ガラス越しの心-3-



 喉が乾いていた訳でもなかったのに、夜中に目を覚ませてしまった藤真は、何となく寝そびれてしまい、仕方なくベランダの側で座り込み、膝を抱えてぼんやりと夜空を見上げていた。

 ぽつぽつと瞬いて見える星に、明日はまた晴れて暑くなるのなら、体育館での練習メニューは予定していたのとは別のものをと考えていても、すぐに他の事で頭の中がいっぱいになってしまう。すでに昨日の事になってしまったIH予選のことばかりを考えてしまう。
 湘北との試合が終わった後、他のみんなとは試合会場で解散をして別れ、翔陽へは花形と二人だけで戻ってきた。
 結果報告をすませた後、校長室を退室してから先の事をあまり覚えていない。
 後片付けの為に部室へ寄って、花形と日誌を広げて話くらいはしていただろうけれど、他に何をしていたのか、一人になりたかったのか、なりたくなかったのか、本当はどうしたかったのか、ふわりと白っぽいものに覆われてでもいるように殆ど記憶になくて、鍵を握って自宅のドアの前に立った時に、ようやく自分が今何処にいるのかに気がつくと言う有様だった。
 花形が隣にいてくれた事も、その時になって気がついたくらいだった。

 一緒に遅い食事をとっていた花形から、ある筈だった物が無くなってしまった事で気力が萎えてしまった上に、自分の至らなさへの無力感に包まれていたらしく、翔陽を出る頃から花形の腕を掴んでずっと離さずにいた事を聞かされて、そんな自分がやけに可笑しくて、苦笑いするしかなかった。

 ”夏は終わった。明日からは、冬を目指すために一から出直す”

 きっぱりとけじめをつけたつもりなのに、心が追いついてきてくれない自分の器の小ささを思い知らされ、自然に花形を求めていたのかもしれない。いつも側にいてくれるから、また甘えたのだ。
 居心地が良すぎる花形の懐の深さに、いつまでたっても離れられないでいる。



「ふ…」
「ん?」
 名前を呼ばれたような気がして振り返ってみると、そこには、床に腕を伸ばしたまま寝ている花形がいるだけだった。
 寝言で自分の名前でも呼んでくれたのだろうか。

 自分を気遣ってか、雰囲気を変えてみるのも良いかもしれないと、床に布団を二つ並べて寝る事を提案したのは花形の方だった。他愛ない事ばかりを笑いながら話しをしているうちに、自分の方が先に寝てしまっていたみたいで、ひょっとしたら、間近で寝顔を見られていたかもしれないと思うと、少しばかり恥ずかしさが込み上げてくる。

「オレだって、見てみたかったのに。ずるいのな、花形は…」
 囁くように発せられた言葉は、花形に届く前に、部屋の中に溶け込むように沈んでいった。

 思えば、あの背中のキスマークを花形に見せた時から、二人の間に何かしらの波紋が広がっていったのは確かだ。他の誰も気がつかないような僅かだけれど小さな変化が、花形に現れてきているのが判るから。
 何か言いた気な視線を向けられている事が多くなってきていて、気がついて見つめ返すと、最初はすぐに逸らされてしまっていたものが、この頃では、心が逃げないでいてくれるからだろう、ちゃんと受け止めてくれるようになった。
 なにより、花形の瞳の奥に、穏やかではあるけれど、自分と同じ熱いものを感じられるようになった事が嬉しい。
 壁は、もう壊れて無くなっているはず。後は、乗り越えるだけ。
 後、少しの。ほんの少しの―――。



 藤真は、しばらく逡巡した後、何かを振り払うようにもう一度夜空を見上げて、それから、開けていたガラス戸を閉めて、その代りにカーテンは開け放したまま、床に腕を伸ばしている花形にそっと近づいた。
 月明かりに照らされている花形の顔を覗きこみながら、伸ばしている腕に気をつけて身を寄せる。
 パジャマ越しに伝わる彼の体温や寝息を感じていると、自身の鼓動と同調してくるように思われ、まるで、一つになってしまったような気がして、暖かいものに満たされていく。
 手を伸ばして髪に触れ、固そうに見えるが、意外に柔らかい黒髪を梳いていく。手にその感触を馴染ませる様に、何度も何度も梳いていく。
 そうして、ずっと気になっている右の額に貼られているばんそうこうに軽く触れ、指先でそっとなぞってみる。
 伝わってくるのは、受けた傷の痛みだけではなく、あっけなく終わってしまった夏への心残りもあるはず。きっと、同じ気持ちだと思うから。
 指先を撫ぜるようにずらし、頬の柔らかさを確めるように唇でそっと触れて、すぐに離れる。また触れて、すぐに離れる。もう一度触れようとして―――。
 ふいに沸きあがってきた彼を起こしてしまいたい衝動に、思わず身体が震えた。
「はな………あ…」
 寸での所で、手の平を握り締めて自分の唇に当て、その衝動をやり過ごす。

 この先、どんなに時間が過ぎてしまっても、きっと忘れるなんてできないような大切な一日が終わった夜に、もしも、好きだと告げてしまったら。
 ひたすらに目指していたものが無くなってしまった事で、心にぽっかりと開いた隙間に落ちていってしまいそうなこんな時に告げてしまったら。
 花形なら、何も言わずに抱きしめて受け入れてくれるだろう。ただ、それは、自分が望んでいるものからは程遠い気がする。
 焦がれる程に望んでいるのは、慰めや同情等ではなく、生身の藤真健司だけを、本当の自分だけを受け入れてほしいだけ。自分が花形を欲すると同じように、花形にも自分を欲してほしいだけだ。
 だから、今夜は言えない。まだ言えない。今は言えないけれど―――。

 花形…、早く捕まえてよ。お前だけのものになりたいんだよ。こんなに好きなのに……。

 ありったけの想いを込めて、花形の唇に自分のそれをそっと重ねる。
 乾いて少しかさついている唇に触れていると、身体の奥に小さな熱が生まれてくるのを感じ、慌てて離れる。
 詰めていた息を気づかれないように吐き出しながら、泣きたくなるようなやり切れない思いに、鼻の奥がつんとして来る。

 そのままでいても、誰も間に入っては来られないような、それだけの時間を過ごしてきた。これ以上を望むのは、ただの我侭だと判ってはいるけれど。
 いつも、同じ事を考えては、辿りつく答えも同じものばかり。行きつく先が一つしかないのなら、その気持ちを大事にしたいと、そう思っただけ。

 天井を見上げ、そっとため息をつく。
 もう、あれこれと考えるのは止めよう。ここまで来たのだから、後は待つだけで良い。
 花形の寝顔を見ながら、もう一度だけ頬に口付ける。そうして、起こしてしまわないように腕を枕代わりにさせてもらって、静かに目を閉じる。

 今夜は眠れそうにないけれど
 おやすみ、花形…