やわらかい月-1-



 藤真が走る。その間を上手く交わして花形がドリブルからシュート体制に入る。が、その一瞬の隙を突いて、ボールを奪った藤真が回り込んでシュートを成功させる。
 ゴールポストのネットをすり抜けたボールが床に落ちてくるのを見ながら、かなり息の上がっていた二人は膝に手を乗せたまま呼吸を整える。
 先に身体を起こした花形が、
「今日はもうこの辺で良いだろ。これ以上してると明日に差し支えるし、そろそろ体育館の電気を消せって言ってくる頃だしな」
 まだ少し荒い息の藤真も花形の言葉に軽く頷くと、
「だな。ここまで付き合ってくれてありがと。ひとりでするより助かったよ」
「どういたしまして。藤真の居残りに付き合うのは俺の為にもなるから、気にしないように」
 汗で濡れた眼鏡を拭きながら花形には珍しく、少しおどけた調子でいうと、藤真ははにかむような笑みを浮かべて目を伏せた。
 長い睫が影を落とすように少し俯いた藤真を見つめていた花形は、二人だけで練習を始めた頃を思い出した。

 練習後の体育館の後片付けは数人づつの当番制になっていたはずなのに、その時だけは珍しく藤真とふたりだけでする事になった。花形はさっさと片づけを終えて帰りたかったのだが、藤真からせっかく二人だけしかいないのだからもう少し練習をしたいと花形に頼み込んだのがきっかけで、それからは、片付けを終えた後、藤真の居残り練習に付き合うようになっていったのだ。
 翔陽の並み居る先輩たちを押しのけて一年生でレギュラーに抜擢される藤真のバスケセンスは本当に凄いと花形はいつも思う。けれど、その影で人知れずに努力を怠らない彼が居る事を、きっと誰も知らないのではないだろうか。花形自身がそうだったように。今は藤真と練習をしながら、一日も早く一緒に試合に出られるようにと必死に追いかけている花形だった。

「何ぼんやりしてるんだよ。早く片付けてシャワー室にいくぞ」
 汗を拭く事も忘れて考え事をしている花形にタオルを投げてよこした藤真は、さっさと片付け始めていた。
「ああ、すまん。すぐ手伝うから」
 転がっているボールを集めて籠にいれ、用具室へ運んでいく。その後のモップがけが終わると体育館の鍵を閉めて、運動部専用のシャワー室まで歩いていく。
 藤真はその間も花形相手にバスケの話ばかりをしている。今度は違うパスを試してみたい、シュートも試してみたいと、まるで小さな子供が楽しい事を見つけて仕方がないと言うような笑顔で話す藤真のくるくる変わる表情は、見ていて飽きない。花形は時に目を眇めながら、そんな藤真の聞き役になっている事が多かった。

 シャワー室はバスケ部が最後だったのだろう、だれもいなくて、二人は気を使わなくてすむなと顔を見合わせて笑い、汗で濡れたシャツやショートパンツを脱ぎ捨て、腰にタオルを巻いただけの格好でコックを捻り、シャワーを浴びる。
 申しわけ程度の仕切り板のおかげで隣で髪を洗っている藤真が目に入り、黙々と身体を洗っていた花形は、いつもその後姿に目をやってしまう。
 藤真の背中を泡が滑るように流れ落ちていっている。
 日焼けをしても紅くなるだけで直ぐに元に戻ってしまう体質なのだと、花形相手に何度も愚痴を零している藤真の肌は、男にしては白い方だと思う。体育館の中での練習が圧倒的に多く、焼けている暇がないのだろうと慰めの言葉をかけても、口を尖らせて諦めの悪いところを見せてしまう程、そんな体質が不満で仕方がないらしい。
 そんな事を考えている間に泡はすっかり流されて、花形の目の前には藤真の背中がはっきりと現れた。

 ―――あぁ、また…

 藤真の背中に紅い痕が付いている。眼鏡をかけていなくても手を伸ばせば届く近さだったから、それは本当によく見えた。白い肌の上を幾つもの赤い痕が、最初はうっすらと、やがてはっきりと浮かんできていた。

