になった藤真の考えている事は一つだけ。今は自分の事で精一杯で、仙道のことまでは、思いやっている余裕がなかった。

 花形に黙って、二人で住んでいた部屋から飛び出した。
 花形と離れる事を決めた後も、なかなか実行には移せずにいたが、側に居れば居るほど離れられなくなるのが分かっていたから、何とか自分に言い聞かせて、出てきた.。
 今頃、花形は自分を探しているだろう。どんなに心配しているか…。
 早く決着をつけて、花形には探さなくて良いことを知らせたい。
 その為に自分がしようとしている事。それが正しい事ではないと知ってはいるけれども。


 その日、夕食は外で済ませてきた牧と、はじめは他愛もない話しをしていた。
「今日、そう言えば、仙道来てたよ」
「あぁ、忘れ物があるとか言ってたからな…」

 牧…、俺は…。
「なあ、牧。 牧は、仙道の事は本気なのか?」
「何だよ、急に」
「オレは…、牧の事を好きになれば良かった」
「はぁ?」
 今、藤真は何て言った?
「牧、おまえ、仙道に好きだって言ったか? 仙道に言われた?」
「それは…」
 藤真は、何を言ってる? 
「なあ、牧。 オレと付き合う気、ない?」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「だから、オレと付き合わないかって言ってんだよ」
 そう言って、じっと牧の目を見つめてくる藤真に、牧は動く事ができない。
「藤真、冗談はやめろ」
「本気だよ、オレは。 なあ、牧、オレを抱きたいって思ったことない?」
 そんな事……。
「藤真っ! いい加減にしろっ!」
 藤真の手が牧の頬を包み込む。
「ふじっ…」
 そのまま、牧の唇に藤真は自分のそれを押し付ける。
 貪るほどに求められ、気がついた時には応えていた。 目も眩むほどの快感が突き上げてくる。
 口付けたまま藤真の身体を床へ押さえつけ、夢中で着ている物を剥がしていく。
 目の前には、白い肌を晒した焦がれてやまなかった藤真がいる。
 藤真を組みふす。こんな場面、何度夢に見たか分からない。
「おまえ…、後悔するぞ」
「関係ないね」
 牧を見つめる藤真の瞳に写っているものは…。
 静かな部屋の中に、二人の息遣いだけが満ちていく。


 これで、これで離れられる…。
 花形…
 花形しか受け入れなかった身体に、他の誰かが入ってくる。
 花形ではない手で与えられる快感に、何も考えられない程に溺れてしまいたい。
 それでも…。
 浮かんでくる面影は消えてくれず、藤真を追いつめる。
 追いつめられれば追いつめられるほどに、追いかけてしまう。
 何時の間にか、花形を追いかけている。
 花形…。


「はな…がた…は…なが…」
 牧の動きが止まる。
「な…に…」
 藤真が呼んだ名前に、それまで牧を熱く支配していたものが、冷水を浴びせられたように、急に冷えていく。
 我に返った牧の目の前にあったものは、激しい突き上げの為に気を失った藤真だった。
「藤真……、オレは、なんてことを…」
 頬を叩くが藤真の反応はない。
 脱ぎ散らかした服を拾い集め急いで身につける。早く藤真の手当てをしなければいけない。


 ベッドへ寝かせた藤真に濡れタオルをあててやる。
 そうしているうちに、やっと目を覚ました藤真にホッとした。
「大丈夫…か…」
 少しぼんやりしているみたいだが、自分の問いに小さく頷いてくれた。よかった。
 すぐ横に座っている牧の方を向きながら、
「まき……」
「なんだ?」
「俺…、どれくらい、眠ってた?」
「10分てとこだ。 それより藤真、すまなかった。身体は、大丈夫か?」
 謝る牧に、心が痛む。
「大丈夫だよ…、身体は」
 牧が誤る事はない。全ては自分が悪いのだ。花形を忘れるために、別れる理由を作るために牧を誘った。それなのに、牧に抱かれながら、ずっと花形を追いかけていた。

「牧、すまないけど…」
「なんだ? 何か欲しいか」
「悪いけど、一人にしてくれないか?」
「あぁ、向こうに行ってるから、何かあれば呼んでくれればいい」
「ありがとう…」
 寝室の外へ出てドアを閉め様とした時、聞こえてきたのは藤真の嗚咽だった。
 閉めたドアに持たれながら、藤真の声を聞く。 哀しい声。
 藤真が気を失う前に口にした名前は、恋しい男の名前だ。
 誘い、自分に抱かれていながら、藤真が追いかけていたのは自分ではない。


 藤真、おまえは、花形と別れるために、オレに抱かれたのか?
 おまえ、花形と別れる理由が欲しくて、オレに抱かれた?
 そうまでしないと離れられないくらいに愛しているのに、どうして……。




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