ガラス越しの心 -4-



 夏休み前の午後の部活を終えた藤真は、ようやく暗くなりはじめた街中を家へと歩いていた。

 公園通りを横切ると目指すマンションまではあと少しだ。夏特有のまとわりつくような湿気は、練習で疲れた身体には不愉快しか与えてくれないはずなのに、その足取りはあまり重いものではなかった。
 花形が降りた後の電車にひとりで揺られて帰る寂しさに、明日もまた会えると言い聞かせているうちに、いつの間にか慣れてしまったからだろうか。それとも、ゆっくり、ゆっくりと近づくふたりの距離に、焦らずに待てるようになったからだろうか。
 どちらにしても、藤真は苦笑いを浮かべ、
「そんなことある訳ないか、ったく…あの野郎は、気がついてるはずなのに、まぁだ知らん顔だもんなぁ…」
 誰に言うともなく口をついて出てきた言葉は、なかなか最後の一歩を踏み出してくれない花形の焦れったさへの愚痴とも文句とも言えるようなものだった。

 誰よりも近くにいるのに遠くに感じてしまう、届きそうで届かないもどかしさ。眠れずに、時計の針を見ているだけの夜をどれだけ過ごしたろう。
 向き合っているように思われたものが、実際にはそうではなかったと気がついた時、あまりに近すぎる二人の距離を恨んだものである。それが、どんなに贅沢な事か判ってはいたけれど。
 少し前までの二人の関係に思いを馳せ、ゆっくりではあるが、確実に向き合って近づいてきているのが判るようになってきた今の状態に、藤真は、もう一度苦笑を浮かべた。

 ―――そのために自分がした事

 もうこれ以上自分の気持ちを隠したまま、彼の前に居る事の辛さに我慢ができなくて、自分が誰かのものだと見せ付けた事がある。
 穏やかな水面に自ら小石を投げ込んで波紋を広げたのだ。どうにもならない気持ちを持て余す事に、いい加減疲れてきていたのだと思う。そうでなければ、花形に気づかせるためとはいえ、あんな事ができる訳がない。自分の方から頼んでまで……。

 背中につけたキスマーク。

 普段は思い出す事もないのに、今夜のように一人でいる時、ふいに蘇ってくる。消えてくれない記憶。気にする程の事でないと、努めて忘れるようにしているのが良くないのかもしれない。いい加減に慣れてしまえと思う。

 まだ気になっているその事で唇を噛み締めた時、ふいに名前を呼ばれた。
「藤真さん」
 歩いていた足をとめ、声のした方を見る。公園の入り口にある街灯に背を持たせていた男が、ゆっくりと藤真に向かって歩いてくる。
「おまえ…」
「今、帰りですか? 随分、練習するんですね」
 待っていたらしい男は、そう言いながら、相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。その笑顔で、相手が最初に抱く警戒心を解くのを、この男は本能的に知っているような気がする。
「待ってたんですよ、帰ってくるの。ちょっと話があって」
「仙道…」
 口元に笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていないのが街灯の薄明かりの下でも判った。
 藤真は、夏の湿気にまとわりつかれていた身体が冷えていくのを感じた。




 外では話しづらいと言う仙道を、藤真は仕方なく部屋に通す事にした。
 エアコンのスイッチを入れ、流れてくる涼しい風に気を緩める間もなく仙道に向き直り、
「何の話があるんだ?」
「そんなに急かさなくてもいいのに。藤真さん、シャワー使うんでしたら、俺、待ってますよ」
 突然の訪問、しかも招かざる客人である仙道のやけにのんびりとした返事に、藤真は苛つく自分を抑えるように努めて冷静な口調で、
「そんな事はどうでも良いから。それより、何の話だ。この前の事だったら、もうすんでるだろ…」
 自分が歓迎されていない事が判ったのだろう、仙道は首の辺りをぽりぽりとかきながら、
「もう、仕方ないなぁ。じゃあ、回りくどい事はやめます。そうです、この前の事です」
「今更、何がある? あれで終わったろ」
「あの時はね。あの時は、あれで終わりましたよ。でも、最後とも言わなかったですよ、俺は」
 しれっと言う仙道の言葉に軽い眩暈を覚えてしまい、つい、声を荒げてしまう。
「仙道、おまえ、何が言いたい? 何が言いたいんだよ?」

 キスマークをつけてもらう代わりに、仙道が要求してきたのは自分とのキスだった。簡単な事だと自分に言い聞かせ、お互いに欲しいものを交換しあっただけだ。
 それだけなのに、後ろめたさは中々消えてくれなくて、それでも、花形との間が自分の望むようになるにつれ、時々思い出す事はあっても忘れていられる時間も多くなってきていたこの頃だったのに…。

「藤真さん、あの時のキス、初めてでしょ?」
「それがどうした?」
 仙道は唇に人差し指を当て、
「少し震えてましたよ、唇が」
「な…に…」
「ああ、藤真さんは男とキスするの初めてなんだって思って。そうしたらね、欲しくなったんですよ。藤真さんの初めてをもらった訳だから、もう一つのものも欲しくなったんですよ。判りますか?」
「もう…一つのものって…」
 一番忘れてしまいたかった事を、簡単に思い起こさせられたことで生じた動揺は隠しようがなく、このままでは仙道の思う壺ではないか。その証拠に、仙道はこの状況を楽しんでいるように見える。
「なに、バカ言ってんだよ。そんな事、オレがOKするとでも思ったのか?」
「まぁ、思ってないですけどね。でも、そうしたら、俺、翔陽まで行って、花形さんでしたっけ。その人の前で藤真さんにキスでもしましょうか? 二度目って事で…」
「お…まえ…」
「人前でキスするなんて、俺はあんまり抵抗ないんですけどね。藤真さんは違うみたいですよね。特に、花形さんですか、あの人の前では…。あ、心配しているような事はないです。これっきりです。藤真さんの初めての男になれれば、俺はそれで良いんです。それが目的なだけですから」

 考えたことすらなかった要求に、もう何も言う事も身動きもできずにいると、近づいてきた仙道に顎に指をかけられて顔を上向かせられる。
 キッと睨む瞳と噛み締めた唇をみて、仙道は口元の端を上げてにやりと笑い、
「藤真さんのその顔、良いですね。悔しくて仕方がないって顔が色っぽい」
 そう良いながら息のかかる距離まで近づいた仙道は、
「俺は藤真さんを抱きたいだけ。一度だけで良い。それを藤真さんは拒めない」

 藤真は黙ったまま、花形に知られずにすむのならと目を閉じた。