 ―――消えかけてたのにな…

 隣で動きが止まっている花形を藤真は振り向いて、
「花形、また、ぼんやりして。おまえ、今日はぼんやりが多いな。どこか具合でも悪かったか?」
「ああ…、いや、そうじゃなくて…」
 花形の正面を向いた藤真の胸や鎖骨の辺りにも、やはり背中と同じような赤い痕が幾つも散らばるように浮かんでいる。
 見慣れていたものなのに、今日は何故かそれ以上は見ていられなくて、花形は急いで髪を洗い始め、藤真から目を逸らした。
「走りっぱなしで疲れたんだよ。誰かさんのおかげで」
「悪かったね、俺ばかりはしゃいでさ」
 くすくす笑いながらそんな事を言う藤真は、花形が何に気が付き、顔を背けるようなことをしたのか、まるで気が付いていないようだった。たとえ気が付いていたとしても、藤真はそんな事をいちいち気にするような男でもない。
 初めて藤真の肌に付いているキスマークを見つけた時から、誰かとの付き合いがある証拠を本人は特に隠す事をしなかった。遊んでいるようには見えない藤真にとって、その付き合いが後ろめたいものではないからだろう。
 ただ、花形には、試合が始まればきりっと張り詰めた緊張感に包まれる彼と、人知れず懸命に練習している彼や花形の前で時折見せる幼い表情をする彼と、それらとは離れたところにあるらしい別の顔をした藤真とが、どうしても同じ人だとは思えなくて、どうにも結びついてくれないのだ。
 知り合ってまだ一年と少し。クラスも違う。校内で一緒に過ごす時間と言えば、たまにみんなとお昼を食べたりもするが、部活以外には殆どない。ましてや、花形自身にだって誰も知らない秘密とも言えない様なものがあるのだから、藤真のプライベートに関して知らない部分があったとしても何ら不思議ではないはずなのに。そう頭では判っているのに、花形の心の隅に住み着いた小さな違和感は、いつまで経っても消えないでいる。

 部室で帰り支度を終え、外へ出たときには、辺りはすっかり日が落ちていた。
 駅までの道をのんびりと歩きながら、藤真は花形に聞き役になってもらって、バスケ部のこれからの事やクラスで起こった他愛ない喧嘩話をしている。

 ―――ギャップがありすぎるんだろうなぁ…

「花形?」
「…ん?」
「さっきから何か考え事してるだろ。人の話、聞いてるみたいな顔してるけど、聞いてないな」
 藤真の事が気になっていると言っても、それを表に出しているつもりはないのに、藤真には何かに気を取られているように見えてしまうのだろうか。
「そんな事ないって。だけど、藤真は今日はおかしいぞ、そればっかり言ってくる」
 藤真は直ぐには返事をせずに、見上げていた花形から目を離した。まっすぐ前を見ながら、
「それは、花形の考えすぎ。もしかして、花形、好きな女の子でもできたんじゃないのか?」
「だと良いけどな、残念な事にそういう可能性は全くなしだ。そんな時間なんて、ないよ」
「もてるのに勿体ないのな、花形くんは」
「お前にだけは言われたくない」
 お互いに肘で突付きあっては冗談を言い合う。
 花形は、今自分の目の前にいる無邪気な藤真の反対側にいるもう一人の藤真に興味を覚えずにはいられなかった。

 ようやく駅の改札口に着いた時、部活帰りは一駅違うだけだからと一緒に帰っていた藤真から
「あ、俺、寄るとこあるから、反対側の電車に乗るわ」
「そっか。明日、創立記念日で休みだからって、夜遊びが過ぎないようにな」
 はいはいと手を振りながら、反対側のホームへ向かうために階段を下りていく藤真の背中を見送った花形は、自分が乗る電車が入ってきたホームへ急いで歩いていった。

 遊び過ぎないように

 何気なくかけた言葉に、藤真はいつもの笑顔を一瞬強張らせたように見えた。
 藤真のプライベートな事に一度も口を出した事がなかったから、少し驚いたのだろうか。或いは、藤真の肌の消えかけていたキスマークが、また色濃く付けられていたことで、普段は忘れている奇妙な違和感を思い出してしまって、いつもよりは気になっていたからそんな風に見えただけなのかもしれない。
 始めは近寄りがたい存在だった藤真が、時が経つにつれて少しづつ話をするようになり、気が付けば親友のような間柄になっていた。藤真のすべてを知っている訳ではないこと位は承知しているはずなのに、どこかで勘違いをしていたのだろうか。
 近い存在だと思っていた藤真が、本当は遠いところにいるのだと思い知らされ、自分の知らない藤真を知っている誰かに、嫉妬でもしているのだろうか。

 ―――いったい俺は、何がこんなに気になっているんだろう…

 電車に乗った後、椅子には座らずにドアの側に立ったままの花形は、窓の外の景色が通り過ぎていくのをぼんやりと眺めていた。
 窓ガラスには、雨粒がぽつぽつと当たり始めていた。