ガラス越しの心-2-



 いくら名前を呼んでも振り向きもしない腕を力任せに掴むが、もがき抵抗される。引き寄せようとして、そのまま縺れ合うように倒れこみ、両腕を押さえ、その身体が逃げ出せないように、圧し掛かる様に組み敷く。
 何か叫んでいるようだが、俺には聞こえない。
 白い肌を目の前に晒すために、まるで引きちぎるように着ている服を剥ぎ取っていく。
 何も覆うものがなくなった身体を静かに見下ろしながら、その艶やかな肌に手を這わせる。胸から肩へ、そして、うつ伏せにさせて滑らかな背中へと這わせていく。
 やがて、あの一点へと辿り着く。

  ――― ああ、やっぱり…

 肩の少し下にある、紅く鬱血した痕。誰かが残した所有の印の上に、誰にも渡さないとでもいう様に躊躇することなく口付け、強く吸い上げていく。何度も吸い上げては確かめ、また吸い上げる。己の印を残すために。

 ――― 藤真は俺のものだ。誰にも渡すもんか。藤真は、俺の……





「俺のものだっ!!!」


 ベッドの上に起き上がった花形が、もう一度「藤真は…」と言おうとした時、ふと、目の前の箪笥の取っ手にかけてある制服が目に入った。
 何度か目を瞬かせていると、眠っていた意識が霧が晴れるように覚醒していく。それとともに、夢を見ていた事、その内容までもが一緒に思い出されてくる。

「あ…、ゆめ、か……」

 辺りを見回した後、自分の両手を見つめる。掌を握り締めると、かなり汗をかいている事が判る。
 それはそうだろう。自分の中に焼きついて未だ鮮明に思い出せるほどの感触に、動悸が治まってくれないのだから。
 夢とは言え、嫌がる藤真を組み敷き、あのキスマークの上から、藤真は自分のものだと言わんばかりに口付け、己の印を付けていた。
 深呼吸を何度か繰り返すうち、ようやく落ち着きを取り戻してきたが、それとともに落込んでいく自分に、ため息しかでてこない。

「なんて夢見てんだ俺は、まったく…」

 花形はまた横になり、天井を見つめながら深いため息をついた。
 今夜のような夢を見るのは、初めてではなかった。もう、何度見たのかさえ覚えていない。
 原因は判っている。藤真の背中についていたあのキスマークだ。あれを見つけた時から、自分は一変してしまった。
 藤真はあの容姿である。男女ともに言い寄られる事も少なくはないだろうけれど、まさか、あのキスマークを見た事がきっかけだったとしても、藤真を、あろうことか、性愛の対象として見てしまうようになるなんて、どうかしているとしか思えない。
 バスケットを通しては同士と言える間柄であり、離れれば信頼しあえる親友である藤真に対して、恋愛感情を持ってしまった自分自身が信じられなかった。

 ――― だけど…、本当に、そうなのだろうか…

 今、こうして自分自身に問いかけてみれば、男である藤真が、恋愛の対象になれるはずがないと思い込んでいたようにも思われて、判らなくなってくるのも、また事実だった。
 知らずに芽生えていた淡い想いに、近すぎるが故に気がつかなかっただけかもしれない。
 いつも、男女問わずに言い寄られては迷惑がっていた事を知っている。その為もあってか恋愛事にはあまり積極的でなく、それ以上に疎んじている風な藤真の側にいて、せめて自分はそんな事で迷惑をかけないようにと、どこかで一線を引いていた可能性もあるだろう。

 大事な、誰よりも大事な人だから。

 だから。
 藤真が誰かのものだと知らされたあの時、自分の心の中に潜んでいた冷たい嫉妬心に気づかされたのだ。それが、何処からきているものなのかにも。

「俺も、まだまだ修行が足りないってことなんだろうなぁ…」

 誰に言うともなく吐いた言葉に、苦笑するしかなかった。




 何も見ることもなく、何も知ることもなかった毎日の中では気がつかなかった想い、本当はずっと藤真を好きだった事に、最悪の形で気づくことになった花形は、けれど、その気持ちを行動に移すことはなかった。
 IH の県予選が近づいてきているこの時期に、監督を兼任している藤真をサポートする立場の自分が至極プライベートな事で負担になってしまっては本末転倒になってしまう。
 考えたくもないけれど、藤真の相手が誰かは判らないが、その事が藤真にとっての支えになっているとすれば、プライベートに関与する事によって精神的な負担を強いてしまうかもしれないような事だけは避けたかった。

