ガラス越しの心 -5-



「頼みがあるんだ。ちょっと、普通じゃないかもしれないけど…」
「良いですよ。でも、光栄だな、そういうの俺に話してくれるなんて」
「そんな良いもんじゃない。それで、最初に約束して――」
「誰にも言いません。内緒って事でしょ」
「そう。絶対に誰にも言わない。それから、理由も聞かない」
「判りました。で、俺に何かして欲しいんですか?」
「背中にキスマークを付けて欲しい」
「藤真さんくらいなら、そんな相手、いくらでもいるでしょうに、なんでまた――」
「理由は聞かない約束だろ」
「あはは、そうでしたね。良いですよ、キスマークくらい。じゃあ、誰にも内緒にしてあげる代わりに俺とキスしてもらおうかな。それが、交換条件です。どうします?」
「――判った」





 藤真は、はっきりとしない意識の中で、あの日の事をぼんやりと思い出していた。
 仙道とは、県代表の合宿で海南の牧と一緒に同室になった事が縁で、他校のバスケ選手であったが、会えば気軽に話をする間柄になっていた
 いつも人懐っこい笑みを浮かべている仙道に対して、一年先輩と言う意識もあったのだろう、警戒心も何もなく、その時に抱えていた行き詰った恋心を何とかしたい、その一心だけで背中にキスマークをつけてくれるように頼んだ。
 交換条件のキスさえすめば、後は花形との事を考えれば良いだけだと、そう信じて疑う事すらしなかった。

 特別な意味を持つものを肌につけてもらう。

 そんな頼み事をした自分に、仙道が少なからず興味を持ってしまうだろう事も予想できたはずなのに、そこまで考えが回らなかった。
 時々、花形にも注意されている、何か一つの事に一生懸命になるあまりに前しか見えなくなる悪い癖。気をつけていたつもりだったのに、周りが見えていなかった。

 ふぅ〜、と溜息が口をついて出てくる。
 気がついた時、仙道はもう帰った後だったらしく、どこにも人の気配はなかった。それでも、一応の後始末だけはしてくれていた彼に、怒りとか、そう言う類の感情は不思議と沸いてくることはなく、苦笑いが浮かんでくるだけだった。
 とても長い時間だったように思われたその間、初めて貫かれた激痛に、必死で閉じていた瞼の裏に浮かんだものが何なのかも判らず、ただ真っ白になっていく様を見ていたような気がする。
 仙道にどんな気持ちがあって自分を抱きたかったのか、今となっては知る由もないが、彼は手荒な扱いはいっさいせず、固く強張った身体を根気よく丁寧に解していってくれていたと思う。けれど、一時の反応や大事に抱いてくれていると判っても、頭の中は妙に冴え、心は冷えていくばかりで熱くなることは最後までなかった。

 瞼を閉じると涙が零れてくる。
 花形にだけは知られたくなくて、仙道の要求を呑んだ自分が情けなかった。
 少しは和らいできてはいるが、まだ身体中に痛みが残っている。この痛みは、本当は花形から与えられて、彼と共有したかったものだ。それなのに……。
 誰のせいでもない。どんな理由があったにせよ、自分から話しを持ち掛けたその報いを受けたのだと、そう思えば思うほど、後から後から涙が溢れてくる。

 会いたい…会いたい、花形……

 声だけでも聞きたいと思った時、居間の方から電話のコール音が聞こえてきた。
 まだ悲鳴を上げる身体にタオルケットを巻きつけ、壁伝いにやっとの事で電話台の所まで辿りつく。受話機を取って崩れるように座り込んだ耳元に、一番欲しくて聞きたかった声が聞こえてきた。
「藤真か、遅くにすまん。明日でもよかったんだけど、今夜のうちにって思って――」
「は…ながた…」
[どうした? 何かあったのか? 声が変だけど、もしかして泣いてる?」
「ねつ、でてきて……」
「熱って、何があった? 藤真、大丈夫か?」
「だ…―――」
 大丈夫と、いつものように返事をしようとしたが、もう限界だった。
 花形の前で言い繕う事にも偽る事にも、もう何も意味がないような気がする。ここまできてしまったのだから、花形を信じてすべてを曝け出せば良い。
 すぐに会いたい。会って抱きしめて欲しい。その気持ちだけをぶつけていけば良いだけだと思った。

「花形…」
「藤真?」
「すぐ来いよ、今すぐに。すぐに、会いに、来て…くれ…」
「判った。すぐ行くから、そこから動くなよ」
「早く来いったら―――」
「大丈夫、すぐ行くから。そのまま寝てしまいそうだったら、先に、鍵だけ開けとけよ。じゃ、後で」
 急いで受話器を置いただろう音を聞きながら、藤真はようやく安堵の溜息をついた。

 今頃はきっと、家族に何かしらの言い訳をしながら、出かける用意をしているだろう。時間を確かめると、終電までにはまだ余裕がある。電車で来るのだろうか、それとも、一駅だから自転車でやってくるのだろうか。花形に迷惑をかけている自覚はあるのに、暗い夜道を必死になって、自分の為に来てくれているだろう彼の事を考えているだけで、心地良い安心感に包まれていく。

 ふと、まだ、受話器を握り締めたままだったことに気がつき、電話で花形に言われていた事を思い出した。
「そうだ、鍵…」
 まだ痛む身体で何とか玄関まで来たが、鍵はかかっていなかった。しばらく考えた後、その理由に思い至ると急に脱力感に襲われ、玄関先に座り込んだ。
「ああそうか、仙道、そのまま出てったからな…」
 壁に凭れ、仙道が帰っていくところを思い浮かべながら、藤真は目を閉じた。
 花形の何もかもを信じられるのに、近すぎるが故に存在する壁にずっと悩んできた。
 けれど、それももう終わる。
 もうすぐやって来る花形にすべてを打ち明けて、待っているばかりだった毎日から解放されるのだ。

 花形に会える安堵感からようやく落ち着いてきた藤真は、壁に凭れたまま静かに眠りについた。