 そんな風に、自分の中に気持ちを閉じ込めてしまった花形だったけれど、後輩たちに練習をつけるためにコートに入り、走る藤真を目で追いかけてしまうのは今までと変わらないのだが、練習の合間のちょっと気の緩んだ時や、ふとした瞬間に、知らないうちに熱い眼差しでじっと見つめてしまっていたり、時には、そんな自分に気づいた藤真に見つめ返されて、思わず目を逸らしてしまう事が、一度や二度ではなく、最近ではずいぶん多くなっているようにも思われる。こんな事が続けば、勘の良い藤真のことだから、いずれは知られてしまう事になるかもしれないと思っても、止められない。
 ロッカー室で着替えている時も、ふと気づけば、意識は一番気になっている藤真の背中に向いていて、確かめずにはいられない嫉妬心に、やり切れなさばかりが募っていく。
 自嘲的な思いに駆られながらも意識せずにはいられない想いに、花形はどうすることもできないでいた。


 藤真を好きだと、大事だと思う自分を、もっと素直に自分自身が認めてやれれば良いんだろうと思う。
 行動を起こすとか起こさないとか、そんな次元のことではなく、湧き上がる自然な想いを、あるがままに受け入れてやれれば、それが一番良いんだろうとも思う。
 そう思うのだが…。





 花形は、直前に迫ったIHの神奈川予選の事と藤真への想いを抱えたまま、一人で居残り練習をする毎日を続けていた。
 蒸し暑い体育館の中でどのくらいの時間が過ぎた頃だろうか、シュート体制に入ろうとして自分の流した汗に足をとられ、危うく滑りそうになった時、
「今、怪我したらどうするつもりだよ。うちのセンターが使えなくなったら、困るのが誰か知ってるか?」
 もう誰も残っていないと思っていた花形は、かけられた言葉に驚いて、その声の主の方を振り返る。
 体育館の入り口には、いつからそこにいたのか、藤真が立っていた。
「藤真…、帰ったんじゃなかったのか」
 タオルを取りにいくために入り口へ歩き出した花形に、花形のタオルを取って投げてやった後、藤真は靴を脱いで、そのまま体育館に入ってきた。

「帰ったとばかり思ってたのに…」
「まね。忘れ物があったの思い出して引き返してきたんだ。そしたら、まだ電気ついてるし。多分、花形だと思ってたけどな」
「どうして?」
 床に座りなおして、最近はまともに顔を見て話をしていなかった事を思い出し、心の中で詫びながら聞くと、
「最近の花形は、なんか考え事ばかりで、難しい顔ばかりしてたから」
「そうか…」
 やはり、隠し通せるものではないらしい。どうしても態度や表情にでてしまっている自分の未熟さに、ため息しか出で来ない花形だった。
 手元に視線を落とし、
「心配かけてすまなかったな。試合の事で色々思うところがあって。黙っていて悪かっ…」
「それだけ?」
「え…」
 思わず顔を上げて、藤真を見つめ返す。
 何か言いたげな藤真の視線とまともに向き合ったのは、これが初めてではないだろうか。
 疚しい気持ちばかりではないはずだが、それでも、悟られてはいけなかったから、いつも、目を逸らしてばかりいた。理由はどうあれ、逃げていた事にはかわりはない。
 けれど、こんな事ばかりを続けていても前に進めない。ならば道は一つだけ。

 お互いに、何か言いたい事があるはずなのに、何も言わず、じっと見つめ合っているだけの時間が過ぎていく。
 静かに見つめてくる藤真の瞳を見つめていると、自分の中でわだかまっていたものが晴れる気がしてくるのが不思議だった。
 そうだ、逸らす事も逃げる必要もなかった。見つめてくる瞳を受け止めてやれば良かっただけなんだ。


 どれくらいそうしていたのか判らなかったが、目を逸らしたのも、最初に口をきいたのも、藤真の方だった。
「もう、遅いし、帰ろうぜ。副主将が練習疲れで使い物になりませんでしたって言われたら、花形、おまえ、どうなるか判ってるだろうな」
 何となく気恥ずかしそうな感じがしているのは、気のせいだろうか。
「はいはい、監督さんの仰るとおりで。すぐに着替えてくるから待っててくれ。一緒に帰ろう」
「仕方がないから待っててやる。とっとと戸締り始めようぜ」
 言うが早いか、藤真は、いつものようにてきぱきと動き出していった。
「おいって、待てよ、藤真っ」
 相変わらずの身のこなしの早さに苦笑しつつ、藤真の後について片づけを始めた花形は、まだ、すべてが解決した訳ではなかったが、少なくとも、一つだけ判った事があって安堵の笑みを浮かべた。
 やっと気がついたと言うべきだろう。
 その事を確信をもって言えるのは、今ではなく、きっと、まだまだ先になるだろうとは思うけれど。



 ――― 藤真にも、自分と同じ想いが存在している…